バトゥ
ワールシュタットの戦い ©Public Domain

バトゥ (1207年〜1256年)

チンギス=ハンの長男ジョチの次男。漢語では抜都、巴禿、八都罕。
キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。

バトゥ

生涯

1224年、父ジョチの死によりジョチ家の当主となる。
バトゥの異母兄オルダは病弱がちだったため、次男で母の家柄もよかったバトゥが当主となった。オルダの母もバトゥの母も同じコンギラト氏族の出自であったが、おそらくバトゥの家督継承には彼の母がコンギラト部族の宗主アルチ・ノヤンの娘であったことも大きく関係していると思われる。

バトゥの西征

モンゴル帝国の最大領域地図
モンゴル帝国の最大領域地図 ©世界の歴史まっぷ

1236年、モンゴル帝国第2代皇帝オゴタイ=ハンの命を受けてバトゥはヨーロッパ遠征軍の総司令官となり、四駿四狗の一人であるスブタイやチンギス=ハンの四男トルイの長男であるモンケ、そしてオゴタイ=ハンの長男であるグユクらを副司令として出征した。 『元朝秘史』によれば、各王家の長子クラスの皇子、帝国全土の王侯・部衆の長子など次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが一斉に出征するという大規模なものだった。
バトゥは遠征軍に参軍する皇子たちを統括し、グユクはそのもとで皇帝オゴタイ=ハンの本営軍から選抜された部隊を統括するよう勅命によって定められていたことが続けて述べられており、加えて『集史』によれば、チンギス=ハンの功臣筆頭のボオルチュの世嗣ボロルタイがこのバトゥの本営・中軍の宿将としてこれを率いていた。

  • ジョチ家: 総司令バトゥを筆頭に、異母兄オルダと異母弟ベルケ、シバン、タングト。
  • チャガタイ: チャガタイの長子モエトゥケンの次男ブリ、その叔父にあたるチャガタイの6男バイダル。
  • オゴタイ=ハン家: 長子グユク、その末弟カダアン・オグル
  • トルイ家: 長子モンケと7男ボチェク。
  • チンギス家: チンギス=ハンと次席皇后クラン・フジンとの子コルゲン。

遠征軍の征服目標はジョチ家の所領西方の諸族、アス、ブルガール、キプチャクの諸勢力、ルーシ、ポーランド・ハンガリー方面であり、「ケラル」と称されるおそらくさらに西方のドイツ、フランス方面までも含まれていたと思われる。

ブルガール、キプチャク方面の征服

遠征軍はこの年の夏中を移動で過ごし、秋までに当時のジョチ家のオルドがあったイリ方面にまで到着した。
1236年から1237年までの冬季に、遠征軍はまずアス人とブルガル人の征服に取り掛かった。
宿将スブタイはヴォルガ・ブルガール地方に入るとブルガル市を攻撃。その首長バヤン、ジクらが一度遠征軍のモンゴル王侯らに帰順を表明してきたがまもなく離反し、スブタイがこれらの服属工作を任され、これを達成した。
1237年の春、遠征軍はキプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施し、左翼をモンケに任せた。モンケの左翼軍はカスピ海沿岸を進軍し、キプチャクの有力首長バチュマンとアスの首長カチャル・オグラと交戦、捕殺した。遠征軍はこれによりカスピ海沿岸地域で夏営した。
この時期にカスピ海沿岸からカフカス北方までの地域にいたブルタス族、チェルケス族、サクスィーン人(アストラハン周辺)などが帰順・征服された。

ルーシ諸国の征服

1237年秋、ルーシ(現ロシア)方面に侵攻。12月下旬にはリャザン(旧リャザン)、コロムナが劫略された。
1238年に入り2月にはウラジーミル大公国を攻略し3月にはウラジーミル大公ユーリー2世と交戦しこれを討ち破って戦死に追いやった。
ルーシ北部諸国の多くが征服される一方でノヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガーリチ公ダニールらの帰順を受けている。この征服戦でまだ小村であったモスクワも攻略されたと見られている。
その後遠征軍は南に進路を転じてコゼリスクを陥落させ、カフカス北部方面へ一時撤退、諸軍を休養させた。
この年の4月から翌1239年にかけてはカフカス北部の諸族の征服を行った。
このころ総司令官バトゥはグユク、ブリらと論功行賞などで激しく対立し、その報告を受けたオゴタイ=ハンの帰還命令によってグユクとモンケは1239年の秋には遠征軍を離れてモンゴル本土へ出発した。
1240年初春にはルーシ南部に侵攻し、キエフ大公国を包囲して同地を攻略・破壊した。
当時キエフは大公位を巡ってルーシ諸国全体が争奪を激しくしており、モンゴル軍の侵攻に対処できなかった。
またモンゴル側ではコルゲンがコロムナの包囲戦で戦死している。

ハンガリー、ポーランド、中欧の征服

1240年後半から1241年 モンゴルのポーランド侵攻
1240年春、バトゥはカルパチア山脈の手前で遠征軍を5つに分け、ポーランド方面とワラキア方面、カルパチア正面からトランシルヴァニア経由でハンガリー王国へ侵攻した。

まず西方では右翼のオルダの支軍がポーランド王国(ピャスト朝)に侵攻し、3月にはクラクフを占領。
続いてバイダル率いる前衛軍が1241年4月にはレグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い)でポーランド軍を破ってポーランド王ヘンリク2世を敗死させた。
シレジア、モラヴィア地方も「ペタ」なる人物の侵攻を受けたようだが、これはバイダルのことと考えられている。カダアン、ブリ率いる軍はカルパティア山間に居住していたサーサーン人(おそらくザクセン人)を破り、ボチェクの軍は山脈のワラキア人と思われる集団を撃破している。

一方同年3月にはバトゥの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ベーラ4世に降伏勧告を行った。やがてモラヴィアからバイダル、カダアンおよびスブタイが合流し、ペシュト市を陥落させている。
ティサ川流域のモヒー平原でハンガリー王ベーラ4世と対峙、宿将スブタイおよびシバンの前衛部隊が夜半にベーラ4世の幕営を急襲して破り、ベーラ4世はオーストリア経由でアドリア海へ敗走した。こうしてモンゴル軍はハンガリー全土を支配・破壊するに至った。まさにバトゥの行くところ、敵無しの状況だったのである。

続く1241年はカダアンらによるトランシルバニア全域の征服や、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力の掃討などが行われた。夏から秋にかけてはバトゥの本隊はドナウ川河畔に幕営したのち、冬には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市を包囲攻撃した。

オゴタイ=ハンの訃報とハンガリー以西からの撤退

しかし1241年12月21日にオゴタイ=ハンが死去すると、ほどなくバトゥの本陣にもその訃報が届いた。
1242年3月にバトゥはオゴタイ=ハンの死去にともなう遠征軍全軍の帰還命令を受けると、ただちにエステルゴムを陥落させ、カダアンにベーラ4世の追撃を命じた。
モンゴル軍の一部はウィーン近郊のノイシュタットまで迫ったようだが、この地域の征服は諦めドナウ流域を経由してキプチャク草原へ撤退したようである。
こうしてバトゥ指揮下のモンゴル帝国西方遠征軍は、ハンガリー支配を放棄して帰国することを余儀なくされた。
しかし、バトゥの支配したカルパチア山脈以東のルースィ諸国を中核とする東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となったのである。

トルイ家との協同とチャガタイ・オゴタイ=ハン家との対立

オゴタイ=ハン死後、バトゥとルーシ遠征中に険悪な仲となったグユクが第3代皇帝になろうとすると、これに強硬に反対してモンケを擁立しようとした。
グユクの生母・ドレゲネはグユクの推戴を狙いモンゴル帝国全土の王族たちに、オゴタイ=ハン没後の摂政として自らの主導でクリルタイの開催を執拗に説いて回った。
バトゥはオゴタイ=ハンが後継者と指名していたのはシレムンであったことを主張し、帝国西方の重鎮として不参加を表明してこのドレゲネの動きを牽制した。このため帝国は5年近く皇帝(カアン)位が空位のままという状態に陥った。

1246年ついにソルコクタニ・ベキをはじめとするトルイ家の皇子たちや東方のテムゲ・オッチギンらがドレゲネのクリルタイ開催の要請を承諾して参加を表明したため、バトゥも急ぎクリルタイへの参加を表明した。
しかしオゴタイ=ハン、チャガタイ、トルイ家の王族たちのほとんどが参加し帝国各地の諸侯や帰順王侯が参加するココ・ノウルで開催されたクリルタイに間に合わず、ジョチ家は既にモンゴル本土に来着していたオルダやシバン、ベルケ、トカ・テムルら兄弟たちの参加のみで当主バトゥの不在のまま、グユクが第3代皇帝に推戴された。

このため、バトゥはクリルタイの決定に不満を抱き皇帝(カアン)に即位した後も、グユクから再三にわたり臣従の誓約に赴くようのモンゴル本土への召還命令を受けていたが、病気療養を理由に拒み続けた。一時、グユクの宿敵として危険視され窮地に追い込まれたが、ソルコクタイ・ベキらがモンゴル中央の動静を逐一彼に伝えてグユクとの対処を進言していた。

1248年、以前から患っていたリューマチの療養のためエミル近辺のオゴタイ=ハンの放牧地へ行幸すると称し、グユク自ら遠征軍を率いて討伐しにやって来た。
しかし同年4月にグユクがビシュバリク付近で急死したため、モンゴル帝国は最有力王族とモンゴル皇帝との内戦という最悪の事態を回避することができた。
グユクの死について『集史』では彼の父オゴタイ=ハンと同様に平時からの過度の酒色を原因としているが、甚だ緊迫した状況下でジョチ家・トルイ家にとって都合の良い時期の死であるため、バトゥによる暗殺説も一部では有力視されている。

モンケの推戴および晩年

グユク死後はモンケを新たな皇帝(カアン)として推挙し、モンケを強行的に即位させた。
このとき、バトゥが次代の皇帝(カアン)になることを望む声もあったが、バトゥはあくまで帝国の影の実力者に徹して、ついにモンゴル皇帝になることはなかった。
その後はジョチ・ウルスの領土の統治に尽力し、ヴォルガ河下流域のかつてのイティルの周辺に冬営地サライを首都として定めた。バトゥの宮廷を訪れたウィリアム・ルブルック(フランシスコ会修道士)によると、バトゥの宮廷は季節によって南北に移動し、春にはヴォルガ河東岸を北上してブルガール方面に留まり、8月には南に戻っていたと言う。

バトゥが青帳汗(Blue Horde)、長兄オルダが白帳汗(White Horde)を任じて、それぞれジョチ・ウルスの右翼(西部)・左翼(東部)の統治を分担した。
13〜14世紀のモンゴル帝国時代にはこのような記録は見えず、これはバトゥ家が断絶した後、ジョチ・ウルスが青帳(キョク・オルダ)、白帳(アク・オルダ)に政治的に分かれていたとする後代の年代記やロシア側の資料などの記述を、バトゥの時代に溯及して論じたものであろうと赤坂恒明らは考えている。

1256年、ヴォルガ河畔のサライにおいて死去した。48歳。

バトゥが死去する前年の1256年は、春にモンケが第2回のクリルタイを開催していたため、嫡子のサルタクはこのクリルタイに派遣されていた。
訃報はただちにモンケの宮廷に伝えられ、モンケはサルタクをバトゥの後継者に任命した。しかしながらサルタクはジョチ・ウルスへ帰還中に病没し、さらにモンケがその後継者に追認した末弟ウラクチもその半年後に夭折したため、最終的にはバトゥの次弟であるベルケが継いだ。

Wikipediaより

バトゥが登場する作品

フビライ・ハン

バトゥ
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