ブリュメールのクーデタ (1799.11.9)
1799年11月9日(革命暦8年ブリュメール〈霧月〉18日)、フランスでナポレオン・ボナパルトが総裁政府を倒して独裁への道を固めたクーデタ。不人気となった総裁政府を目前にして、エジプト遠征からパリに帰還したナポレオンは、政治的変革をねらってシェイエス、タレーラン、フーシェの協力を得て元老会と五百人会を粛正し、翌ブリュメール19日執政政府を樹立した。
ブリュメールのクーデタ
1799年11月9日(革命暦8年ブリュメール〈霧月〉18日)、フランスでナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)が総裁政府を倒して独裁への道を固めたクーデターをさす。財政の困難な状況によって不人気となった総裁政府を目前にして、エジプト遠征からパリに帰還したナポレオンは、政治的変革をねらってE.シェイエス、C.タレーラン、J.フーシェの協力を得て元老会と五百人会を粛正し、翌ブリュメール19日執政政府を樹立した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
ブリュメールのクーデタとナポレオン
総裁政府のもとでは、インフレによる生活の圧迫の不満を背景にジャコバン派の復活がみられ、また社会的・政治的不安に乗じた王党派・右翼の台頭もあった。有産市民や農民は、混乱を収拾し、政治を安定させ、革命の成果を保証できる強力な指導者の出現を望んだ。
エジプトを征服し、イギリスのインド支配にいどむ基地とするという目的で、1798年ナポレオンはエジプト征服をおこなった。しかし、エジプトは占領したが、フランス艦隊はイギリスのネルソン Nelson (1758〜1805)艦隊にアブキール Aboukir で敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘づけにされた。1799年イギリスはオーストリア・ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、軍をエジプトにおいて、500の兵と4隻の船でフランスに戻った。
シェイエス・タレーラン Talleyrand (1754〜1838)・フーシェ Fouché (1759〜1820)らが協力をし、クーデタ計画が練られた。1799年11月9日、革命暦ブリュメール Brumaire (霧月)18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデタを実行、総裁政府を倒し、臨時(執政)統領政府 Consular を樹立した(ブリュメールのクーデタ)。新しい憲法がつくられ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成をえた。こうしてクーデタは承認された。4院制の議会、3人の統領(執政)からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握った。