ムスリム商人
イスラーム教徒で商業に従事する人びと。アラビア商人、イスラーム商人。アッバース朝治下の10世紀以降、西アジアを中心に広大な領域を支配したイスラーム国家は、硬貨・為替手形・小切手を用い、各地を結ぶ交通路の整備で広大なイスラーム経済圏を築き、商人は得た利潤でモスクや学院を寄進しイスラーム文化の保護者的役割も果たした。
ムスリム商人
ムスリム商人のおもな貿易路と主要取引品地図
イスラーム世界の形成と発展 / 産業と経済の発展
西アジアを中心に広大な領域を支配したイスラーム国家は、東ローマ帝国の金貨とササン朝の銀貨を継承し、ディナール金貨とディルハム銀貨を正式な流通貨幣とする二本位制を定めた。ウマイヤ朝やアッバース朝時代には、ヌビアやアフリカ内陸部で産出する金とイラン東部からもたらされる銀を用いて純度の高い貨幣が鋳造され、遠距離貿易の取引に広く用いられた。またアッバース朝時代になると、為替手形(スフタジャ)や小切手(チェック、サック)などを用いて取り引きする手形決済の方法も発達した。
広大なイスラーム経済圏の出現と各地を結ぶ交通路の整備は、商品経済の発達を促し、貨幣の流通はいちだんとさかんになった。政府は都市や農村から貨幣と現物の2本立てで租税を徴収し、官僚や軍隊には予算に基づいて現金俸給(アター)を支払った。このような支払い方法は高度に発達した貨幣経済を基礎にして初めて可能だったのである。
商品経済の発展につれて、各地の手工業生産も活発となった。エジプトの亜麻織物、ダマスクスやモスルの綿織物、絹織物、バグダードやサマルカンドの貴金属、紙、ガラス製品、イラン・イラク地方の絨毯など各種の特産物が、イスラーム世界ばかりでなく、東ローマ帝国や西ヨーロッパに向けて輸出された。これに対してイスラーム教徒の商人は、中国の絹織物、陶磁器、インドや東南アジアの香辛料、ロシアの毛皮、奴隷、東ローマ帝国の絹織物、西ヨーロッパの木材、鉄、アフリカの金、奴隷などをイスラーム世界にもたらした。
こうして8世紀の半ば以降、遠距離貿易による外国商品と農村からの原料や食料は都市に集中し、これらの経済活動を支える商品は都市社会の富裕階級を形成するようになった。彼らは交易によって獲得した利潤を私領地経営に注ぎ込み、綿・稲・砂糖キビなど商品作物の栽培を精力的に推し進めた。またこれらの商人たちは、イスラームの倫理に基づいて富の社会的還元をはかることも忘れなかった。各地の都市には商人の寄進によってモスクや学院(マドラサ)が建設され、彼らはイスラーム文化の保護者としての役割を果たしたのである。
イスラーム社会の町づくり
イスラーム社会の町づくりは、カリフやスルタン、高級官僚、軍人、商人など富裕者による寄進(ワクフ)によって行われた。寄進の行為と寄進された農地や店舗などを共にワクフという。これらの富裕者は、自らの財産を寄進してモスク、学院、病院、隊商宿(ハーン)、神秘主義者の道場(ハーンカーまたはザーウィヤ)などを建設し、また建設後の管理・維持費も同じくワクフ収入から賄われた。
イスラーム世界の形成と発展 / 人とものと知識の交流
イスラーム社会ではアラビア語が公用語として用いられ、また各地の都市を結ぶ交通路の安全が確保されたことによって、人と物の交流はさらに活発となった。
毎年おこなわれるメッカ巡礼(ハッジ)も人の交流を盛んにし、イスラーム文化の統一に大きく貢献した。『コーラン』は貧者や旅人への保護をくりかえし説いているが、たとえばマリーン朝の探検家・イブン・バットゥータ(1304〜1368)が大規模な旅行をすることができたのも、旅人を歓待する社会慣行の賜であった。このような人の移動をつうじて、学問の成果や新しく開発された織物・灌漑の技術などが遠隔の地にすばやく伝えられたことが、イスラーム社会の著しい特徴である。
アッバース朝時代になると、ムスリム商人(タージル)たちは、香辛料や陶磁器、金、奴隷などを求めて、イスラーム世界の外へも積極的に進出した。遠隔地貿易には、ラクダを用いる隊商貿易と、三角帆をつけた縫合型のダウ船を用いる商船貿易とがあった。
隊商貿易はシルク・ロードをつうじて西アジアと中国・南ロシアとの間を往復し、また東ローマ帝国の小アジアや内陸アフリカへと出向いていった。
一方、商船貿易は季節風を利用し、羅針盤を用いて地中海やインド洋を自由に航行し、遠く東南アジアの島々や中国沿岸の杭州や泉州にいたるものもあった。
中国・東アフリカ・東南アジアの海港都市や内陸アフリカの集落にはムスリム商人の居留地が設けられた。中国では彼らはタージー(大食)と呼ばれ、清真寺(モスク)を建設してイスラーム教徒としての生活を営んだ。12世紀以後になると、これらの居留地には法学者や神秘主義者(スーフィズム)も移り住むようになり、彼らは先住民をイスラーム信仰に導くうえで大きな役割を果たした。特に中国では、モンゴル帝国の成立以降、西アジアからアラブ人、トルコ人、イラン人など多数のイスラーム教徒が来往し、これを機にイスラーム教は中国各地に広まりはじめた。また、医学・薬学・天文学・暦法などイスラームの学術が中国に伝えられたのも、この頃のことである。
イスラーム教徒の子弟の教育は、『コーラン』の学習から始まる。家庭やモスクで『コーラン』の暗記を終えた青年たちは、すぐれた師を求めて各地の学院(マドラサ)をめぐる「学問の旅」を続け、法学・神学・哲学・歴史学などのイスラーム諸学を習得した。このような過程をへることによって、初めて一流の知識人(ウラマー)となることができたのである。たとえば、中央アジアのサマルカンドやイベリア半島のコルドバに育った青年が、イラクのバグダードやバスラ、シリアのダマスクス、そしてエジプトのカイロやアレクサンドリアと旅を続けてイスラーム諸学を身につけることは、決して珍しいことではなかった。しかも、これらの学院は寄進財産(ワクフ)の収入によって運営されていたから、入学を許可された学生は、衣服や食事を提供され、無料で学問を続けることができた。メッカ巡礼に加えて、遠隔の都市を訪ねるこのような「学問の旅」は、知識と情報の交換を盛んにし、イスラーム文化の発展に大きな影響をおよぼしたのである。
諸地域世界の交流 / 東西を結ぶムスリム商人
ムスリム商人はペルシア湾岸の港市を拠点としてインド洋・東南アジアの交易に従事した。13世紀以後、ムスリム商人により飛躍的に発展した交易にイスラーム神秘主義教団の活動が結びついて、インド・東南アジアにイスラーム教が普及しはじめた。東南アジアでは、島嶼部の沿岸地帯でイスラーム教を受け入れた小王国が現れた。
マラッカ海峡はインド洋と南シナ海の接点として重要な役割を果たすようになった。特に、マレー半島の南海岸で海峡の中央部に位置する港町マラッカ(ムラカ)が中継貿易で繁栄した。ジャワ東部のマジャパヒト王国からの圧力を抑え、15世紀前半には鄭和の艦隊の保護を受けつつタイのアユタヤ朝の支配を脱し、その後はインド洋方面の交易を進めると同時にイスラーム教を受け入れ、本格的なイスラーム王国に成長した。東南アジアのイスラーム化はマラッカ王国を布教の中心として進められ、交易ルートに乗って島嶼部全域に拡大した。
1511年、ポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケがマラッカ王国を占領して、ポルトガル領マラッカを成立させた。ポルトガルは武力での交易独占、さらには関税による利益の獲得をはかったが、航路の拡散やコショウ栽培地の拡大をもたらし、各勢力が分立する結果となった。
マレー半島南部のジョホール王国、ジャワ島西部のバンテン王国、ジャワ島中部・東部のマタラム王国、スマトラ島北端のアチェ王国、スラウェシ島南部のマカッサル王国などのイスラーム国家が香辛料交易で栄えた。
ムスリム商人によるインド洋交易の西に拠点になったのがアフリカの東海岸であった。10世紀以後には、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワなどの海港都市でのムスリム商人の活動が活発となった。特に金・象牙・奴隷の取引が行われた。この海岸地帯では、アラビア語の影響を受けたバントゥー語などからスワヒリ語が商業上の共通語として成立し、内陸部へも普及した。
インド洋と地中海を結ぶ交易は、当初、ペルシア湾からバグダードを経由するルートが中心であった。そのためバグダードはおおいに繁栄した。しかし、10〜11世紀にバグダードが政治的に混乱状態に陥り、衰退すると、紅海ルートが交易の中心となった。紅海ルートは、イエメンのアデンを起点として紅海西岸のアイザーブから陸路で上エジプトのクースへ行き、ナイル川を経て回路に入り、地中海沿岸のアレクサンドリアにいたるものであった。これにより新たに交易の中心となったのが、カイロである。
ムスリム商人は、インド・東南アジアで産出されたコショウやナツメグなどの香辛料、乳香や白檀などの香料、マングローブやココヤシなどの木材、および中国で産出された絹織物・陶磁器などをインド商人と連携して購入した。交易品はダウ船に積載されて、インド洋から紅海ルートで、カイロ・アレクサンドリアに運ばれた。
ダウ船とジャンク船
ダウ船は、ムスリム商人によるインド洋交易で活躍した。逆風でも進める帆をもち、チークやココヤシの木材に穴を開けて紐で縫い合わせたものを、木釘で船体に打ち付けて水漏れ防止に瀝青や鯨油を塗った縫合船である。最大のダウ船は1隻で、ラクダ600頭で運ぶ180トンの積荷の運搬が可能であったという。
ジャンク船は中国で作られた蛇腹式の帆をもつ外洋船である。松や杉を材料とした竜骨を持つ構造船で、中は隔壁によって分けられ、堅固な側板を備えていた。10〜11世紀からこのジャンク船に羅針盤を利用して外洋に出発した。泉州で発掘された宋代のジャンクは長さ24m、幅9mで2本の帆柱を備えていた。約200トンの積載が可能であったと推定されている。船は次第に大型化し、鄭和の南海遠征の時の最大の「宝船」は長さ約152m、幅62mにおよび、少なくとも400〜500人、多ければ1000人の乗組員がいたと推定されている。
東西交易の利益を独占したのがアイユーブ朝、マムルーク朝のエジプトであった。その王朝の保護のもとで遠隔地交易をになったムスリム商人グループをカーリミー商人と呼ぶ。彼らはアデンの港で東方の物産を買い付け、カイロに運ぶとともに、アレクサンドリアの商館でイタリア商人に売却した。アイユーブ朝の建国者サラーフッディーンはカーリミー商人の取引に課税して国庫収入の増大をはかると同時に、手厚い保護を与えた。1174年には兄トゥーラーンシャーを派遣してアデンを攻略し、1183年にはシリア南部の十字軍勢力による紅海進出を打ち破り、紅海からキリスト教徒・ユダヤ教徒の商人を締め出す政策を実行した。これにより後悔はカーリミー商人の海となった。カーリミー商人は各地に代理人の派遣、商館の建設を進めて交易活動を拡大し、砂糖工場・金融を営むことで巨万の富を築く一方で、モスクや学院の建設・寄進にも熱心であった。彼らの活躍は1438年のマムルーク朝スルタン・アシュラフ・バルスバーイ(在位1422〜1438)による砂糖や香辛料などの専売制実地まで続いた。
金を求めるムスリム商人は塩を対価として、北アフリカからサハラ砂漠を縦断して内陸アフリカにいたる交易を行なっていた。エジプトが国際的な交易の拠点となると、15世紀にはこの南北の交易路が東側に移動し、金・奴隷と馬・布地の交換が進められた。
カイロを中心とするエジプトの繁栄を支えたもう一つの要素が豊かな農業生産であった。従来からナイル川の沃土による豊かな小麦の収穫に加えて、綿・ゴマ・サトウキビなどの食品作物が重要なものとなった。サトウキビを原料とする砂糖は輸出品として各地で珍重された。マムルーク朝の時期に、黒砂糖を精製した白砂糖、そして最高級品であった氷砂糖の生産も行われるようになり、エジプトはイスラーム世界随一の砂糖生産国に変貌した。カイロはイスラーム世界の経済と文化の中心地として繁栄した。