ナポレオン戦争( A.D.1796〜A.D.1815)
フランスのナポレオン1世時代に行われた戦争の総称。近代装備の国民軍からなるナポレオン軍に、イギリスを中心とする対仏大同盟諸国が対抗した。革命防衛戦争から大陸制圧の侵略戦争へと転換したが、後半は各国のナショナリズムが成長し、反ナポレオン体制の戦いとなった。
ナポレオン戦争
フランスのナポレオン1世時代に行われた戦争 (1799~1815) の総称。近代装備の国民軍から成るナポレオン軍に対抗したのは、イギリスを中心とする対仏大同盟諸国であった。 1800年マレンゴの戦い、ホーエンリンデンの戦いでオーストリアを撃破。 03年対イギリス戦が再開され、05年第3回対仏大同盟が結成されると、トラファルガルの海戦でイギリスに敗れたが、大陸ではアウステルリッツの三帝会戦にロシア=オーストリア軍を破り、さらにイエナ、アウエルシュテットの戦い (06) 、アイラウの戦い (07) にプロシア=ロシア軍を撃破しティルジット条約を結んだ。このように戦争は、革命防衛戦争から大陸制圧の侵略戦争へと転換したが、後半は各国のナショナリズムが成長し、スペインの半島戦争 (08~14) から諸国民解放戦争 (13~14) にいたる反ナポレオン体制の戦いとなった。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
ナポレオン1世が指揮したヨーロッパ征服戦争。対象は英、イタリア、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、ポルトガル等に及ぶ。フランス革命が生んだ独立農民が愛国的国民軍として活躍したことは、戦争の歴史において大きな画期となった。またこの戦争によって諸国にナポレオン法典がもたらされ、旧体制の崩壊と近代化につながったことも無視できない。だが、皮肉なことにこの近代化は民族意識をも覚醒させ、反ナポレオン運動を招いた。当初は(とくに英国に対する)自国防衛のための戦争だったが、経済の市場拡大の要求とも結びついており、次第に侵略戦争の色合いを増した。英国を中心とする対仏大同盟軍と数次にわたって戦いをくりひろげたが、1815年のワーテルローの戦での敗戦とナポレオンの退位によって終止符がうたれた。 → エジプト遠征/アウステルリッツ会戦/トラファルガーの海戦/大陸封鎖/モスクワ遠征/解放戦争
参考 百科事典マイペディア
ナポレオン戦争
時代 | 年 | 戦争 | 結果 | ナポレオン |
総裁政府 | 1796〜97 | 第1次イタリア遠征 オーストリアを連破 | カンポ=フェルミオの和約(対澳 1797.10) 第1回対仏同盟解体 | 軍司令官 |
1798〜99 | エジプト遠征 | オスマン帝国に勝利 アブキール湾の海戦でイギリス海軍に敗れる |
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統領政府 | 1799 | ブリュメール18日のクーデタ | フランス革命の終焉 | 第一統領 |
1800 | 第2次イタリア遠征 | |||
1802 | アミアンの和約(対英) 第2回対仏大同盟を解体 |
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第一帝政 | 1804 | ナポレオン法典公布 | 皇帝 | |
1805 | トラファルガーの海戦 | ネルソンのイギリス艦隊にフランス・スペインの連合艦隊が敗れ | ||
1805 | アウステルリッツの三帝海戦 | オーストリア・ロシア連合軍を撃破 第3回対仏大同盟を解体 |
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1806 | ライン同盟成立 神聖ローマ帝国消滅 |
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1806 | イエナ・アウエルシュタットの戦い | プロイセンに大勝 ティルジット条約 ワルシャワ大公国成立 |
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1812 | ロシア遠征 | 撃滅的敗退 | ||
1813 | ライプツィヒの戦い | ヨーロッパ諸国連合軍に敗れパリ陥落 ナポレオン、エルバ島に配流 | 退位 | |
王政復古 | 1814 | ルイ18世即位 | ||
百日天下 | 1815 | エルバ島を脱出 | 復位 | |
1815 | ワーテルローの戦い | ヨーロッパ諸国に敗れセントヘレナ島に配流 | 退位 |