バクトリア王国 (紀元前255年頃〜紀元前130年頃) グレコ・バクトリア王国とは、ヒンドゥークシュ山脈からアム川の間(現在のアフガニスタン北部、タジキスタン、カザフスタンの一部)に、バクトラを中心として建てられたギリシア人王国で、代表的なヘレニズム国家の一つ。グレコ・バクトリア王国は支配体制が未整備だったため、王統交替・勢力盛衰が頻繁で王権が弱く、地方の王が権力を持ちしばしば国家が分裂した。名称のグレコ・バクトリアとは、ギリシア人のバクトリアという意味で、単にバクトリアやバクトリア王国とも呼ばれる。
バクトリア
オリエントと地中海世界

古代オリエント世界
バクトリアとパルティア
属州時代
ザグロス山脈の東方、アフガニスタンにいたる広大な地域は、イラン系民族の居住地であった。この地域の大部分は高原性台地であるが、砂漠もあれば、農耕を可能にする降雨や水流がえられる地方もあった。このような自然条件に対応して、住民は地域により農耕か遊牧で生計を立ててきた。アケメネス朝(紀元前550〜紀元前330)のもとでは属州に編成されて発展したが、紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世に征服され、その死後はセレウコス朝(紀元前312年〜紀元前63年)の支配下におかれた。セレウコス朝は当初バクトリアからアナトリアやシリアまでを領域とし、都市化政策を推進した。イラン地方にも都市建設をおこない、多数のギリシア人を入植させた。しかしやがてセレウコス朝の支配が低下するのにともない、各地の有力家系が王朝をきずいて独立した。バクトリア王国
もっとも早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。その後バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。この王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えた。その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになった。トハラ人はスキタイ系遊牧民の一派。バクトリア王国を倒したが、紀元前1世紀には大月氏に支配された。中国史料に現れる大夏ではないかといわれる。
アジア・アメリカの古代文明
インドの古代文明
西北インドの情勢
西北インドでは、マウリヤ朝崩壊後に中央アジア方面からの異民族の侵入が相次いだ。まず到来したのはバクトリア王国のギリシア人で、紀元前2世紀初めから侵入を開始し、同世紀の後半に本国バクトリアの領土を失うと、パンジャーブ地方に本拠地を移した。ギリシア人の諸王のなかでは紀元前150年ころにでたメナンドロス1世が名高い。仏教文献の『ミリンダ王の問い』によると、この王はギリシア的信仰を捨て仏教の信者になったという。 紀元前1世紀に入りギリシア人勢力が衰えたころ、新たに中央アジア系の遊牧民であるサカ族(インド・スキタイ族)とパルティア族の侵入が相次ぎ、さらに1世紀の後半にはクシャーナ族が南下して西北インドを支配下においた。 西北インドの情勢 – 世界の歴史まっぷ参考
詳説世界史研究遺跡

タフテ・ソレイマーン
イラン・西アーザルバーイジャーン州のタカブの近郊にあるゾロアスター教及びサーサーン朝の聖地。2003年7月3日、ユネスコの世界遺産に登録された。名称はペルシア語で「ソロモンの玉座」を意味する。歴代王
- ディオドトス1世(紀元前250年頃 – 紀元前240年頃)
- ディオドトス2世(紀元前240年頃 – 紀元前230年頃)…ディオドトス1世の子。
- エウテュデモス1世(紀元前230年頃 – 紀元前200年頃)…ディオドトス朝から王位簒奪
- デメトリオス1世(バクトリア王)(紀元前200年頃 – 紀元前180年頃)…エウテュデモス1世の子。北西インド進出、タクシラ占領
- エウテュデモス2世(紀元前180年代)…デメトリオス1世の子
- アンティマコス1世(紀元前185年頃 – 紀元前171年)…デメトリオス1世の弟
- エウクラティデス1世(紀元前171年 – 紀元前145年頃)…エウテュデモス朝から王位簒奪
- プラトン(紀元前145年頃)…エウクラティデス1世の子?
- エウクラティデス2世(紀元前145年頃 – 紀元前140年頃)…エウクラティデス1世の子
- ヘリオクレス1世(紀元前145年頃 – 紀元前130年頃)…エウクラティデス1世の子、プラトンの弟?