フランツ1世(神聖ローマ皇帝)( A.D.1708〜A.D.1765)
- 神聖ローマ帝国ハプスブルク=ロートリンゲン朝初代皇帝(在位1745年9月13日 - 1765年8月18日)
- ロレーヌ公(在位1729年 – 1737年)
- トスカーナ大公(在位1737年 – 1765年)
幼なじみのマリア・テレジアと結婚し、オーストリアと神聖ローマ帝国の共同統治者となったが、実権はマリア・テレジアにあった。夫婦仲はよく、フランツ死後、マリアは生涯喪服で通した。
フランツ1世(神聖ローマ皇帝)
マリアが愛した幼なじみの王
幼なじみのマリア・テレジアと結婚し、オーストリアと神聖ローマ帝国の共同統治者となったが、実権はマリア・テレジアにあった。夫婦仲はよく、フランツ死後、マリアは生涯喪服で通した。
生涯
ロレーヌの放棄
1736年にフランツとマリア・テレジアは結婚した。当時の王室としては異例の恋愛結婚で、フランツは名門ハプスブルク家と結びつくことになった(2人の子供の代からはハプスブルク=ロートリンゲン家となる)。しかしそのために周辺諸国からは反発され、故国のロレーヌ公国をフランスへ譲った。ロレーヌはルイ15世(フランス王)の王妃の父である前ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキが1代限りの君主として余生を過ごした後、フランス王国に併合される。一方、フランツはメディチ家が断絶して空位となったトスカーナ大公国を継承した。フランツは父方と母方の双方から、メディチ家の大公フランチェスコ1世・デ・メディチの血を引いていた。
フランツはロレーヌの譲渡に関する合意書に署名する際、怒りと絶望のあまり3度もペンを投げ捨て、震える手でようやく署名したという。また、母エリザベート・シャルロットからはその譲渡を激しく非難された。
その後もフランツは生涯に何度も屈辱を味わわされることとなった。宮廷のしきたりに従って、夜に劇場を訪れる時には2列目という格下の席に甘んじなければならなかった。また、オーストリアの宮廷人たちはフランツをマリア・テレジアの添え物に過ぎないと見ており、「殿下」の敬称を付けないなど、ちょっとした嫌がらせは日常茶飯事だったという。
このような態度は宮廷にとどまらず、ウィーン市民からもフランツは厄介者の外国人呼ばわりされていた。1738年10月6日、第1子に続いて第2子も女子のマリア・アンナが生まれたと知ると、宮廷人も民衆もこぞってフランツのせいにした。
オーストリア継承戦争
1740年にカール6世(神聖ローマ皇帝)が没すると、マリア・テレジアがオーストリア大公に即位し、彼女の決定によりフランツは共同統治者になった。しかし列国はカール6世の生前に交わした国事勅書の取り決めを無視してハプスブルク家領を侵略し、オーストリア継承戦争が勃発した。フリードリヒ2世(プロイセン王)はシュレジエンを占領し、マリア・テレジアの従姉マリア・アマーリエ・フォン・エスターライヒを妃とするバイエルン選帝侯はボヘミアを占領した上にフランツを差し置いてカール7世(神聖ローマ皇帝)として戴冠した。
オーストリアの軍隊は弱体であり、フランツはプロイセン(ブランデンブルク=プロイセン)との交渉では条件次第で和平を結ぶことも考えていた。しかし、オーストリア宮廷で主導権を握るのはマリア・テレジアであり、彼女はプロイセンに対して一歩も譲歩する気はなく、断固戦う意志を固めていた。
1741年1月1日の最後の会談の際、フランツとプロイセン側の使者グスタフ・アドルフ(ゴッター伯)は極秘に交渉を続けたが、マリア・テレジアはドアの裏やカーテンの陰で耳をそばだて、少しでもフランツが譲歩しそうな気配を見せると、子犬でも呼びつけるように夫へ合図を送った。この交渉は結局、マリア・テレジアによって強引に打ち切られ、戦争は再開されたが、同年4月10日にオーストリア軍はプロイセン軍に敗北した。これを機に、フランツは国政には関与しないようになり、一切の実権をマリア・テレジアが握ることとなった。
皇帝即位
マリア・テレジアは夫に権力を与えようとはしなかったが、代わりに皇帝の座を約束した。カール7世(神聖ローマ皇帝)は短い在位の間にオーストリアの反撃を受けて失意のうちに没し、フランツは1745年にローマ皇帝に即位した。皇帝に即位した後も実権はマリア・テレジアが持っていた(すでに神聖ローマ帝国は実質的にドイツ国家連合と化していたため、国家として機能している部分を統べるオーストリア大公位を兼ねない皇帝位にはさほどの権限はなかった)が、財政や科学の振興などの面で功績を残している。
フランツには財政家もしくは経営者としての手腕があり、七年戦争で苦しくなったオーストリアが国債の発行に踏み切る際には、その保証人になれるほどの莫大な財産を残している。また、シェーンブルン宮殿の一角に植物園や動物園をつくり、昆虫や鉱石を分類したコレクションを遺した。これらのコレクションは現在ウィーン自然史博物館に所蔵されている。
フランツは常に子供たちの幸せを考える良き父親でもあった。中でも、身体が不自由で容姿が醜く嫁にやれないため、マリア・テレジアや弟妹たちから嫌われていた次女のマリア・アンナのことを特に気にかけていたという。しかし、フランツとマリア・テレジアの死後、彼女を深く憎んでいた弟ヨーゼフ2世によりクラーゲンフルト修道院に入れられてしまうことになった。
死
1765年8月18日、フランツは三男レオポルト(のちのレオポルト2世(神聖ローマ皇帝))の結婚祝いのために赴いたインスブルックで、ゴルドーニの喜劇とバレエを鑑賞して帰還した後の夕方、突如没した。フランツの死後、大勢の人々がその寛大で温かな人柄を惜しみ、褒め称えて敬意を表した。
マリア・テレジアは夫の死を深く悲しみ、シェーンブルン宮殿の一角に夫を偲ぶ真っ黒な漆塗りの部屋を設けたほか、夫が没した地インスブルックに設置された凱旋門にはフランツの死を悼むレリーフを据え付けさせた。また彼女は夫の死後、自身が没するまで喪服しか着用しなくなったという。
フランツの死後、皇帝位は長男ヨーゼフ2世が継いだ。フランツ自身の領地のうち、トスカーナ大公国は三男レオポルト(のちのレオポルト2世(神聖ローマ皇帝))が継いだ。フランツはまた、失ったロレーヌの他にシュレジエンの一角にあったチェシン公国を父レオポルトから受け継いでいたが、これはマリア・テレジアがひいきにしていた四女マリア・クリスティーナとその婿アルベルト・カジミールに受け継がれることになった。
参考 Wikipedia
子女
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1737-1740)(1737年 – 1740年)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(1738-1789)(1738年 – 1789年) – エリーザベト修道院に入る
- マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(1740-1741)(1740年 – 1741年)
- ヨーゼフ2世(1741年 – 1790年) − 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王
- マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ(1742-1798)(1742年 – 1798年) – フリードリヒ・クリスティアン(ザクセン選帝侯)の弟アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンの妃、テシェン女公、ネーデルラント総督
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1743-1808)(1743年 – 1808年) − インスブルック修道院長
- カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(1745-1761)(1745年 – 1761年)
- マリア・アマーリア・ダズブルゴ(1746年 – 1804年) – フェルディナンド1世(パルマ公)妃
- レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)(1747年 – 1792年) – トスカーナ大公、のちローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王
- マリア・カロリーナ(1748年)
- ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ(1750年 – 1762年)
- マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1751-1767)(1751年 – 1767年) − フェルディナント1世(両シチリア王)との結婚直前に死去
- マリア・カロリーナ・ダズブルゴ(1752年 – 1815年) − フェルディナント1世(両シチリア王)(シチリア王フェルディナンド3世)妃
- フェルディナント・フォン・エスターライヒ(1754年 – 1806年) – オーストリア=エステ大公
- マリー・アントワネット(1755年 – 1793年) – ルイ16世妃(フランス王)
- マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(1756年 – 1801年) – ケルン大司教(選帝侯)