パン=スラヴ主義
スラヴ叙事詩「故郷のスラヴ人」(アルフォンス・ミュシャ画/プラハシティギャラリー蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

パン=スラヴ主義


パン=スラヴ主義
スラヴ系諸民族の統一と連帯を目指す思想と運動。19世紀後半にバルカン半島で盛んにとなえられるようになると、ロシアは南下政策に利用するためこれを支援した。

パン=スラヴ主義

  • バルカン半島に居住するスラヴ民族の統一を支援し、ロシアの主導のもとに運動を統一しようとする考え。ロシアの対外膨張政策のイデオロギーとして使われた。
  • スラヴ系諸民族の統一と連帯を目指す思想と運動。19世紀後半にバルカン半島で盛んにとなえられるようになると、ロシアは南下政策に利用するためこれを支援した。
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スラブ諸民族の連帯と統一を目標とする思想運動。元来この運動は、オーストリア、ハンガリー、オスマン帝国などに圧迫されていた西・南スラブ諸族 (特にチェコ族) におけるナショナリズムの覚醒に伴って始り、この動きは 1848年のプラハ会議に結集された。しかし 60~70年代にこの運動はロシアの帝国主義的南下政策と結びつき、汎ゲルマン主義に対抗するものとなった。ロシアを盟主としたこの汎スラブ主義運動は、67年のモスクワ会議に象徴されるが、ロシアの大国主義に対する諸民族の不満を内包していた。 1946年ベオグラードで開催された全スラブ民族会議は新たな汎スラブ主義の動きとして注目されたが、国際政治の多極化とともに現在では顕著な動向はみられない。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

東方問題とロシアの南下政策

1870年からのプロイセン=フランス戦争ナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism *4の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義*5を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。

*4 パン=スラヴ主義:バルカン半島に居住するスラヴ民族の統一を支援し、ロシアの主導のもとに運動を統一しようとする考え。ロシアの対外膨張政策のイデオロギーとして使われた。

*5 パン=ゲルマン主義:ゲルマン民族の団結と統一をめざす考え方で、オーストリアのバルカン半島方面への膨張主義の根拠となったイデオロギー。

  • 東方問題とロシアの南下政策 – 世界の歴史まっぷ
ビスマルク外交
1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。

ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟 League of the Three Emperors を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。

帝国主義とアジアの民族運動

世界分割と列強対立

バルカン半島の危機

オーストリア=ハンガリーは自国内のスラヴ系諸民族にパン=スラヴ主義の影響がおよぶのを恐れ、バルカン半島への勢力拡大をねらっていた。ドイツにも世界政策の一環として中欧からバルカンへの支配を拡大し、ドイツ民族の連帯を主張するパン=ゲルマン主義が唱えられていた。1908年夏、オスマン帝国で青年トルコ革命がおきると、オーストリアはベルリン会議で行政管理権が認められていたボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。両州の住民は大半が南スラヴ系であり、南スラヴの統合を唱えるセルビアが編入を望んでいた地域であった。オーストリアに反発したセルビアはロシアに助けを求め、戦争の危機が高まった。

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