ビスマルク
ビスマルク(連邦公文書館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ビスマルク


ビスマルク Otto von Bismarck( A.D.1815〜A.D.1898)

プロイセン・ドイツ帝国の政治家。プロイセン首相(任1862〜90)として軍備拡張を実行し、オーストリア・フランスとの戦争に勝利してドイツ統一を達成。ドイツ帝国初代宰相(任1871〜1890)として国民統合を目指す内政を実施する一方、勢力均衡とフランスの孤立を目指す外交策を展開し、19世紀後半のヨーロッパ国際政治の中心人物でもあった。

ビスマルク

ビスマルク年表

国外国内
ヴィルヘルム1世
1873三帝同盟(〜78/81〜87)1871「文化闘争」(〜80)
1875ドイツ社会主義労働者党結成
1878ベルリン会議1878社会主義者鎮圧法制定
1879独墺同盟1879保護関税法(ビスマルク関税)
1882三国同盟1883疾病保険制度
1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)1884災害保険法
ヴィルヘルム2世
1889養老保険法
1890再保障条約更新せず
新航路政策
1890ビスマルク辞職
社会主義者鎮圧法廃止 → ドイツ社会民主党成立
参考:山川 詳説世界史図録

プロイセン・ドイツ帝国の政治家。プロイセン首相(任1862〜90)として軍備拡張を実行し、オーストリア・フランスとの戦争に勝利してドイツ統一を達成。ドイツ帝国初代宰相(任1871〜1890)として国民統合を目指す内政を実施する一方、勢力均衡とフランスの孤立を目指す外交策を展開し、19世紀後半のヨーロッパ国際政治の中心人物でもあった。

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武力と熟達した外交でドイツを統一

「全ドイツがプロイセンに期待するのは自由主義ではなく武力である。現在の大問題(ドイツ統一)は言論や多数決でなく鉄と血によってのみ解決される」ドイツ連邦議長国オーストリアから統一の主導権を奪うには武力増強をという下院予算委員会での演説により、ビスマルクは「鉄血宰相」とあだ名される。だが当初、委員会の反応は冷たいものだった。大言壮語、滑稽、無駄話と批判され要求はあっさり却下される。なにせオーストリアは、ドイツ連邦にとって最高の伝統的権威なのだ。ところがビスマルクは強引に軍備を増強。違憲だとの声も無視し、まずオーストリアを誘ってデンマークを破り、そのオーストリアを挑発して短期戦で打ち負かし、さらにナポレオン3世を偽記事で挑発してフランスにも勝ち、プロイセン王を皇帝にいただくドイツ帝国を成立させたのである。「政治は科学ではなく技術だ」のちにビスマルクが言った言葉である。

まずはヒゲ:明治6年、岩倉使節団の一員としてビスマルクに面会した大久保利通伊藤博文は、その話と人柄に深い感銘を受け、帰国後はビスマルクを真似て豊かなヒゲをたくわえた。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

東方問題とロシアの南下政策

1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。

  • 東方問題とロシアの南下政策 – 世界の歴史まっぷ
ドイツの統一

1861年プロイセン王に即位したヴィルヘルム1世(位プロイセン王1861〜88 ドイツ皇帝1871〜88)は、翌年ユンカー出身のビスマルク Bismarck (1815〜98)を首相に任命した。ビスマルクは話し合いや民主主義的方法ではドイツの統一は実現できないとし、「鉄血政策」を推進して武力によるドイツ統一をめざした。プロイセン国内では工業化が推進されるとともに軍需産業が育成され、軍隊上の組織改革を実現し、富国強兵策が推進された。一定の成果をあげたのち、64年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を奪った。66年には両州の管理問題からオーストリアと開戦した。これがプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)であるが、たったの7週間でプロイセンが勝利した。とくに、最大の激戦がケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)においておこなわれたが、工業化と組織の近代化に成功したプロイセン軍が圧勝した。67年ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦(1867〜71)が成立した。

フランスのナポレオン3世は、隣国に強大な国家の登場を容認しなかった。一方、ビスマルクの側もドイツ統一を実現するためにはナポレオン3世との対決は不可避と考え、着実に軍備の拡張と戦争準備を怠らなかった。両国の思惑が衝突したのがスペイン王位継承問題であった。ホーエンツォレルン家のレオポルトがスペインの王位を継承することに反対したナポレオン3世は、エムスで休養中のヴィルヘルム1世に大使を派遣して、レオポルトをスペイン王につけない保証を迫った。ヴィルヘルムは事態をビスマルクに打電したが、ビスマルクはその電報をあたかもナポレオン3世がプロイセン王を脅迫したかのように改竄かいざんして発表した(エムス電報事件)のでプロイセン国民は怒り、またフランス側もこの処置に反発し、ナポレオン3世はプロイセンに対して宣戦布告して、プロイセン=フランス戦争(普仏戦争またはドイツ=フランス戦争 1870〜71)が勃発した。

軍政の改革が進展して動員組織が十分であり、実戦経験のある精鋭が多かったプロイセン軍が優勢に戦いを進め、スダン(セダン) Sedan の要塞でナポレオン3世を捕虜にすることに成功し、この結果フランス第二帝政は崩壊した。その後パリを包囲し、優勢な戦況を背景にビスマルクは、ヨーロッパ各国に対する外交的配慮もあって1871年1月、ヴェルサイユ宮殿においてドイツ帝国(1871〜1918)皇帝の戴冠式を挙行した。

ドイツ帝国の成立
ドイツ帝国の成立(アントン・フォン・ヴェルナー画/ビスマルク博物館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

白い軍服を着た人物がビスマルク。プロイセン=フランス戦争末期の1871年にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の即位宣言式がおこなわれ、ドイツ帝国が成立した。この行為は、ドイツ・フランス間の禍根となり、のちに第一次世界大戦の対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約の調印がこの「鏡の間」でなされた。 参考:山川 詳説世界史図録

ドイツ帝国の成立

ドイツ帝国は連邦制国家で、プロイセン王が皇帝を兼ね、立法府は各連邦の代表からなる連邦参議院と普通選挙制で代表が選出される帝国議会からなっていた。しかし議会は政府に対してほとんど無力であり、ドイツ帝国の官僚にはユンカー出身者の貴族が占めていたので、立憲君主政は形式的なものにとどまっていた。

統一後に南ドイツを基盤とするカトリック政党である中央党がビスマルクに抵抗したが(文化闘争)、この闘争はピウス9世(ローマ教皇)の死によって自然消滅した。ビスマルクの産業保護政策はドイツの急速な工業化の進展と高度化を実現し、労働者の数は増大し、全国的な組織化をはかったので、あなどれない勢力にまで成長した。

ドイツの社会主義・労働者勢力の動向をみると、ラサール(1825〜64)が組織した全ドイツ労働者協会(1863年結成)と、ベーベル(1840〜1913)やリープクネヒト(1871〜1919)らが率いるアイゼナッハ派(社会民主労働者党 1869年結成)が、75年合同してドイツ社会主義労働者党を結成し、ゴータ綱領(カール=マルクスが痛烈に批判した綱領)を採択した。こうした動きに対してビスマルクは皇帝狙撃事件をきっかけに78年社会主義者鎮圧法を制定して弾圧したが、社会主義労働者党は党勢を維持・拡大し、90年の選挙では最高得票数を獲得した。ビスマルクが引退し、さらに社会主義者鎮圧法が失効したのち、ハレ大会において、社会民主党と改称し、翌年エルフルト綱領を採択してマルクス主義路線を明確にした。

一方、ビスマルクは労働者に対して弾圧(鞭)のみでなく、彼らの生活保護や福祉のための社会立法(飴)をおこなった。つまり、社会改良的な法律をつくることによって、労働者の生活を保護した。1883年には疾病保険法が制定され、89年の養老保険法などつぎつぎと法令がだされ、それらは外国にも影響を与え、今日の社会福祉政策の基礎となった。

ビスマルク外交
1870年代のヨーロッパ地図
1870年代のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。

ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。

ドイツは翌79年10月、オーストリアとの間に独墺同盟を結成し、再びバルカンにおけるロシア・オーストリア間の利害を調整して81年三帝同盟を復活させた。さらにチュニジア問題でフランスと対立したイタリアを誘ってドイツ・イタリア・オーストリアによる三国同盟(1882〜1915)を結んだが、ロシア・オーストリア間の対立は結局解消できず、87年三帝同盟が消滅した。ドイツは3国間の同盟をあきらめ、ロシアとの間に再保障条約(1887年6月17日)を結んだ。これは両国の一方が他国から攻撃されたときは中立を守ることを約したものである。こうした複雑な同盟をビスマルク体制と呼び、彼の在任中、フランスは国際的孤立状態から脱却できなかった。

二重保障条約・再保険条約ともいう。この条約はオーストリアとロシアの対立のなかで、オーストリアと同盟関係を維持しつつ、しかもロシアを結びつけるという意味で再保障の名がある。
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イタリアとドイツの統一運動年表

イタリアとドイツの統一運動年表
イタリアとドイツの統一運動年表 ©世界の歴史まっぷ

同時代の人物

井伊直弼 (1815〜1860)

彦根藩主で幕府大老。ビスマルクと同年生まれ。2人共大国相手に小国がどう生きるかを政治テーマとし、2人とも刺客に襲われたが、ビスマルクは助かった。

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