リチャード1世
リチャード1世 (1841-Merry-Joseph Blondel 画/ヴェルサイユ宮殿蔵) ©Public domain

リチャード1世(イングランド王)

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リチャード1世(イングランド王) Richard I A.D.1189〜A.D.1199

プランタジネット朝第2代のイングランド王(在位1189年7月6日 - 1199年4月6日)。父王ヘンリー2世の対大陸政策を継承。第3回十字軍を組織し、アイユーブ朝と戦う。フィリップ2世(フランス王)と戦う。

リチャード1世(イングランド王) ・獅子心王

第3回十字軍で獅子奮迅の活躍

聖地エルサレムイスラームのアイユーブ朝のサラディン(サラーフッディーン)によって奪われたため、イギリス・フランス・ドイツ連合による第3回十字軍が組織された。ところが、リチャード1世がフィリップ2世(フランス王)の妹との婚約を破棄するなどの原因で不仲になる。その調停役のフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)が不慮の死(溺死)をとげたため、フィリップ2世は帰国。リチャード1世がサラディンと孤軍奮闘した。勇敢な戦いから「獅子心王」の異名をとったが、エルサレムの奪還はならず、和睦した。

その帰路、リチャード1世はオーストリア公に捕らわれる事件が起こり、イギリスは莫大な身代金を払う羽目になった。

帰国後は内政をウォルター行政官に任せて、再び出征する。ノルマンディー奪回を企画したフィリップ2世との戦いだったが、敵の流れ矢に当たり、横死した。

フィリップ2世(フランス王)と戦ったリチャード1世は、父王ヘンリー2世(イングランド王)が王位にあったころ、父に対して再三反乱を起こしており、その時はフィリップ2世(フランス王)に臣従していた。
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ヨーロッパ世界の形成と発展

ヨーロッパ世界の形成と発展
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ中世世界の変容

初期の十字軍

初期の十字軍の成功は、イスラーム側の内紛に助けられたものであったが、このころイスラーム世界にサラディン(サラーフッディーン 1138〜1193)が登場すると、形勢は大きく逆転することになった。サラディンはアイユーブ朝(1169〜1250)を立てると、ファーティマ朝を滅ぼしてエジプトにスンナ派信仰を回復し、シリアをもあわせて反十字軍の統一勢力を結集した。その結果、エルサルム王国はサラディンにより1世紀たらずで奪回された。(1187)

これに対し、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)フィリップ2世(フランス王)リチャード1世(イングランド王)の三大国の君主からなる第3回十字軍(1189〜1192)が結成された。
だが、大軍を率いたフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は途中小アジアで不慮の事故死を遂げ、フィリップ2世(フランス王)はリチャード1世(イングランド王)と対立し、アッコンを奪還後帰国した。
リチャード1世(イングランド王)だけがその後もサラディンとわたりあったが、結局エルサレムを奪回することはできなかった。なお、この第3回十字軍に際して、ドイツ騎士団が成立している。

初期の十字軍 – 世界の歴史まっぷ

封建制・荘園制の崩壊
イギリスでも、1381年ワット・タイラーの乱がおこった。百年戦争の戦費確保のために導入された人頭税に農民が反発、ワット・タイラーや説教僧のジョン・ボールに率いられ、イングランド東南部からロンドン市内に進撃し、一時ロンドンを占領した。
リチャード2世(イングランド王)との直接交渉により、農奴制の廃止、取引の自由、地代の減額などを約束させたが、まもなくタイラーは奸計にかかって殺され、反乱は鎮圧された。約束は取り消され、ジョン・ボールらの指導者も捕らえられ、処刑された。だが、その後も各地で反乱が続発し、結局農民たちは身分上の自由を勝ち取っていった。
ワット・タイラーの乱
ワット・タイラーの乱 (ジャン・フロワサール画) ©Public Domain

画面左側ではロンドン市長(剣をかざしている人物)にワット・タイラー(剣を抜こうとしている人物)が殺害され、中央の馬に乗ったリチャード1世(イングランド王)がそれをみている。その国王が、右側場面では農民軍に対して帰郷するように説得している。場所はロンドン市内のスミスフィールド。中央の紋章はイングランド国王のもの。

封建制・荘園制の崩壊 – 世界の歴史まっぷ

イギリスの封建社会と身分制議会

獅子心王リチャード1世(イングランド王)は、第3回十字軍( 初期の十字軍 – 世界の歴史まっぷ)から帰国の途中オーストリア大公の捕虜となり、その身代金支払いや莫大な軍費負担に諸侯の不満はつのり、全面的な反抗を招くことになった。

イギリスの封建社会と身分制議会 – 世界の歴史まっぷ

詳説世界史研究

生涯

リチャード1世系図
リチャード1世系図 ©世界の歴史まっぷ

系図全体図はこちら

耐えない父子兄弟間の争い

父ヘンリー2世には若ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ジョンの4人の男子がいたが(長兄ウィリアムは夭折)、ヘンリー2世のジョンへの偏愛やフランス王の介入、さらに母アリエノールの息子たちへの助力もあり、フランス王、支配下諸侯を巻き込んだ父子兄弟間の争いが絶えなかった。
リチャードは母の所領のアキテーヌを分配され、1183年に若ヘンリーが亡くなるとヘンリー2世の後継者となったが、代わりにそれまで統治していたアキテーヌをジョンに譲渡するよう父に命じられると、兄のように実権がない名目だけの共同君主とされることを嫌がったリチャードは、これを拒絶し反抗した。

その後、一旦父と和解したが、支配権をめぐる不満は残り、1188年、ヘンリー2世とフランス王・フィリップ2世(尊厳王)の争いのさなかの和平交渉中、フィリップ2世がヘンリー2世に、リチャードに大陸側のすべてのプランタジネット家領を相続させ、かねてから婚約していたフィリップ2世の異母姉アリス(兄若ヘンリーの妃マルグリットの同母妹)とすぐにでも結婚させるよう求めると、ヘンリー2世はこれを拒否した。
するとリチャードは、「以前から有り得ないと思っていたことが、今ようやく事実なのだと分かった」と言い、父の前でフィリップ2世に臣従の誓い(オマージュ)をし、公然と父を否定し敵対した。
1189年に力尽きた父がシノンで病死すると、イングランド王に即位した。

第3回十字軍

即位するや、王庫の金やサラディン税、軍役代納金だけでは足りないため、城、所領、官職等を売却して十字軍遠征のための資金を集めた。
父が得たスコットランドの臣従をスコットランド王ウィリアム1世に1万マルクで売り渡し、「もし適当な買い手があればロンドンでも売る」と言ったとされる。
資金が集まると、イングランドにはほとんど滞在せず、1190年の夏に遠征に出発した。フランス王・フィリップ2世や神聖ローマ皇帝(ドイツ王)フリードリヒ1世(バルバロッサ)もリチャードとともに十字軍を指揮した。

メッシーナ占領

聖地へ向かう途中、シチリアで先代の王グリエルモ2世の未亡人である妹ジョーンの扱いを巡ってシチリア王・タンクレーディと争い、メッシーナを占領しこれを屈服させた。この時のシチリア王との協定の中では、リチャードは後継者を甥で弟ジェフリーの遺子アーサー(アルテュール)と明記している。

キプロス占領

1191年春、母アリエノールがはるばるシチリアまで連れてきた婚約者のベレンガリアと妹のジョーンと共にエルサレムへと向かったが、途中キプロスでベレンガリアとジョーンが乗った船が難破し、東ローマ帝国から独立していたキプロス太守が身代金目当てで彼女らを捕らえたため、リチャードはこれと戦ってキプロスを占領し、5月12日にキプロスのリマソルでベレンガリアと結婚した。

フィリップ2世(尊厳王)の異母姉アリスとの婚約破棄

第3回十字軍はフィリップ2世や神聖ローマ皇帝のフリードリヒ1世というヨーロッパを代表する大国の王が参加したが、たがいに反目しあったため、相互の連携は不首尾に終わった。フリードリヒ1世は一足先に出発し、すでにキリキアで溺死していた。フィリップ2世とは途中まで同行し、シチリア島でも合流したが、フィリップ2世の異母姉アリスとの婚約を正式に取り消し、ナバラ王サンチョ6世の娘ベレンガリアと婚約したことなどにより互いに対立が顕著になって、その後は別行動を採るにいたった。以降、フィリップ2世はリチャードに対してあからさまに敵対するようになった。

イスラーム徒の捕虜2700人あまりを処刑

1191年7月、フィリップ2世、オーストリア公レオポルト5世と共にアッコンを攻め落としたが、その際、レオポルト5世が自身の功績を誇示し旗を掲げたのをリチャードの側近が叩き落としたため、レオポルト5世は激怒し帰国している。後述するように、この出来事に遺恨をもったレオポルト5世は後に帰国途次のリチャードを捕らえることになる。アッコン降伏時には停戦の条件として、イスラーム徒の市民(捕虜)の身代金の支払い、キリスト教旧司教座に安置されていた大十字架の返還およびキリスト教徒の捕虜の解放などが協約として結ばれていた。だがイスラム側はこれを延期し続けた。8月20日、リチャードはアイユーブ朝のスルタン・サラーフッディーン(サラディン)の弟との会合に赴くが、そこには誰の姿もなく、捕虜の食費と監視の費用の支出など我慢の限界に達したリチャードは、イスラーム徒の捕虜2700人あまりを処刑した。

エルサレム王国の次期国王を巡っては、前国王でリチャードにとっては旧知のギー・ド・リュジニャンが王位を主張していた。しかしエルサレム王女イザベルと結婚したモンフェラート侯コンラート1世が諸侯の支持も得て対立しており、リチャードもコンラート1世の即位を承認した。ところが1192年、即位直前のコンラート1世が暗殺され、最終的にフランス王、イングランド王両方の甥に当たるシャンパーニュ伯アンリ2世がイザベルと結婚して王位についた。ギーはリチャードからキプロス島を譲渡され、キプロス王として統治することになった。

サラディンと休戦条約

フィリップ2世はアッコンを占領してまもなく、1191年7月31日には病気を理由に自国へと帰っていた。このため単独で十字軍を指揮し、1年以上イスラム軍と戦ったが、エルサレムに達することはできず、1192年9月2日、「非武装のキリスト教徒の巡礼者がエルサレムを訪れることを許可する」旨の休戦条約を結び、自らはエルサレムに詣でることを辞して、帰路についた。しかしエルサレム王国はこの後1世紀にわたって存続し、サラディンからはキリスト教徒一の騎士と称えられた。

ドイツでの捕囚と謀反

フランスに帰国したフィリップ2世は、神聖ローマ皇帝・ハインリヒ6世やジョンと結託し、ジョンの王位簒奪を支援していた。
リチャードはその陰謀を母から知らされており、帰路を急いだが、途中で船が遭難したため、変装して陸路をたどった。しかし、オーストリアを通過中に見破られ、アッコンでの屈辱を忘れていなかったレオポルト5世(フィリップ2世同様すでに帰国していた)に捕らえられ、デュルンシュタイン城に幽閉された。この時ジョンはリチャードが死んだとして王位に即こうとしたが、諸侯の支持を得られず断念した。

1193年にレオポルト5世からハインリヒ6世に引き渡されたが、イングランド側が15万マルクもの多額の身代金を支払うことで決着した。ジョンやフィリップ2世は、リチャードの解放を遅らせようとハインリヒ6世と交渉したが、身代金が支払われると、リチャードは1194年2月に解放された。この時、フィリップ2世は手紙でジョンに「気をつけろ、悪魔は解き放たれた」と知らせたといわれる。

ガイヤール城を築く

解放後はイングランドに戻り、ジョンを屈服させ王位を回復するが、イングランドはカンタベリー大司教で大法官のヒューバート・ウォルターにまかせ、その後はフランスでフィリップ2世と争い、各地を転戦する。この時期にノルマンディー防衛のために、中東の先進の要塞構築技術を取り入れたことで有名なガイヤール城を築く。

1199年3月25日、アキテーヌ公領・シャリュでシャリュ城を攻撃中、鎧を脱いでいた時に肩にクロスボウの矢を受け、その傷からの壊疽によって10日ほど苦しんだのち、4月6日に死亡した。41歳であった。リチャードは十字軍中には後継者を甥のアーサーと考えていたが、その後アーサーがフィリップ2世に臣従したことから、ジョンを後継者にしたといわれる。

第3回十字軍の英雄であり、中世騎士道の鑑と謳われたリチャード1世は、その在位中イングランドに滞在することわずか6ヶ月で、国王としてその能力を発揮することはなかった。

リチャード1世が登場する作品

ロビン・フッド

ロビン・フッド リチャード1世(イングランド王) ジョン(イングランド)
ロビン・フッド

12世紀末のイングランドを知る映画 ロビン・フッド

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キングダム・オブ・ヘブン

リチャード1世(イングランド王) キングダム・オブ・ヘブン
リチャード1世

再び聖地エルサレムの奪還を目的に第3回十字軍が侵攻します。この第3回十字軍に参加したイングランドの獅子心王リチャード1世がエルサレムに向かう途中、フランスに帰った主人公バリアン・オブ・イベリンのところへ寄るシーンがあります。
獅子心王リチャード1世は3年間、エルサレム奪還のために戦いますが失敗に終わり、サラディンと休戦協定を結びました。
キングダム・オブ・ヘブン あらすじと解説 – 世界の歴史まっぷ

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