マリア・テレジア( A.D.1717〜A.D.1780)
- 神聖ローマ帝国ハプスブルク=ロートリンゲン朝フランツ1世(神聖ローマ皇帝)皇后および共同統治者(在位1745年9月13日 - 1765年8月18日)
- オーストリア大公国大公(在位1740年〜1780年)(ハプスブルク帝国)
- ハンガリー王冠領女王(在位同上)(ハプスブルク帝国)
- ボヘミア王冠領女王(在位1740年〜1741年、1743年〜1780年)(ハプスブルク帝国)
カール6世(神聖ローマ皇帝)の娘でハプスブルク家の領国と家督を相続したハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な女帝。マリー・アントワネットの母。
マリア・テレジア
領土を奪回するべく大改革に着手
マリア・テレジアはしばしば女帝とよばれもするが、諸外国がカール6世の死去にともない約束を反故にしたことから、帝位には就けず、夫をそれに就かせることで満足しなければならなかった。さらに彼女は諸外国による武力侵攻(オーストリア継承戦争)に悩まされ、フリードリヒ2世(プロイセン王)には地下資源に富み、産業も発達したシュレジエン地方を奪われた。
態勢を立て直すべく、彼女は内政・外政の両面で大改革を断行した。外交ではフランスとロシア、スウェーデンと組みシュレジエンの奪回をめざし、内政では中央集権化と国力全体の底上げを目的とした行政改革をおこなった。大胆な人材登用に始まり、国勢調査の実施、司法の独立、軍の質の向上、医療制度の刷新、義務教育の実施、修道院の新設の禁止、祝日の削減など、改革の対象は多方面に及んだ。
略年表
- 1717年 オーストリアに生まれる
- 1736年 フランツと結婚
- 1740年 オーストリア大公に即位 オーストリア継承戦争勃発
- 1745年 フランツが皇帝に即位
- 1761年 国務院の創設
- 1764年 フランツ1世死去、息子ヨーゼフ2世と連立摂政
- 1778年 バイエルン継承戦争
- 1780年 オーストリアで死去
戦争に敗れるもオーストリアの近代化に成功
マリア・テレジアが幼なじみのフランツ(フランツ1世(神聖ローマ皇帝)) と恋愛結婚したのが19歳。以来生涯で16人の子宝に恵まれた。4人目の子を懐妊中、父・カール6世(神聖ローマ皇帝)が死去、23歳で広大なハプスブルク家領を相続した。これに他国が干渉してきた。プロイセンのフリードリヒ2世(プロイセン王)がオーストリア領の工業地帯シュレジエン(現ポーランド)を占拠、「女帝」となったマリアは抗戦し、オーストリア継承戦争が始まった。しかし反ハプスブルク家勢力がこぞってプロイセンについたため、敗戦。
以後マリアは失地を取り返すべくオーストリアの近代化を急速に進める。中央集権化を図り、徴兵制による富国強兵策を布いた。国民の健康と教育を重視し、病院の建設、義務教育を実施した。
少女時代のマリア・テレジア。七年戦争は敗北に終わったが、内政は安定していたため、オーストリア国民から「国母」として愛された。
マリアは200年来の宿敵フランスと手を組み(外交革命)、他諸国を相手に七年戦争を起こした。シュレジエン奪還を目指し、プロイセンを包囲。しかし勝利を目前にして、ピョートル3世が戦線を離脱。フランスも植民地の戦争でイギリスに敗れた。孤立したマリアは再度敗れてしまった。
ヨーロッパ主権国家体制の展開
危機の時代の主権国家
プロイセンとオーストリアの絶対王政
啓蒙専制君主
ヴォルテールなどの啓蒙思想の影響をうけながら、中央集権化、近代化を推し進めた18世紀の専制君主。このような君主は、中・東欧に多く、オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエカチェリーナ2世などがあげられる。彼らは、啓蒙思想の影響で、一般に農民保護などの社会改革をめざす開明的な一面をもっていたが、他方では、国内の経済発展が未熟で貴族に対抗すべきブルジョワがなお力をもっていなかった、みずから「上からの改革」に乗りださざるをえなかった。
オーストリアのハプスブルク家は、15世紀以降、神聖ローマ皇帝を世襲してきた。フランスと結んだオスマン帝国の侵攻にしばしば悩まされ、1529年と1683年には、首都ウィーンを包囲された。( オスマン帝国の拡大 – 第1次ウィーン包囲, 第2次ウィーン包囲 )しかし、この危機を脱したのちはカルロヴィッツ条約(1699)でハンガリーの支配権を確立し、11の民族からなる多民族国家として、ヨーロッパ有数の強国にのしあがった。
しかし1740年に男子の相続者が絶え、父カール6世(神聖ローマ皇帝)の残した「プラグマティッシェ=ザンクティオン(王位継承法)」に従って、皇女マリア・テレジア(位1740〜1780)がハプスブルク家の領土をつぐと、フランスやプロイセンが異議を唱えて開戦した(オーストリア継承戦争 1740〜1748)。この戦争でマリア・テレジアはオーストリア王位の継承は承認されたが、シュレジエンの領有は認められなかった。このためマリア・テレジアは、1756年には宿敵ブルボン家のフランスと結ぶという思い切った政策をとって、シュレジエンの奪回をめざした(七年戦争 1756〜1763)が、やはり成功しなかった。即位後のマリア・テレジアは、中央集権化をめざして行政・軍事・税制などの改革に努め、商工業の振興など富国強兵をはかることで、プロイセンに対抗しようとした。農民の保護をめざして農業改革を実践したのも、オーストリアの国力の回復をねらってのことであった。
1765年から母マリア・テレジアと共同統治を始めたヨーゼフ2世(位1765〜1790)は、カトリックを守るべき立場の神聖ローマ皇帝を兼ねていたにもかかわらず、宗教の自由を認め、教育や税制の改革、農奴解放をさえ試みたといわれる典型的な啓蒙専制君主であった。しかし、ネーデルラントやハンガリーで反乱がおこり、教会勢力の反発もあって、その政策は十分な効果をあげることができなかった。
画面右側、椅子に座り指で自分を指している女性がマリア・テレジア。夫フランツ1世(神聖ローマ皇帝)も左手で彼女を指しているが、長男ヨーゼフ2世も同様の仕草をしている。また、この絵には多数の子供が描かれているが、彼女は合計16人を出産した。
ヨーロッパ諸国の海外進出
英・仏の植民地戦争
オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして1756年に開始した七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政, プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営)も、植民地では英・仏の対立が中心となった。
子女
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1737-1740)(1737年 – 1740年)
- マリア・アンナ・フォン・エスターライヒ(1738-1789)(1738年 – 1789年) – エリーザベト修道院に入る
- マリア・カロリーナ・フォン・エスターライヒ(1740-1741)(1740年 – 1741年)
- ヨーゼフ2世(1741年 – 1790年) − 神聖ローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王
- マリア・クリスティーナ・フォン・エスターライヒ(1742-1798)(1742年 – 1798年) – フリードリヒ・クリスティアン(ザクセン選帝侯)の弟アルベルト・カジミール・フォン・ザクセン=テシェンの妃、テシェン女公、ネーデルラント総督
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ(1743-1808)(1743年 – 1808年) − インスブルック修道院長
- カール・ヨーゼフ・フォン・エスターライヒ(1745-1761)(1745年 – 1761年)
- マリア・アマーリア・ダズブルゴ(1746年 – 1804年) – フェルディナンド1世(パルマ公)妃
- レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)(1747年 – 1792年) – トスカーナ大公、のちローマ皇帝、ボヘミア王、ハンガリー王
- マリア・カロリーナ(1748年)
- ヨハンナ・ガブリエーラ・フォン・エスターライヒ(1750年 – 1762年)
- マリア・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ(1751-1767)(1751年 – 1767年) − フェルディナント1世(両シチリア王)との結婚直前に死去
- マリア・カロリーナ・ダズブルゴ(1752年 – 1815年) − フェルディナント1世(両シチリア王)(シチリア王フェルディナンド3世)妃
- フェルディナント・フォン・エスターライヒ(1754年 – 1806年) – オーストリア=エステ大公
- マリー・アントワネット(1755年 – 1793年) – ルイ16世妃(フランス王)
- マクシミリアン・フランツ・フォン・エスターライヒ(1756年 – 1801年) – ケルン大司教(選帝侯)
同時代の人物
田沼意次(1719〜1788)
九代将軍家重のもと1767年(明和4)に御側御用人、5年後に老中となる。27年間にわたり幕府の実権を握り、思い切った殖産興業により「田沼時代」と呼ばれた重商主義を推進、幕府財政を改善させた。