メッテルニヒ
メッテルニヒ像(トーマス・ローレンス画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

メッテルニヒ

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メッテルニヒ Metternich( A.D.1773〜A.D.1859)

オーストリア帝国外相(任1809〜48)・宰相(任1821〜48)。ナポレオン没落後のヨーロッパを再組織するためのウィーン会議を主宰し、ウィーン体制の成立・維持に指導的役割を果たした。自由主義・国民主義運動の抑圧に努めたが、ラテンアメリカ諸国の独立やギリシア独立運動への干渉に失敗、抑圧と反動のシンボルとして民衆の憎悪の的となり、48年の三月革命の結果失脚してイギリスに亡命。

メッテルニヒ

オーストリアの政治家、外交官。外交官の子として生れ、シュトラスブルク、マインツの大学で外交と法律を学んだ。マインツでフランス革命軍を目撃、亡命貴族たちとの対話を通して、その生涯の反動思想をはぐくんだ。1795年前宰相 W.カウニッツの娘と結婚、高位の官職につく資格を得、98年ウェストファリア代表としてラシュタット会議に出席。1801年ザクセン駐在公使、03~05年ベルリン駐在公使、06年パリ駐在大使を経て、09年10月外相となり、対フランス戦に敗れたオーストリアの再建をはかるとともに、老練な外交手腕と権謀術策を用いて13年に始るナポレオン1世に対するヨーロッパの解放戦争を勝利に導いた。14~15年ウィーン会議を主宰し、15年神聖同盟、四国同盟などを成立させ、列強の力の均衡に基づく平和維持に主眼をおき、ロシアとプロシアの勢力拡大を巧妙に押えて、いわゆるウィーン体制を築き上げ、エクスラシャペル(1818)、ライバハ(21)、ベロナ(22)などの列強会議において、彼の国際的名声は絶頂に達した。21年宰相に就任。しかしイギリスが他国の革命に対する干渉政策を放棄したとき、西ヨーロッパに対する彼の影響力も衰えはじめた。26年以降急速に崩壊の一途をたどる多民族国家オーストリアの現状維持のため、ドイツ内外の自由主義・国民主義運動の抑圧に努めたが、ラテンアメリカ諸国の独立やギリシア独立運動への干渉に失敗、抑圧と反動のシンボルとして民衆の憎悪の的となり、48年の三月革命の結果失脚してイギリスに亡命、51年帰国。政界への復帰はならなかった。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

ウィーン会議

ウィーン会議の様子
ウィーン会議の様子( Jean-Baptiste Isabey画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

プロイセン王国宰相ハルデンベルク ❷[議長]:オーストリア外相メッテルニヒ ❸イギリス外相カスルリー ❹フランス外相タレーラン
ナポレオン戦争の戦後処理を行うため、1814〜15年にかけて開催されたウィーン会議の様子。革命勢力の抑制、安定した国際秩序の創出を主眼に、領土や外交上の制度が定められた。

革命後の揺り戻しを演出

オーストリア外相。保守主義で、革命前の正統王朝と旧制度の復活を目指す「正統主義」を主張。新しい世界の枠組み「ウィーン体制」を築き上げた。仏独国境近くの大学在学中にフランス革命が勃発、ナショナリズムへの強い警戒心を抱く。36歳で外相となり皇女マリ=ルイーズとナポレオンの結婚を画策。ナポレオンがロシア遠征に失敗すると対仏大同盟を結成、追い落としを成功させた。ウィーン会議ではロシア皇帝の神聖同盟を「ナンセンスなおしゃべり」と酷評しつつ反動的理念を利用。英、露、プロイセンと四国同盟を結び内外の革命や国民主義、自由主義を弾圧、「メッテルニヒ時代」をつくる。

参考 ビジュアル 世界史1000人(下巻)

欧米における近代国民国家の発展

ウィーン体制

ウィーン会議
ウィーン会議
ウィーン会議(1814〜15)の風刺画 (元画像:fineartamerica

メッテルニヒ(オーストリア外相・1821〜宰相)を議長に開催されたウィーン会議で、オーストリア皇帝がヴェネツィア・ロンバルディアを獲得しようとするなど有力国が領土再編をめぐり権謀術数をつくしているさまが描かれている。「会議は踊る、されど進まず」といわれたこの会議は、タレーラン(フランス外相)の提唱した正統主義を原理に、大国間の利害一致・勢力均衡の観点から妥協が成立し、ウィーン議定書が結ばれた。 参考: 山川 詳説世界史図録

ナポレオン1世がエルバ島に流刑にされたあと、1814年4月第1次パリ平和条約が締結されたが、フランス革命とナポレオンによって生じた混乱に終止符をうち、新しい国際秩序を確立するために、1814年9月から15年6月にかけてウィーン会議が開催された。この会議にはイギリスからはカッスルレー、フランスはタレーラン、ロシアからアレクサンドル1世、プロイセンからはハルデンベルクらが参加したが、司会をおこなったのはオーストリアの外相(のちの宰相)であるメッテルニヒであった。各国の思惑と利害の対立は深刻であったので、「会議は踊る、されど進まず」という状態が続いた。タレーランの提唱した正義主義は各国の君主に歓迎されて基本原則として採用され、ヨーロッパ各国の勢力均衡がはかられた。ナポレオンのエルバ島脱出の知らせのあと、最終議定書(ウィーン議定書またはウィーン条約)がワーテルローの戦いの直前になって成立した。
議定書では、

  1. フランス・スペイン・ナポリではブルボン家が復位する。
  2. ローマ教皇領が復活し、サルデーニャはサヴォイア・ジェノヴァを獲得する。
  3. ポーランドの大部分にはロシア皇帝を王とするポーランド立憲王国が成立する。
  4. プロイセンはザクセンの一部とライン左岸を獲得する。
  5. 神聖ローマ帝国は復活させず、35の君主国と4つの自由市からなるドイツ連邦を構成する。
  6. イギリスはオランダからセイロン(スリランカ)とケープ植民地を、そして戦時中占領した地中海のマルタ島を獲得する。
  7. オランダは海外の植民地を喪失した代償に南ネーデルラント(ベルギー)を獲得する。
  8. オーストリアは南ネーデルラントを喪失した代償として北イタリアのロンバルディアとヴェネツィアを獲得する。
  9. スウェーデンはフィンランドをロシアに、西ポンメルンをプロイデンに割譲するかわりにノルウェーを獲得する。
  10. スイスを永世中立国とする。

ということが決められた。この決定では自由主義・国民主義に対する配慮はなされず、メッテルニヒの方針は貫徹され、保守反動の国際体制が生まれた(ウィーン体制)。

この国際体制の安定のために結成されたのが、ロシア皇帝アレクサンドル1世が提唱した神聖同盟であった。1815年9月に成立したこの同盟は、キリスト教の正義と博愛の精神にもとづいて平和維持のために連帯すべきとするもので、「けだかい神秘主義とナンセンスの紙切れ」と会議代表カッスルレーが批判したイギリス、イスラーム教国のオスマン帝国、新教国と同盟することを拒否したローマ教皇をのぞいて、ヨーロッパ各国君主が参加した。神聖同盟により実質的に反動体制維持の機能をもっていたのが、1815年11月に成立した四国同盟であった。ナポレオン打倒の中心となったイギリス・ロシア・オーストリア・プロイデンの四大国から構成され、革命の防止、紛争の終止をはかった。

メッテルニヒ
メッテルニヒ像(トーマス・ローレンス画/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ウィーン体制の成立・維持に指導的役割を果たしたメッテルニヒも、1848年3月13日失脚し、イギリスに逃亡した。1851年帰還後は、時折フランツ=ヨーゼフ1世の顧問官を勤めた。

1818年11月のエクス=ラ=シャペル会議でフランスの参加が認められて五国同盟 Quintuple Allance となったが、ヨーロッパ各地での自由主義・国民主義運動ににらみをきかせ、その抑圧をはかった。しかし、イギリスだけは1822年のヴェロナ会議以降この五国同盟から実質的に脱退し、メッテルニヒとも対立しながら自由主義外交の方針に転換した。

ウィーン体制の動揺
ウィーン体制下のヨーロッパ地図
ウィーン体制下のヨーロッパ地図 ©世界の歴史まっぷ

ウィーン体制は、ナポレオンによって高揚されたナショナリズム運動や自由主義運動を抑圧するものであったため、各地で抵抗運動がおきた。
ドイツ連邦では、1815年イエナにおいてブルシェンシャフト(学生組合)が結成され、ドイツの各大学に普及して、17年の宗教改革300年祭をきっかけとしたヴァルトブルクの森での集会で頂点に達した。この自由主義運動に警戒心をもった国家君主とメッテルニヒは、カールスバートにおいて運動弾圧の決議をおこない、学生組合は解散させられ、思想統制が徹底された(ブルシェンシャフト運動)。

ラテンアメリカの独立

18世紀末のいわゆる大西洋革命によって、ラテンアメリカにも人間の自由と平等の観念が普及し、ナポレオンによるスペイン=ブルボン家の打倒を機会に自律化が促進され、そして本国の圧政に対する不満もあって1810年代から本格的に独立運動が展開された。

国際情勢が有利に展開したことも独立運動成功の一因であった。メッテルニヒはラテンアメリカの独立運動がヨーロッパのナショナリズムを刺激することを恐れて干渉したが、ラテンアメリカを産業資本の市場として確保しようとしたイギリスは、外相カニングが四国同盟(フランス加盟後は五国同盟)とは一線を画し、自国の経済的利益を優先する方針をとり、自由主義外交を展開して干渉を牽制した。さらにヨーロッパ諸国の進出に警戒心をもち、ラテンアメリカに対する影響力を確保しようとするアメリカ合衆国大統領モンロー Monroe (1758〜1831, 任1817〜25)が、1823年ヨーロッパとアメリカ大陸の相互不干渉を提唱するモンロー教書(宣言) Monroe Docttine を発表したことも、メッテルニヒの干渉を失敗に終わらせることになった。

ギリシア独立戦争

当時オスマン帝国の支配下にあったギリシアにおいても高揚した。オスマン帝国はエジプトの協力をえて、キオス島の残虐事件など徹底的な力による弾圧をおこなった。これに対してロシア・イギリス・フランスはギリシアの独立運動支援にまわり、カニングの仲介によって同盟を結成した。1827年の英・仏・露の三国艦隊によるナヴァリノの海戦が勝利に終わったことは、ギリシアの独立を確実なものとした。オスマン帝国は同じ複合民族国家であるオーストリアのメッテルニヒに支援を期待したが、えられなかった。

二月革命とその意義

オーストリアではウィーンにおいて三月暴動が発生し(ウィーン三月革命)、ウィーン体制の象徴的人物であったメッテルニヒが失脚し、イギリスに亡命した。宮廷は困惑し、憲法制定を発布し自由主義的改革を約束したが、反動勢力の成功を背景に反撃に転じて10月までには運動を鎮圧した。

ウィーン体制の成立流れ図

48.ウィーン体制の成立
48.ウィーン体制の成立流れ図 ©世界の歴史まっぷ
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