ナスル朝
A.D.1237〜A.D.1492
イベリア半島最南部に13世紀から15世紀末まで存在していたイスラム王朝。1492年、この王朝がスペイン帝国に征服されたことで、キリスト教勢力によるレコンキスタが完了した。
グラナダに首都を置いたため、グラナダ王国、ナスル朝グラナダ王国などとも表記される。国家の規模としては小さかったが、巧みな外交政策などを通じて独立を維持し、アルハンブラ宮殿にみられるような文化的遺産を後世に残した。
ナスル朝
イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の発展
西方イスラーム世界
ムワッヒド朝のナバス・デ・トロサの戦いの敗退後、イベリア半島では、最後のイスラーム王朝となったナスル朝(1230〜1492)が、わずかにグラナダとその周辺地域を保っていた。しかし1479年、アラゴンとカスティーリャの統合によってスペイン王国が成立すると、イスラーム教徒に対するレコンキスタの圧力はさらに強まった。そして1492年にスペイン王国がグラナダに入城し、イスラーム教徒の多くは北アフリカに引き揚げた。これによって、800年余にわたって続いたイベリア半島のイスラーム時代は終わりを告げた。
彼らが残したアルハンブラ宮殿は、華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様によって、イベリア半島における末期イスラーム文化の美しさを今に伝えている。
歴史
建国
これにより、アンダルスは「第三次ターイファ(分立している集団)」と呼ばれる時代を迎え、都市有力者のマーリク派法学者やアンダルス系軍事小集団(イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯の軍事集団)の指導者の政権が乱立した。
その中で、1232年アンダルス系軍事集団の指導者だったムハンマド1世(ムハンマド・ブン・ユースフ(イブン・アフマル))がハエン近くのアルホーナ(Arjona)で蜂起し、ターイファ(分立している集団)の1国となった。
1237年 (1238年ともいわれる)、ムハンマド1世が都を正式にグラナダに定めた。この後、さらにアルメリア、マラガへ進出し、アンダルス南部に勢力を確立した。当時、カスティーリャ王国に代表されるキリスト教勢力がレコンキスタを展開しており、ナスル朝グラナダ王国以外にもいくつかのイスラーム小王国が存在していたが、13世紀前半までにその多くがカスティーリャ王国に征服されていた。そのため、ナスル朝はイベリア半島におけるイスラーム勢力最後の牙城として位置づけられるようになった。
ナスル朝成立当初、ムハンマド1世はハフス朝に従っていたが、その宗主権を認める相手をアッバース朝、ムワッヒド朝と状況に合わせて変えながら、周囲の勢力の間をぬって国を発展させていった。キリスト教徒とも関係を持ち、1232年のフェルナンド3世(カスティーリャ王)によるコルドバ征服にも協力した。けれども、フェルナンド3世が根拠地ハエンの攻略を開始したことから、ムハンマド1世は臣従と貢納金の支払いを行なうことなり、さらには1246年ハエン一帯をカスティーリャ王に割譲することとなった。このため、ムハンマド1世はムスリム君主でありながらカスティーリャ王の封建的家臣という立場となり、その征服事業にも軍を派遣した。
グアダルキビール川流域のハエン一帯を割譲したことにより、領土の損失は大きかったものの、山岳地帯のグラナダ周辺を主とする領土となり、守るには有利な状況となった。また、フェルナンド3世(カスティーリャ王)への臣従により平和が続き、内政に専念することができたため、アンダルス各地から知識人、手工業者の流入があり、その後の繁栄をみることとなった。
アシキールーラ家の反乱とムデハル反乱
アシキールーラ家のアブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世と同郷で、さらにナスル家と姻戚関係にあり、建国の功労者であった。また、アシキールーラ家はナスル朝の軍事を取り仕切り、マラガの太守でもあって、アブー・アルハサン・アリーはムハンマド1世の実質的共同統治者の如き存在であった。
1264年、カスティーリャ王国のアンダルシーア地方(ヘレス、アルコス及びムルシアなど)では再植民運動により入植した民衆と、ムデハルの農民、手工業者との軋轢が高じてきていた。この状況からムデハルは、アルフォンソ10世(カスティーリャ王)の再征服運動の拡大に危機感を抱いたムハンマド1世の支援のもと反乱を起こした。これにより、ムハンマド1世はアルフォンソ10世の宗主権を離れ、マリーン朝に援軍を求めカスティーリャ王国とは戦争状態となった。
1266年、アシキールーラ家はマラガとグアディクスで反乱を起こした。この反乱の原因は、1257年ムハンマド1世が後継者にムハンマド2世を指名したことに対し共同統治者という意識のあったアシキールーラ家は不満を抱き、さらにムデハル反乱においてマリーン朝の援軍を求めたことから、軍事を統括していた地位を脅かされたと感じたこと、あるいはムハンマド1世及び2世がマーリク派法学を支持していたのに対し、神秘主義(スーフィズム)を奉じていたアシキールーラ家が対立したことが考えられている。この反乱に際し、アシキールーラ家はアルフォンソ10世(カスティーリャ王)に救援を求め、ムハンマド1世と対立した。これに対し、ムハンマド1世はマリーン朝に援軍を求めたものの、マリーン朝からの支援ははかばかしくなく、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に和約を結ぶこととなった。この反乱は後継者のムハンマド2世によってようやく鎮圧され、アシキールーラ家はモロッコへ逃れた。
この間、ムハンマド1世はムデハルの反乱に乗じ、一時はカスティーリャ王国領のヘレス及びムルシアを手中にした。けれども、ムハンマド1世はアシキールーラ家の反乱に対応するため、カスティーリャ王国と1266年に結んだ和約に基づきヘレス及びムルシアを放棄することとなった。これにより、カスティーリャ王国はナスル朝の介入を排除し、アラゴン王国の支援を受けムデハル反乱を鎮圧した。
カスティーリャ王国とマリーン朝との間での動き
13世紀後半になると、ジブラルタル海峡を押さえるアルヘシラス、ジブラルタル ロンダ及び海峡周りの諸都市が攻防の対象となった。ここで、マリーン朝のアンダルスへの介入が活発化し、ジブラルタル海峡をめぐりマリーン朝、カスティーリャ王国間の戦いが度々行なわれた。
1275年以降マリーン朝のアブー・ユースフ(マリーン朝王)はカスティーリャ王国の内紛に乗じアンダルスへの介入を行なった。その子アブー・ヤアクーブも1291年に侵攻を行なったが、ナスル朝の離反により失敗し、さらに翌1292年にはタリファをカスティーリャ王国に奪われてしまった。
14世紀に入り、マリーン朝の内紛と隣国との抗争による弱体化を受け、ナスル朝のムハンマド3世はジブラルタル海峡の制圧をもくろみセウタ攻略を図ったものの、周囲のカスティーリャ王国、アラゴン王国、マリーン朝の包囲を受け撤退した。14世紀のナスル朝での軍事力の中心は、マリーン朝の政治抗争に敗れナスル朝に逃れたベルベル系部族集団であった。これら軍事集団はその力を基にナスル朝宮廷の内紛に干渉し、その不安定をもたらす要因となった。
最盛期
14世紀半ば、マリーン朝の内紛を収拾したアブー・アルハサン・アリーはイベリア半島へのジハードを開始した。
このマリーン朝、ナスル朝連合軍がカスティーリャ、ポルトガル連合軍に対する戦闘(サラード川の戦い)で敗れ、両国間の勢力均衡が崩れた。このことは、単独でカスティーリャ王国に対抗することが困難であったナスル朝にとって、独立を危ぶませる事態であった。けれども、この時期(14世紀半ば)にヨーロッパ全域を襲ったペスト(黒死病)によりカスティーリャ王国も大打撃を被ったこと、キリスト教勢力であるカスティーリャ王国とアラゴン王国の対立、さらにカスティーリャ王国の内紛などが重なり、レコンキスタのさらなる進展に足止めがかかった。また、マリーン朝はこの後大規模な軍をアンダルスに派遣することがなくなり、ナスル朝への介入もなくなった。こうした状況下で、ナスル朝はその命脈を保つとともに、徐々に国力を発展させていった。イタリアのジェノヴァ商人などとの交易活動も、経済的繁栄の一因となった。
14世紀後半、ムハンマド5世の治世下で、ナスル朝はその最盛期を迎えた。ムハンマド5世は、マリーン朝からはアンダルスにおける拠点となっていたロンダ及びジブラルタルを獲得する一方で、カスティーリャ王国からはアルヘシラスを奪回し、エンリケ2世(スペイン王)とは和約を結んで貢納金の支払いも停止した。これにより、マリーン朝の介入を完全に排除し、さらには内紛の続くマリーン朝への介入まで行なうようになった。またムハンマド5世は、ムハンマド1世の代から造営が行なわれていたアルハンブラ宮殿に、先代ユースフ1世に続いて大規模な改修を行ない、イスラーム美術の到達点を示す宮殿群を築いた。
衰退から滅亡
しかし15世紀に入ると、1410年には重要な都市アンテケーラがフェルナンド1世(アラゴン王)の攻撃により陥落し、またこの頃にはカスティーリャへの貢納金が復活するなど、再びナスル朝は危機を迎えた。キリスト教勢力のカスティーリャ王国とアラゴン王国が接近し始めたことで、両国の対立を外交上利用することが困難になる一方、近隣の地中海沿岸などに強力なイスラーム国家は存在せず、友好的なイスラーム勢力との外交を通じた安全保障も困難になっていた。
ポルトガル王国によるセウタ占領(1415年)、カスティーリャ王国によるジブラルタル占領(1462年)によりジブラルタル海峡がキリスト教徒のものとなり、ナスル朝にとっては貿易のみならず、兵力の調達が困難となった。また、政情不安にともなってジェノヴァ商人の足もナスル朝から遠のき、経済的にも影響が大きかった。さらに、ナスル朝内部でも王族間では君主位をめぐる対立や、マラガ、グアディクスでの王族の割拠による分裂があった。また、有力家門の間でも王族を巻き込んだ政治闘争が続き、一時はカスティーリャ王国もこれに巻き込まれたこともあった。また、カスティーリャ王国とアラゴン王国の連合が成立し、カトリック両王による攻勢が強まっていった。
このような内紛と外寇の続くなかで、アブルハサン・アリーはカスティーリャ王国への貢納を拒否するだけでなく、攻撃を開始した。戦闘は、同王国の報復を招いただけで、ナスル朝を利することはなかった。さらにアブルハサン・アリーは、息子ムハンマド11世(ボアブディル)が反乱を起こし1482年にグラナダを奪ったため、マラガへ撤退し国は二分されてしまった。翌1483年ムハンマド11世はルセーナに対し攻撃を行なったものの敗れ、カトリック両王の捕虜となってしまった。このため、彼の父アブルハサン・アリーが2年間復位した後に、その弟ムハンマド12世がアルメリアで即位した。捕虜となったムハンマド11世は釈放され、叔父ムハンマド12世とは一旦は1486年にその即位を認める事態があったものの、抗争を繰り返した。同じ1486年には、ムハンマド11世がムハンマド12世のいるグラナダの一部を占拠し、この間マラガ、アルメリアなど次々にムハンマド12世の勢力圏の主要都市がキリスト教徒に攻略されていくなかで、ムハンマド12世はグラナダでカスティーリャ軍との戦いに敗れティリムサーンに落ち延びた。この状況にあっても、ムハンマド11世は対抗するムハンマド12世の勢力への援軍を送らなかった。
滅亡とその後
キリスト教徒の征服が差し迫った1487年、グラナダの法学者たちはムハンマド11世に対し、マムルーク朝に使節を派遣し救援を求めるよう迫ったが、マムルーク朝の援軍は派遣されず、グラナダ攻略の見合わせを求めるキリスト教修道士(聖墳墓教会)2名がカトリック両王に派遣されただけであった。
1491年春にフェルナンド2世の1万騎の軍勢によりグラナダは包囲され、年末には籠城側の窮乏は限界となった。1491年末にムハンマド11世とカトリック両王間で降伏協定が結ばれ、1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した。最後のナスル朝君主であったムハンマド11世は、一旦は開城時の協定により与えられたシエラネバダ山中の所領(アブ・バシァラート)に退いたものの、後にフェズへと亡命し、ナスル朝は滅亡した。
1492年3月末にスペイン王国のユダヤ教徒に対して改宗か国外退去を命じるユダヤ人追放令が出された。これはコンベルソ(キリスト教へ改宗したユダヤ教徒)のカトリック信仰を徹底するためのもので、これの障害となるユダヤ教徒との接触を根絶するためのものであった。
1499年10月にグラナダに赴任した枢機卿シスネロスはムデハル(キリスト教徒支配下のイスラーム教徒)に対し強制的な手法(クルアーンの焼却など)を用いたために反乱を招くこととなった。この反乱を開城時の協定に対する違反と見たカトリック両王は、1502年にカスティーリャ王国(この段階でのスペイン帝国は連合王国であり、そのうちのカスティーリャを指す)でムデハルに改宗を迫る法令を出し、後にスペイン全域にまで拡大された。
貿易
ナスル朝期には既に地中海貿易においてアンダルス商人の活躍はみられず、ジェノヴァ商人をはじめとするキリスト教徒がその多くを担うようになった。ナスル朝では王族自身がイタリアとの絹貿易、サトウキビなどの商品作物栽培に関与したことから、販路確保のためジェノヴァ商人には特権が与えられマラガ、グラナダに常駐し、その産物をヨーロッパ各地に輸出した。輸入品としては、フランドル、イングランド産の毛織物、東地中海からの香辛料、マグリブからの金、黒人奴隷があった。ナスル朝期の輸入品で特に重要だったのがマグリブからの穀物で、これは大量に流入してきた都市住民の需要をグラナダの後背地だけでは満たすことができなかったものであった。15世紀に入ってからは、グラナダの政情不安からジェノヴァ商人がグラナダから撤退するようになり、グラナダ経済にとって大きな打撃となった。
歴代君主
- ムハンマド1世(ナスル朝)(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)
- ムハンマド2世(ナスル朝)(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)
- ムハンマド3世(ナスル朝)(Muhammed III、1302-1309)
- ナスル(ナスル朝)(Nasr、1309-1314)
- イスマーイール1世(ナスル朝)(Ismail I、1314-1325)
- ムハンマド4世(ナスル朝)(Muhammed IV、1325-1333)
- ユースフ1世(ナスル朝)(Yusuf I、1333-1354)
- ムハンマド5世(ナスル朝)(Muhammed V、1354-1359, 復位1362-1391)
- イスマーイール2世(ナスル朝)(Ismail II、1359-1360)
- ムハンマド6世(ナスル朝)(Muhammed VI、1360-1362)
- ユースフ2世(ナスル朝)(Yusuf II、1391-1392)
- ムハンマド7世(ナスル朝)(Muhammed VII、1392-1408)
- ユースフ3世(ナスル朝)(Yusuf III、1408-1417)
- ムハンマド8世(ナスル朝)(Muhammed VIII、1417-1419, 復位1427-1430)
- ムハンマド9世(ナスル朝)(Muhammed IX、1419-1427, 復位1430-1431, 再復位1432-1445, 再々復位1447-1453)
- ユースフ4世(ナスル朝)(Yusuf IV、1431-1432)
- ユースフ5世(ナスル朝)(Yusuf V、1445-1446)
- イスマーイール3世(ナスル朝)(Ismail III、1446-1447)
- ムハンマド10世(ナスル朝)(Muhammed XI、1453-1454, 復位1455)
- サード(ナスル朝)(Said、1454-1455, 復位1455-1462, 再復位1462-64)
- イスマーイール4世(ナスル朝)?(Ismail IV、1462)
- アブルハサン・アリー(ナスル朝)(Abu l-Hasan Ali、1464-1482, 復位1483-1485)
- ムハンマド11世(ナスル朝)(ボアブディル) (1482-1483、 復位1487-1492) (従来ムハンマド12世(ボアブディル)とされてきた。)
- ムハンマド12世(ナスル朝)(ザガル) (1485-1487) (従来ムハンマド13世(ザガル)とされてきた。)
参考 Wikipedia