ロシア=トルコ戦争
露土戦争シプカ峠の戦い(1877)(ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン画/トレチャコフ美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ロシア=トルコ戦争


ロシア=トルコ戦争 (露土戦争 A.D.1768〜A.D.1878)

17〜19世紀にロシアがオスマン帝国とおこなった戦争の総称。特に、1875年ボスニア・ヘルツェゴヴィナでおこった反乱がオスマン帝国に弾圧され、77年ロシアがスラヴ民族の保護を口実に宣戦してオスマン帝国を破った戦争が知られる。黒海の制海権とバルカンの支配権をめぐって戦い、オスマン帝国が敗北、1878年にサン=ステファノ条約、列強の干渉後にベルリン条約が締結され、バルカンの領土の大半を失った。

ロシア=トルコ戦争

  • 17〜19世紀にロシアがオスマン帝国とおこなった戦争の総称。特に、1875年ボスニア・ヘルツェゴヴィナでおこった反乱がオスマン帝国に弾圧され、77年ロシアがスラヴ民族の保護を口実に宣戦してオスマン帝国を破った戦争が知られる。
  • 1877〜78年、黒海の制海権とバルカンの支配権をめぐるロシアとオスマン帝国の戦争。オスマン帝国が敗北し、1878年にサン=ステファノ条約、列強の干渉後にベルリン条約が締結され、バルカンの領土の大半を失った。
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  1. ロシア=トルコ戦争(1768〜74):(第1次ロシア=トルコ戦争)ロシアの勝利。クチュク=カイナルジャ条約。黒海の北岸をロシアに割譲。(露:エカチェリーナ2世 / 土:ムスタファ3世)
  2. ロシア=トルコ戦争(1787〜92):(第1次ロシア=トルコ戦争)ロシアの勝利。ヤッシー条約。クリミア半島をロシアに割譲。(露:エカチェリーナ2世 / 土:アブデュル=ハミト1世)
  3. ロシア=トルコ戦争(1853〜56):(クリミア戦争)英仏の支援を受けたオスマン帝国の勝利。パリ条約(1856)。ロシアの黒海周辺における南下政策は挫折。(露:ニコライ1世アレクサンドル2世 / 土:アブデュル=メジト1世・仏:ナポレオン3世・英:ヴィクトリア女王)
  4. ロシア=トルコ戦争(1877〜78):ロシアの勝利。バルカン諸国が独立を回復。サン=ステファノ条約。ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化。列強の干渉後にベルリン条約。サン=ステファノ条約改廃、ロシアの南下政策挫折。(露:アレクサンドル2世 / 土:アブデュル=ハミト2世)

ヨーロッパ主権国家体制の展開

危機の時代の主権国家

ロシアの台頭

18世紀後半になると、女帝エカチェリーナ2世(位1762〜1796)が登位した。啓蒙専制君主として、ヴォルテールらとも親交のあったエカチェリーナ2世は、国内では、特権を認可して貴族と協力関係を強め、都市にも自治権を与え、経済活動の促進をはかったが、農奴制には手をつけなかった。それどころか、プガチョフ(1742〜1775)の率いる大農民反乱(プガチョフの乱 1773〜1775)を鎮圧したのちは、かえって農奴制を拡大・強化した。とくにフランス革命勃発後は、反動的になって自由主義思想を弾圧したといわれている。アメリカ独立戦争では武装中立同盟を提唱したほか、南方では2度にわたってオスマン帝国と戦って、クリミア半島など黒海沿岸を奪った(ロシア=トルコ戦争)。この結果、黒海はロシアの内海となった。

欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

東方問題とロシアの南下政策
東方問題 Eastern Question

東方問題という歴史用語にはいくつかの用法がある。もともとこの用語はヨーロッパ側からみたもので、一般的に使われるようになったのはギリシア独立戦争以後である。広義にはオスマン帝国成立以来のヨーロッパとオスマン帝国の領土問題をさし、特に17世紀以来オスマン帝国の衰退が決定的になると、オーストリアやロシアがその領土の奪取に関心を深めたことをさしている。狭義には、19世紀前半のギリシア独立戦争からロシア=トルコ戦争(露土戦争)(1877)、ベルリン会議(1878)までのオスマン帝国領土や領土内の諸民族の問題をめぐるヨーロッパ列強のしのぎあいをさしている。もっとも狭義には第1次・第2次エジプト=トルコ戦争のみを指す場合もある。

クリミア戦争地図 東方問題とロシアの南下政策
クリミア戦争地図 ©世界の歴史まっぷ

イェルサレム聖地管理権問題などを要因におこったクリミア戦争(1853〜56)でロシアは敗北した。パリ条約(1856)で、黒海の中立化が定められ、ロンドン条約(1840)が再確認され、ロシアの黒海周辺における南下政策は挫折した。

サン=ステファノ条約 東方問題 1878年時のバルカン半島地図
1878年(サン=ステファノ条約)時のバルカン半島地図 ©世界の歴史まっぷ

セルビア・モンテネグロ・ブルガリアなどの地は南スラヴ系民族が多く、ロシアはこうした地域のスラヴ民族運動を利用して、バルカン半島への南下をはかった(パン=スラヴ主義)。ロシア=トルコ戦争(1877〜78)のサン=ステファノ講和条約で、セルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立や、エーゲ海におよぶブルガリア自治公国(大ブルガリア)をロシアの保護下におくことが認められた。これにより一時、ロシアの南下政策は成功したかにみえたが、ベルリン会議(1878)で挫折した。

参考 詳説世界史研究

1875年ボスニア=ヘルツェゴヴィナでギリシア正教会徒が反乱をおこし、さらにブルガリアにも飛び火した。オスマン帝国は軍隊の力をもって残酷に鎮圧したので、ロシアはパン=スラヴ主義 Pan-Slavism *4の後継者として、ギリシア正教会徒保護を名目にしてオスマン帝国と開戦した(ロシア=トルコ戦争 / 露土戦争 1877〜78)。この戦争ではロシアがイスタンブルに肉薄したのに対し、オスマン帝国はイギリスに支援要請をだし、イギリス軍がマルマラ海に派遣された。イギリスとの戦争の危機を迎えたロシアは急遽オスマン帝国との間に、1878年サン=ステファノ条約を結んで、ルーマニア・セルビア・モンテネグロの独立、ブルガリアの自治領化を決めた。イギリスはブルガリアをロシアの傀儡国家と考えていたので、この条約に反発し、さらにパン=ゲルマン主義*5を進めるオーストリアも反発したので、ヨーロッパの緊張は高まった。このためドイツのビスマルクは「誠実なる仲介人」を自認して、ロシア・イギリス・オスマン帝国・オーストリア・ドイツ・フランス・イタリアの7カ国が参加したベルリン会議(1878)を開催した。この結果ベルリン条約が結ばれて、ロシアはクリミア戦争で失ったベッサラビアの一部など若干の領土を獲得したが、列強の圧力によってサン=ステファノ条約が改廃されてブルガリアの領土が縮小され*5、同時にロシアの影響が排除された。またイギリスがキプロス島の管理権を獲得し、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方の統治権を獲得したので、ロシアの南下政策はまたまた挫折することになった。

アジア諸地域の動揺

オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ

オスマン帝国支配の動揺

西アジアの動向 オスマン帝国

オスマン帝国
1683第2次ウィーン包囲失敗
1699カルロヴィッツ条約(対オーストラリア)
1716トルコ=オーストリア戦争(〜18)
1718パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30)
1744頃ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド
1768第1次ロシア=トルコ戦争(〜74)
1774キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア)
1787第2次ロシア=トルコ戦争(〜92)
1792ヤッシー条約(対ロシア)
1821ギリシア独立戦争(〜29)
1826イェニチェリを全廃
1827ナヴァリノの海戦
1829アドリアノープル条約(対ロシア)
1830フランス、アルジェリアを占領
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1833ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア)
1838イギリス=トルコ通商条約
1839ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1853クリミア戦争(〜56)
1856パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア)
1865新オスマン人協会結成
1876ミドハト憲法発布
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)
1878アブデュル=ハミト2世、憲法を停止
1878サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う
1881フランス、チュニジアを保護国化
1881スーダンでマフディー派の抵抗(〜98)
参考:山川 詳説世界史図録

バルカン半島では、ハプスブルク家オーストリアロシアの南下が始まった。オスマン帝国は、第2次ウィーン包囲(1683)に失敗して手痛い打撃をうけ、1699年のカルロヴィッツ条約 Karlowitz では、オーストリアにハンガリーとトランシルヴァニアを、ヴェネツィアにモレアとダルマツィアを割譲することとなった。さらに1768〜74年のロシア=トルコ戦争に大敗を喫し、クチュク=カイナルジャ条約によって、黒海の北岸をロシアに譲り、黒海の自由通航権を認めた。1792年には再びロシア=トルコ戦争に敗れ、クリミア半島を割譲した。このようにオスマン帝国の弱体化から明らかになると、中東全域へのヨーロッパ諸国の侵略が開始された。

オスマン帝国の領土縮小地図

オスマン帝国の改革

1972年のロシア=トルコ戦争の敗北によって、クリミア半島を奪われると、スルタン・セリム3世 Selim III (位1789〜1807)は、「新制」と呼ばれる改革案を発表し、西欧式の新軍団を設置し、その財源にあてるため、アーヤーン ayan (名士層)から徴税請負権を没収しようとした。

タンジマートは、西欧諸国による植民地化を推進し、スルタンの専制を招く結果となった。これに対し、タンジマート期に西欧の教育・思想を享受した官僚や知識人の間から専制を批判し、立憲制にもとづく改革を主張する運動がおこり、みずから「新オスマン人」と名乗った。スルタン・アブデュル=アジーズ Abdül Aziz (位1861〜76)はこれを弾圧したが、1876年のブルガリア4月蜂起をめぐって列強との緊張が高まると、スルタンは退位し、改革運動の指導者であったミドハト=パシャ Midhat Pasha (1822〜84)の起草した憲法が発布され(ミドハト憲法)、翌年議会が開催された。しかし、議会の先鋭化を危惧したスルタン・アブデュル=ハミト2世 Abdül Hamit II (位1876〜1909)は、ロシア=トルコ戦争の勃発を理由に、1878年に憲法を停止し、議会を閉鎖した。

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