フィリップ6世(フランス王)
フィリップ6世(フランス王)(画像: alchetron.com)

フィリップ6世(フランス王)


フィリップ6世(フランス王)( A.D.1293〜A.D.1350)
フランス王国ヴァロワ朝初代国王(在位1328年 - 1350年)およびアンジュー伯、メーヌ伯。フィリップ3世(フランス王)の四男シャルル(ヴァロワ伯)とマルグリット・ダンジューの子。カペー家断絶のため王位を継承。

フィリップ6世(フランス王)

フィリップ4世(フランス王)の弟シャルル・ド・バロア(ヴァロワ伯)の長男。カペー家断絶のため王位を継承。このとき、王位継承権を主張する従弟フィリップ・デブルーにはルイ10世の娘ジャンヌ(ナバラ女王フアナ2世)との結婚を介しナバール(ナバラ)王位を認め、エドワード3世(イングランド王)には臣従を誓わせた。しかし、ギュイエンヌ(アキテーヌ、ガスコーニュ)のイングランド封主権を侵したことをきっかけに、百年戦争が始まった。スロイスの海戦(1340)、クレシーの戦い(1346)に敗れ、飢餓と黒死病が流行した不安の治世であったが、王領はむしろ拡大した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

苦難の時代の王

ヴァロワ朝を創始。当時のエドワード3世(イングランド王)がフランスの王位を求め、百年戦争に発展した。

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生涯

  • 1325年 父シャルル(ヴァロワ伯)が死去し、ヴァロワ伯位を継承。
  • 1328年 シャルル4世(フランス王)が男子を残さず亡くなり、妊娠中であったシャルル4世の王妃ジャンヌ・デヴルー(フィリップ・デヴルーの妹)がその没後に出産したのは女児ブランシュ(フィリップ6世(フランス王)の息子フィリップ・ド・ヴァロワ(オルレアン公)と結婚する)であった。
  • フィリップ4世(フランス王)の男系男子が途絶えたため、フィリップ3世(フランス王)の男系の孫として、貴族と聖職者の会議でフィリップ6世が選ばれて即位した。
  • すでに12年前、ルイ10世(フランス王)死去の際(正確には、ルイ10世の死後に生まれたジャン1世(フランス王)遺児王の死後)、フランク人(サリー・フランク族)の古法であるサリカ法を根拠に女系継承を排除していたため(サリカ法の発見及び王位継承への適用はシャルル5世(フランス王)の代であり、フィリップ5世(フランス王)への王位継承はジャンヌの嫡出性への疑義が挟まれたためであるとする説もある)、フィリップ4世(フランス王)の女系の孫であるエドワード3世(イングランド王)が王位継承権を主張したものの、フィリップの即位は異議なく受け容れられた。しかし、それまで同君連合の下にあったナバラ王国では女系継承が認められており、またフィリップ自身はナバラ王家の血を引いていなかったため、ルイ10世(フランス王)の娘ジャンヌ(フアナ2世(ナバラ女王))が王位を継承した(フィリップの2番目の王妃ブランシュはジャンヌとフィリップ・デヴルーの娘である)。
  • 1328年、3年前から織布工の市民と農民の反乱に苦しんでいたルイ1世(フランドル伯)を援助し、8月23日カッセルで反乱軍に勝利する。翌年、フランス王位候補者の一人だったエドワード3世(イングランド王)がフィリップの王位を認め、ギュイエンヌの所有についてアミアンで臣従の宣誓(オマージュ)を行った。
  • ところが1333年、エドワード3世(イングランド王)と対立したデイヴィッド2世(スコットランド王)がフランスに亡命してきた際、フィリップ6世(フランス王)がこれを歓迎した。一方エドワード3世(イングランド王)も、アルトワ伯領を巡ってフィリップ6世(フランス王)と対立していたロベール3世・ダルトワの亡命を受け入れていた。フィリップ6世(フランス王)がロベール3世・ダルトワの引き渡しをエドワード3世(イングランド王)に要求するも拒否されると、フィリップ6世(フランス王)はエドワード3世(イングランド王)よりアキテーヌ公領およびポンティユー伯領を没収した。
  • 1337年に英仏百年戦争が勃発。
  • 1340年にはエドワード3世(イングランド王)はフランス王を称した。
  • 1340年6月23日、フィリップ6世(フランス王)の艦隊はスロイスの海戦でイングランドに敗れる。
  • さらに1346年8月26日、クレシーの戦いでフランス軍は「いとも大いなる、且ついとも恐るべき」と歴史家ジャン・フロワサールに言わしめたほどの敗北を喫した。
  • 翌年カレーを占領され、経済は混乱した。塩の専売特権を制定してこれに対処したが、流れを押しとどめることはできなかった。黒死病が流行し、国内が混乱する中で1350年に死亡し、長子のジャン2世(フランス王)が跡を継いだ。
  • なお、グルノーブル近辺のドーフィネ領を購入し、息子のジャンに与えられるはずだったが、売買の成立以前にフィリップ本人は死んだため、孫のシャルル(シャルル5世(フランス王))に与えられた。これ以降、ドーファンはフランス王太子に与えられたため、その称号となった。

子女

1313年に結婚したジャンヌ・ド・ブルゴーニュ(フィリップ6世王妃)との間に以下の子女をもうけた。

  • ジャン2世(フランス王)(1319年 – 1364年) – フランス王
  • マリー(1326年 – 1333年) – ブラバン公ジャン3世の子ジャンと結婚
  • ルイ(1329年)
  • ルイ(1330年)
  • フィリップ・ド・ヴァロワ(オルレアン公)(1336年 – 1376年) – オルレアン公
  • ジャンヌ(1337年)

参考 Wikipedia

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