ルーブル美術館
ルーブル美術館

ルーヴル美術館

ルーヴル美術館 (Louvre) パリにあるフランスの国立美術館。世界最大級の美術館(博物館)であり、世界最大級の史跡。「パリのセーヌ河岸」として世界遺産に包括登録(Paris, Banks of the Seine – UNESCO World Heritage Centre)されている。

ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともと要塞として建設したルーヴル城(ルーヴル宮殿)に収容されている。
フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王ルイ14世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。
フランス革命下の憲法制定国民議会で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。

コレクション

絵画部門

絵画部門
絵画部門

絵画部門は13世紀から1848年に至るまでのヨーロッパ絵画のあらゆる流派を代表する作品群によって、ルーヴル美術館の百科にわたる規模を反映しています。各々のコレクションの研究とその展示配置は、著名な専門家から成る12人の学芸員に委ねられています。

古代エジプト美術部門

古代エジプト部門
古代エジプト部門

古代エジプト美術部門は、先史時代末期(紀元前4000年頃)から紀元後4世紀に始まるキリスト教時代までの、ナイル川のほとりで受け継がれてきた文明の遺物を紹介しています。

古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術

古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門
古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門

古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門は、ギリシア、エトルリア、ローマという3つの文明の作品を収めています。そのコレクションは、ギリシア、イタリア、地中海沿岸地域全体まで、新石器時代の紀元前4千年から紀元後6世紀までと、地理的、歴史的に非常に広い範囲の芸術活動を私たちに見せてくれます。

古代オリエント美術

古代オリエント美術部門
古代オリエント美術部門

古代オリエント部門のコレクションは、先史時代からイスラームの到来までの9千年に及ぶ歴史と、北アフリカからインダス川、中央アジアまで、黒海(アナトリア)から(インド洋までの)アラビア半島までの広大な地域に及びます。

彫刻

彫刻部門
彫刻部門

1824年に創設された彫刻の展示室は、当時の「現代」彫刻作品を集めていました。時が流れ、中世、 ルネサンス、現代の彫刻作品を集めた部門となりました。そして、それまで彫刻部門に展示されていた古代のコレクションが1848年に、工芸品が1893年 に独立した部門となりました。

工芸品

工芸品部門
工芸品部門

美術工芸部門では、形や素材、時代もさまざまな作品が織りなす世界を紹介しています。宝飾品、金銀細工、エマイユ(七宝)、象牙細工、ブロンズ作品、堅石細工、陶磁器、ガラス細工、ステンドグラス、調度品、タピスリーなど、中世初期から19世紀前半までの作品を所蔵しています。

イスラム美術

イスラム美術部門
イスラム美術部門

イスラム美術部門は、ヴィスコンティの中庭の新しい展示室での2012年のオープンに向け、現在は閉鎖されています。この新しいスペースには、1300年の歴史と、スペインから東南アジアまで、3つの大陸に由来する作品が3,000点近く展示される予定です。

素描・版画

素描・版画部門
素描・版画部門

ルーヴルの8つの美術部門のひとつである素描・版画部門では、デッサン、パステル画、細密画、版画、本、写本、書簡、リトグラフ(木、銅、石版)などのコレクションを所蔵しています。その制作技術や光に弱い材質などから、作品の保管方法も特別です。所蔵庫で整理され大切に保管されている作品は、閲覧室での閲覧の際と企画展の際にのみ、所蔵庫から出されます。企画展の会期は3ヶ月に限られ、会期中は、作品に向けられる照明を50ルクスに、展示室の気温は20度、湿度は約50%に抑えられます。会期後、作品は所蔵庫で3年間の眠りにつきます。

ルーヴルの歴史

1190年頃 フィリップ2世が要塞として建設
ルーヴル宮殿地下室。中世ルーヴル城の面影が残る唯一の場所
ルーヴル宮殿地下室。中世ルーヴル城の面影が残る唯一の場所

フィリップ2世が、パリを防御する目的で要塞化した城壁の建設を決めた。
十字軍参戦のために国を離れる際に国王が示した都市計画の一つであるとともに、その権力の表れでもあった。
この要塞の弱点の一つであったセーヌ川との接合部分を防御するために、城の建設を考えなければならなかった。これがルーヴル城の誕生である。
フィリップ2世の建築技師たちが考案した建物は、方形の敷地に建てられ、周囲をほりで囲むとともに、四隅と建物正面側の中央部は円塔によって守られていた。その中庭の中央には、周囲を濠に囲まれた主塔がある。この城のモデルは、他の城を建設する際に、応用を加えて何度も採用されている。イル・ド・フランス地域圏のドゥルダン城は、今日でもよく保存された例の一つである。
フィリップ2世の時代のルーヴルは、王の居住ではなく守備隊のための城塞であった。ルーヴルは、今日のように町の中心地ではなく外れに位置しており、町を守るとともに、おそらく町を監視する役目も担っていた。ルーヴルの「グロス・トゥール」と呼ばれる主塔は、王の金庫として使われるともに、地位の高い人びとの監獄の役割も果たしていた。フィリップ2世の政敵フェラン伯は、ブーヴィーヌでの敗戦後、この監獄に13年間も勾留された。
しかし、城の状況はまたたく間に変わっていく。城の周りは、次第に込み入った町に取り囲まれるようになったため、要塞としての意味を失いっていった。さらに、首都の中にある複数の居住の間を移り住むことを好んだフランス国王たちは、次第にルーヴル宮に住むことになる。宮殿の地下に支柱のある大広間がしつらえられたのは、サン・ルイ王(1226—1270年)の治世下で、この遺構は今日でも目にすることができる。

1350年頃 シャルル5世が要塞から城館へ造り替える
シャルル5世時代のルーヴル。
シャルル5世時代のルーヴル。

14世紀にはフランス王シャルル5世(在位1364年 – 1380年)が、レーモン・デュ・タンブルに命じてルーヴル城を改修し、「要塞」のイメージが強かったルーヴルを、規模は従来のままで、華やかな「城館」(シャトー)へと造り替えた。
1546年 フランソワ1世が、ルネサンス様式の壮麗な建物への改築を決定した。このフランソワ1世が収集した美術品、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』などが、ルーヴル美術コレクションの中核となっていった。
1528年 フランソワ1世は、ルーヴル城のドンジョン(主塔)を取り壊した。
1546年 建築家ピエール・レスコに命じて、旧城を取り壊し新たな宮殿を建築する工事を開始したが、その翌年フランソワ1世が死去したため、ルーヴル城の改築は息子のアンリ2世(在位1547年 – 1559年)に引き継がれた。
アンリ2世の死後、その妃カトリーヌ・ド・メディシスが、ルーヴルの西約500メートルのところに新たな宮殿の建築を始めさせた。かつて瓦(テュイル)製造工房があったことから、テュイルリー宮殿と呼ばれるこの宮殿は、フィリベール・ドロルムの設計で、1563年から建築が開始され、完成には約1世紀を要した。

1528年 フランソワ1世が国王の住居として城の建て替えを決める
パリを離れて暮らす習慣がついたフランスの君主たちは、百年戦争が終わった後も大半の時間をヴァル・ド・ロワール(ロワール渓谷)で過ごし、首都に戻るのは年に数回だけとなった。この状況は、フランソワ1世(1515ー1547年)の治世下で変わることになる。
1525年のパヴィアでの敗戦とスペインでの捕虜生活を経て自国へ戻った王は、首都を再び掌握したいと考え、1528年に公式宣言を発表して国王の主な居を首都に定めた。
そして中世のルーヴル城は、当時の趣味に合わせて改装される。フランソワ1世は治世の末期に城の建て替えを決めるが、主要な工事はアンリ2世の治世下(1547—1559年)に行われることになる。
1682年 ルイ14世がヴェルサイユ宮殿へ遷宮
ルイ14世が自身の宮殿に、それまでの歴代フランス王が宮廷としていたルーヴル宮殿から、ヴェルサイユ宮殿へと宮廷を移すことを決めた。
王族が不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居兼アトリエとして提供されることとなった。
1750年 ルイ15世がリュクサンブール宮殿に「王室絵画ギャラリー (Galerie royale de peinture)」を設ける
王室コレクションが所蔵する96点の絵画作品を展示。
公開された王室絵画コレクションには、ルネサンス期のイタリア人画家アンドレア・デル・サルトの『慈愛』を始め、ルネサンス期イタリア人画家ラファエロ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、バロック期オランダ人画家レンブラント、ヴァン・ダイク、バロック期フランス人画家プッサンらの絵画作品が含まれていた。
しかし、1778年にルイ16世がリュクサンブール宮殿をプロヴァンス伯爵ルイに与えたため、この絵画ギャラリーは1780年に閉館された。
1789年〜 権力の舞台
テュイルリー宮殿(白色部分)とルーヴル宮殿(着色部分)の位置関係
テュイルリー宮殿(白色部分)とルーヴル宮殿(着色部分)の位置関係(ファイル:Louvre.png – Wikipedia
1789年7月、そして10月の革命の日々とともに、国家権力は再びパリを拠点とすることを余儀なくされる。1870年まで、フランスを統治するすべての体制は、ルーヴル宮殿の西側に隣接するチュイルリー宮殿にとどまることになる。
それは、強制的にチュイルリーに連行されてから1792年8月10日の廃位までの間、次第に囚われの身となってゆくルイ16世や、1792年から1794年までの歴代の公安委員会(ロベスピエールが率いた委員会が最も有名)、そして主な革命議会と共存した総裁政府と、その後に続く執政政府のメンバーたちである。
革命議会は1793年に、もともとルイ14世の大劇場があった場所に設けられた広間に設置された。
その後チュイルリーは、ナポレオン1世の華々しい勝利と1815年のワーテルローの戦いによる失脚を見届けることになる(ナポレオン1世は1804年に皇帝に即位する以前の1800年から、第一執政としてチュイルリーに居を定めた)。
ルイ16世の兄弟であるルイ18世とシャルル10世は、権力の座に戻ると同時にチュイルリーに居を構える。
しかし、1830年の7月革命によって王位に就いた彼らの従兄弟ルイ=フィリップに、その場所を譲ることになる。
歴代の君主の好みと当時の流行にあわせて多くの内装工事が行われた。この時期にもたらされた最も重要な改築は、やはりリヴォリ通りに沿って建てられたマルサン翼だろう。建築家のペルシエとフォンテーヌによって増築されたこの部分によって、カルーゼル地区の大きな中庭は取り囲まれ、その入口は、1805年の軍事遠征を称えるために2人の建築家が建てた小さな凱旋門で飾られた。
1792年 フランス革命下でコレクションは国有財産へ
フランス革命下で、ルーヴル宮殿は大衆に開かれた美術館へと姿を変えた。
1791年5月に憲法制定国民議会がルーヴル宮殿を「あらゆる科学、芸術が集められた場所」とする法案を可決した。
1792年8月10日にルイ16世が投獄され、ルーヴル宮殿に所蔵されていた王室美術コレクションは私有財産ではなく、国有財産となった。
1793年
美術館として開館。王室所有、教会財産から没収された絵画を中心として、537点の絵画を展示。
1796年
建物の構造上の問題からにいったん閉館
1801年
開館。フランス皇帝ナポレオン1世が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大し、「ナポレオン美術館 (Musée Napoléon)」と改名したこともあった。
1815年
ワーテルローの戦いの敗戦でナポレオンがフランス皇帝位を追われ、ナポレオン軍が収奪していた美術品の多くは返還された。
1814年 – 1870年
王政復古でフランス王となったルイ18世、シャルル10世の統治時代、さらにフランス第二帝政時代で、ルーヴル美術館の所蔵品はさらに増え続け、20,000点を超える美術品が集められた。
1870年
フランス第三共和政が成立、この時代にもルーヴル美術館の所蔵品は、遺贈、寄贈などによって着実に増えた。
2003年
「イスラム美術部門」が創設され、所蔵品が、「古代エジプト美術部門」、「古代オリエント美術部門」、「古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門」、「イスラム美術部門」、「彫刻部門」、「工芸品部門」、「絵画部門」、「素描・版画部門」の8部門に分類された。

ルーヴル美術館公式サイト(日本語)

ルーヴル美術館の公式ウェブサイト

Google Map ストリートビュー:地図下部の ← からマップに戻ります。


画像出典: ルーヴル美術館の公式ウェブサイトより

広告