プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争) (1866年6月14日〜8月23日)
ドイツ統一の主導権をめぐるプロイセンとオーストリアとの戦争。シュレスヴィヒ・ホルシュタインの管理問題から、北ドイツ諸邦とイタリア王国がプロイセンに、中・南ドイツ諸邦がオーストリアについて開戦した。7週間で鉄血政策を推進したプロイセンが圧勝し、67年ドイツ連邦解体、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦が成立した。
プロイセン=オーストリア戦争
ドイツ統一の主導権をめぐるプロイセンとオーストリアとの戦争。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題をきっかけに、北ドイツ諸邦とイタリア王国がプロイセンに、中・南ドイツ諸邦がオーストリアについて、6月に開戦した。7週間でプロイセンが圧勝してプラハ条約が結ばれ、小ドイツ主義に基づく統一が優勢となった。
ドイツの統一をめぐって1866年夏に戦われたプロシアとオーストリアの間の戦争。七週間戦争、普墺戦争とも呼ばれる。ドイツ統一の主導権争いは1848年のフランクフルト国民議会において小ドイツ主義派が勝ったことなどでプロシア側に有利となっていたが、プロシアは1862年宰相となったオットー・フォン・ビスマルクのいわゆる鉄血政策のもとで軍備を拡張し、国際情勢をプロシアに有利にするための一連の外交工作を展開。フランスの中立の保障をとりつけ、イタリアとは攻守同盟を結び、シュレースウィヒ=ホルシュタイン問題をきっかけに軍をオーストリア領ホルシュタインに進駐させ、1866年6月ついに開戦。ドイツ諸国の多くはオーストリア側についたが、プロシアは参謀総長ヘルムート・K.B.フォン・モルトケの卓越した作戦と、精強な軍隊をもって、ケーニヒグレーツ近郊でオーストリア軍を破り(ケーニヒグレーツの戦い)、勝利を不動のものとした。同1866年8月プラハ条約が締結され、これによってオーストリアはドイツ連邦を脱退、プロシアを盟主とする北ドイツ連邦が成立し、ドイツ統一の基礎が確立した。
参考 ブリタニカ国際大百科事典
戦争データ
年月日:1866年6月14日〜8月23日 | |
場所:ボヘミア、ドイツ、イタリア、アドリア海 | |
結果:プロイセン主導の連合軍の勝利
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交戦勢力 | |
プロイセン王国 イタリア王国 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国 メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国 オルデンブルク大公国 アンハルト公国 ブラウンシュヴァイク公国 ザクセン=アルテンブルク公国 ザクセン=コーブルク=ゴータ公国 リッペ侯国 シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国 ヴァルデック侯国 自由ハンザ都市ブレーメン 自由ハンザ都市ハンブルク 自由都市リューベック |
ドイツ連邦
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指導者 | |
ヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝) 大モルトケ ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世 |
フランツ・ヨーゼフ1世 アルブレヒト・フォン・エスターライヒ=テシェン ルートヴィヒ・フォン・ベネディク |
戦力 | |
プロイセンおよび同盟国 500,000 イタリア 300,000 |
オーストリアおよび同盟国 600,000 |
参考:Wikipedia
欧米における近代国民国家の発展
ヨーロッパの再編
イタリアの統一
ヴェネツィアは1866年のプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に参戦することで、教皇領は70年のプロイセン=フランス戦争の際に王国に編入された。ローマ教皇はこれに反発して「ヴァチカンの囚人」と称して対立を続けた。その他、トリエステ・南チロル(トレンティーノ)・イストリア・ダルマティアなど「未回収のイタリア」 Italia irredenta と呼ばれるイタリア人居住地域の回復をめざす領土問題が、20世紀に入っても継続した。
ドイツの統一
1861年プロイセン王に即位したヴィルヘルム1世(位プロイセン王1861〜88 ドイツ皇帝1871〜88)は、翌年ユンカー Junker 出身のビスマルク Bismarck (1815〜98)を首相に任命した。ビスマルクは話し合いや民主主義的方法ではドイツの統一は実現できないとし、「鉄血政策」を推進して武力によるドイツ統一をめざした。プロイセン国内では工業化が推進されるとともに軍需産業が育成され、軍隊上の組織改革を実現し、富国強兵策が推進された。一定の成果をあげたのち、64年にオーストリアと結んでデンマークと戦い、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を奪った。66年には両州の管理問題からオーストリアと開戦した。これがプロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)であるが、たったの7週間でプロイセンが勝利した。とくに、最大の激戦がケーニヒグレーツ(サドワの戦い)においておこなわれたが、工業化と組織の近代化に成功したプロイセン軍が圧勝した。67年ドイツ連邦が解体され、プロイセン国王を盟主とする北ドイツ連邦(1867〜71)が成立した。
敗北したオーストリアは領域内のナショナリズム運動対策のためハンガリーに特権を与え、議会と行政府の存在を容認して自治権を与え(アウスグライヒ:妥協)、体制内に組みこんで、オーストリア=ハンガリー帝国(1867〜1918)を形成して、支配の重点を東欧においた。しかしこのことは、オーストリアの複合民族国家としての性格をいっそう強めることになり、領域内のナショナリズム運動に苦しむことになった。