皇帝一覧
ローマ皇帝一覧
帝政ローマ前期 プリンキパトゥス(元首政)
ユリウス・クラウディウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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オクタウィアヌス帝 | 紀元前63年9月23日ローマ(イタリア本土) | 紀元前27年1月16日 – 14年8月19日 | プレブス階級(オクタウィウス氏族)出身。ユリウス・カエサルの大甥(姉の孫)という縁で継承者の途絶えたユリウス氏族カエサル家を継ぐ。最初のローマ皇帝として、元首政を確立。 | 14年8月19日自然死 |
ティベリウス帝 | 紀元前42年11月16日ローマ(イタリア本土) | 14年9月18日 – 37年3月16日 | クラウディウス氏族出身。アウグストゥスの後妻リウィアの連れ子で、継父の大甥ゲルマニクスの後見人として即位。 | 37年3月16日自然死(暗殺説あり) |
カリグラ帝 | 12年8月31日 -アンティウム(イタリア本土) | 37年3月18日– 41年1月24日 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの息子。 | 41年1月24日近衛隊による暗殺 |
クラウディウス帝 | 紀元前10年8月1日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) | 41年1月25日(26日説あり) – 54年10月13日 | クラウディウス氏族出身。ゲルマニクスの弟でカリグラの叔父。姪である小アグリッピナ(カリグラの妹)と再婚。 | 54年10月13日小アグリッピナによる暗殺 |
ネロ帝 | 37年12月15日アンティウム(イタリア本土) | 54年10月13日 - 68年6月9日 | クラウディウス氏族出身、継父の養子となる前はドミティウス氏族に属した。カリグラの妹である小アグリッピナの子で、クラウディウスの養子。 | 68年6月11日自害 |
四皇帝の年
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ガルバ | 紀元前3年12月24日テッラチーナ(イタリア本土) | 68年6月8日 – 69年1月15日 | スルピキウス氏族出身。ヒスパニア各属州の軍団から支持を獲得、ネロを廃位した元老院から皇帝に推挙される。 | 69年1月15日オトと近衛隊による暗殺 |
オト | 32年4月25日エトルリア(イタリア本土) | 69年1月15日 – 69年4月15日 | サルウィウス氏族出身。ガルバの縁戚であったが、近衛隊と結んで謀殺した。 | 69年4月15日自害 |
ウィテッリウス | 15年9月7日ローマ(イタリア本土) | 69年4月17日 – 69年12月22日 | ウィテッリウス氏族出身。ゲルマニア各属州の軍団から支持を獲得、オト軍を破って帝位に就く。 | 69年12月22日ウェスパシアヌス軍との戦いで敗死 |
ウェスパシアヌス | 9年11月17日フラシリネ(イタリア本土) | 69年7月1日 – 79年6月23日 | フラウィウス氏族出身。ウィテッリウスを破り、政情を安定させて四皇帝の年を終結させる。 | 79年6月23日自然死 |
フラウィウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ウェスパシアヌス | 9年11月17日フラシリネ(イタリア本土) | 69年7月1日 – 79年6月23日 | フラウィウス氏族出身。フラウィウス朝の初代皇帝。 | 79年6月23日自然死 |
ティトゥス帝 | 39年12月30日ローマ(イタリア本土) | 79年6月24日 – 81年9月13日 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの長男。フラウィウス朝の第2代皇帝。 | 81年9月13日病死 |
ドミティアヌス | 51年10月24日ローマ(イタリア本土) | 81年9月14日 – 96年9月18日 | フラウィウス氏族出身。ウェスパシアヌスの次男。兄ティトゥスが病に伏せると兄の生存中だったが帝位を掌握した。 | 96年9月18日召使による暗殺 |
ネルウァ=アントニヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ネルウァ | 35年11月8日ナルニ(イタリア本土) | 96年9月18日 – 98年1月27日 | コッケイウス氏族出身。フラウィウス朝断絶後、元老院により推挙される。 | 98年1月27日自然死 |
トラヤヌス | 53年9月18日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) | 98年1月28日 - 117年8月9日 | ウルピウス氏族出身。老齢で嫡男のいないネルウァに養子として迎えられる。 | 117年8月9日自然死 |
ハドリアヌス | 76年1月24日イタリカ(属州ヒスパニア・バエティカ) | 117年8月11日 – 138年7月10日 | アエリウス氏族出身。トラヤヌスの従兄弟ハドリアヌス・アフェルの子。親族の男子として嫡男のいない従伯父トラヤヌスの養子となる。 | 138年7月10日自然死 |
アントニヌス・ピウス | 86年9月19日ラウィニウム(イタリア本土) | 138年7月10日 – 161年3月7日 | アウレリウス氏族出身。マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの後見人として即位。トラヤヌスの曾姪でマルクス・アウレリウスの叔母でもある大ファウスティナと結婚、小ファウスティナを儲ける。 | 161年3月7日自然死 |
マルクス・アウレリウス | 121年4月26日ローマ(イタリア本土) | 161年3月7日 – 180年3月17日 | アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの甥。従姉妹である小ファウスティナと結婚、コンモドゥスとルキッラを儲ける。 | 180年3月17日自然死 |
ルキウス・ウェルス | 130年12月15日ローマ(イタリア本土) | 161年3月7日 – 169年3月頃 | アエリウス氏族出身。ハドリアヌスの側近ルキウス・アエリウスの嫡男。アウレリウスと共にアントニヌスの養子とされ、共同皇帝となる。アウレリウスと小ファウスティナの子ルキッラと結婚。 | 169年3月頃病死(暗殺説あり) |
コンモドゥス | 161年8月31日ラウィニウム(イタリア本土) | 180年3月18日 – 192年12月31日 | アウレリウス氏族出身。アントニヌス・ピウスの孫、マルクス・アウレリウスと小ファウスティナの子、ルキッラの弟。父アウレリウスの死後、帝位を継承する。 | 192年12月31日近衛隊による暗殺 |
五皇帝の年
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ペルティナクス | 126年8月1日アルバ・ポンペイア(イタリア本土) | 193年1月1日 - 193年3月28日 | ヘルウィウス氏族出身。自身はローマ人だが、父の代まではリグリア人の属州民だった。近衛隊と結んでコンモドゥスを暗殺、帝位に就く。財政改革の失敗で元老院と近衛隊の支持を失う。 | 193年3月28日近衛隊による暗殺 |
ディディウス・ユリアヌス | 133年1月30日メディオラヌム(イタリア本土) | 193年3月28日 - 193年6月1日 | ディディウス氏族出身。ペルティナクス暗殺後の「帝位競売」に勝利して帝位に就くが、軍と民衆の支持を得られなかった。 | 193年6月1日近衛隊による暗殺 |
セプティミウス・セウェルス | 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ) | 193年4月9日 - 211年2月4日 | セプティミウス氏族出身。パンノニア属州の軍から支持を得て蜂起、ユリアヌス暗殺後のローマへ入場。その後、同じく蜂起していたペスケンニウス・ニゲルとクロディウス・アルビヌスを破りセウェルス朝を創始。 | 211年2月4日自然死 |
セウェルス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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セプティミウス・セウェルス | 146年4月11日レプティス・マグナ(属州アフリカ) | 193年4月9日 - 211年2月4日 | セプティミウス氏族出身。セウェルス朝を樹立して、軍人皇帝時代まで自身の王朝を維持した。 | 211年2月4日自然死 |
カラカラ | 186年4月4日ルグドゥヌム(属州ガリア・ルグドゥネンシス) | 198年頃 – 217年4月8日 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの長男。父の即位と同時期に共同皇帝へ指名され、後に弟ゲタも共同皇帝となって三名で統治を行っていた。しかし父の死後にゲタを処刑して単独の皇帝となる。 | 217年4月8日マクリヌスによる暗殺。 |
ゲタ | 189年3月7日ローマ(イタリア本土) | 209年頃 – 211年12月26日 | セプティミウス氏族出身。セウェルスの次男。209年頃から父と兄の共同皇帝となる。 | 211年12月26日カラカラによる暗殺。 |
マクリヌスとディアドゥメニアヌス | 165年(マクリヌス・オペッリウス) 208年(マルクス・オペッリウス・ディアドゥメニアヌス) | 217年4月11日 - 218年6月8日 | オペッリウス氏族出身。セウェルス朝と血縁関係がない。カラカラ帝時代に近衛隊長を務めていたマクリヌスとその子ディアドゥメニアヌスはカラカラを謀殺してセウェルス朝を一旦断絶させた。しかしカラカラの落胤を自称する(実際には従姉の子(従甥)でカラカラの母方の伯母ユリア・マエサの孫)ヘリオガバルスの軍に敗れ、親子共に相次いで戦死した。 | 218年 ヘリオガバルス軍に敗死 |
ヘリオガバルス | 203年3月20日 エメサ (属州シリア) | 218年6月8日 – 222年3月11日 | 氏族不明。カラカラの従姉ユリア・ソエミアス・バッシアナによって、カラカラの落胤として掲げられた。性的倒錯の末、近衛隊に暗殺される。 | 222年3月11日 近衛隊による暗殺 |
アレクサンデル・セウェルス | 208年10月1日 アルカ・カエサリア (属州ユダヤ) | 222年3月13日 - 235年3月18日 | 氏族不明。ヘリオガバルスの従弟で、ヘリオガバルスを見限った祖母ユリア・マエサによって擁立された。 | 235年3月18日 軍による暗殺 |
軍人皇帝時代
軍人皇帝時代
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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マクシミヌス・トラクス | 173年(属州トラキア、若しくはモエシア) | 235年3月20日 – 238年4月頃 | 蛮族出身の軍人。アレクサンデル暗殺後、特異な出自でかつ民衆や元老院の支持もなかったにも関わらず軍事力で帝位を強奪した。これ以降、皇帝の元老院と民衆の軽視が強まり、軍事力による帝位継承が慣例化した(軍人皇帝)。 | 238年4月頃軍による暗殺 |
ゴルディアヌス1世 | 159年(属州フリュギア) | 238年3月22日 – 238年4月12日 | 騎士階級出身。富裕な元老院議員で元老院と民衆によってトラクスの対立皇帝へ推挙され、息子のゴルディアヌス2世を共同皇帝としアフリカ属州で蜂起。息子がトラクス軍との戦いで敗死すると自らも宮殿で自害した。 | 238年4月12日自害 |
ゴルディアヌス2世 | 192年 | 238年3月22日 – 238年4月12日 | ゴルディアヌス1世の息子。老齢の父に代わって前線で軍勢を率いる。カルタゴの戦いでトラクス軍に敗れ、戦死する。 | 238年4月12日トラクス軍との戦いで敗死 |
マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス | 178年 | 238年4月22日 – 238年7月29日 | 反トラクス派の将軍。元老院から新たな対立皇帝として擁立される。トラクス暗殺によって安定化した情勢をバルビヌスとの諍いで再び悪化させた。口論の最中にバルビヌスと同時に暗殺され、川に投げ捨てられた。 | 238年7月29日近衛隊による暗殺 |
デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス | 不明 | 238年4月22日 – 238年7月29日 | 元老院議員。プピエヌスの共同皇帝として政務面を補佐するが、不仲で有名であった。ゴルディアヌス2世の遺児を副帝に指名する。 | 238年7月29日近衛隊による暗殺 |
ゴルディアヌス3世 | 225年1月20日ローマ(イタリア本土) | 238年4月22日 – 244年2月11日 | ゴルディアヌス1世の孫、ゴルディアヌス2世の甥(妹の子)。元老院と民衆からの深い同情から人気を集め、バルビヌスとプピエヌスの副帝とされ両者の暗殺後に単独の皇帝に。 | 244年2月11日ペルシア軍との戦いで敗死(もしくはピリップス・アラブスによる暗殺) |
ピリップス・アラブスとマルクス・ユリウス・セウェルス・ピリップス | シャハバ(属州シリア) | 244年2月頃 – 249年後半 | ゴルディアヌス3世の近衛隊長。ペルシア戦争後に帝位継承を宣言、息子のピリップス2世を後継者として共同皇帝に指名した。 | 249年後半デキウス軍との戦いで敗死 |
デキウスとヘレンニウス・エトルスクス | 201年ブダリア(属州下パンノニア | 249年後半 – 251年6月頃 | ピリップス・アラブスの側近。息子エトルスクスと共に帝位を奪うが、アブリットゥスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 | 251年6月ゴート軍との戦いで敗死 |
ホスティリアヌス | ローマ | 251年6月 – 251年後半 | デキウスの次男、エトルスクスの弟。父と兄の死後に帝位を継ぎ、トレボニアヌス・ガッルスの養子となり共治帝となるが同年に疫病で病死。 | 251年後半病死(ガッルスによる暗殺説もあり) |
トレボニアヌス・ガッルスとガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌス | 206年(イタリア本土) | 251年6月 – 253年8月 | デキウスの重臣。モエシア総督を務め、デキウス死後の混乱で遠征軍を掌握して帝位につく。ホスティリアヌスの死後息子のウォルシアヌスを共同帝に。アエミリアヌスの裏切りに遭い、自軍の兵士によって暗殺された。 | 253年8月軍による暗殺 |
マルクス・アエミリウス・アエミリアヌス | 207年(属州アフリカ) | 253年8月 – 253年10月 | トレボニアヌスの腹心。後任のモエシア総督に任命されるが、裏切ってトレボニアヌスとウォルシアヌスから帝位を奪う。だがウァレリアヌス軍が帝位を請求して進軍すると、自らも兵士によって暗殺された。 | 253年10月軍による暗殺 |
ウァレリアヌス | 200年 | 253年10月 – 260年 | デキウスの重臣。ノリクム及びラエティア総督を務め、アエミリアヌスと帝位を争って勝利した。ペルシア戦争に従軍するもエデッサの戦いで大敗し、捕らえられた上で処刑された。 | 260年 以降シャープール1世による処刑される |
プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌスとプブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス | 不明 | 253年10月 – 268年9月 | ウァレリアヌスの息子。父から共同皇帝に指名され、ウァレリアヌス処刑後は単独の皇帝として統治する。エデッサの戦いによる帝国の権威失墜の中で、ガリア帝国・パルミラ王国の分離独立というかつてない大乱に直面する。 | 268年9月クラウディウス・ゴティクスによる暗殺 |
クラウディウス・ゴティクス | 213年(214年)5月10日シルミウム(属州パンノニア) | 268年9月 – 270年1月 | 出自不明。ガッリエヌスを暗殺して帝位を奪う。大乱の中で侵入が本格化した蛮族に対し、ゴート族とのナイススの戦いに大勝してこれを押し留めた。 | 270年1月自然死 |
クィンティッルス | 不明シルミウム(属州パンノニア) | 270年 | クラウディウス・ゴティクスの弟。兄の死後に帝位を継承するが、アウレリアヌスに暗殺される。 | 270年アウレリアヌスによる暗殺 |
ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス | 214年(215年)9月9日シルミウム(属州パンノニア) | 270年 – 275年9月 | クラウディウス・ゴティクスの重臣。複数の戦いで蛮族に勝利して対外情勢を安定化させた。更にガリア帝国・パルミラ王国を滅ぼして帝国領を回復、元老院から「世界の修復者」の尊称を受ける。シャープール1世死後のペルシャに侵攻する途中、秘書官に暗殺される。 | 275年9月秘書官による暗殺 |
マルクス・クラウディウス・タキトゥス | 200年テルニ | 275年9月25日 – 276年6月 | 元老議員。アウレリアヌスの急死によって皇帝に選出される。即位時点で老齢であり、ペルシア戦争の再開を準備する中で病没した。 | 276年6月自然死 |
フロリアヌス | 不明 | 276年6月 – 276年9月 | タキトゥスの異父弟。兄の死に伴い帝位継承を主張して西方属州の支持を得る。しかし東方属州の支持を得たプロブスに苦戦を強いられ、見限った軍に暗殺された。 | 276年9月軍による暗殺 |
プロブス | 232年シルミウム(属州パンノニア) | 276年9月 – 282年後半 | 帝国軍の高官。東方属州の支持を背景にフロリアヌスを破り、皇帝に即位する。対外戦争で功績を挙げるが、ペルシャ戦争の途中でカルスの反乱により暗殺される。 | 282年後半近衛兵による暗殺 |
マルクス・アウレリウス・カルス | 230年ナルボ | 282年後半 – 283年8月 | プロブスの近衛隊長。戦争中にプロブスを暗殺、指揮権を奪ってペルシャ戦争を継続した。戦いは優勢に進んだが、落雷による事故で急死した。 | 283年8月事故死 |
カリヌス | 不明 | 283年8月 – 285年 | カルスの長男。父の反乱によって弟ヌメリアヌスと副帝となり、父が遠征先で戦死すると遠征に同行していた弟と共に皇帝となった。しかし弟を暗殺され、更にその腹心であったディオクレティアヌスが遠征軍を掌握するとこれに敗れ、戦死する。 | 285年ディオクレティアヌス軍との戦いで敗死 |
ヌメリアヌス | 不明 | 283年8月 – 284年 | カルスの次男。本国を守る兄に対して、父と共にペルシャ遠征に従軍した。父が事故死すると帝位を継いだ兄の共同皇帝となり、遠征軍の撤退を指揮する。撤退中、配下の裏切りで暗殺される。 | 284年軍による暗殺 |
帝政ローマ後期 ドミナートゥス
テトラルキア時代
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ディオクレティアヌス 東ローマ | 244年12月22日サロナ(属州ダルマティア) | 284年11月20日 – 305年5月1日 | 属州民出身の軍人皇帝。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた。また共同皇帝による東西分割を導入、自らは東方正帝を務めた。 | 311年12月3日自然死 |
マクシミアヌス 西ローマ | 250年頃シルミウム(属州パンノニア) | 286年4月1日 – 311年5月1日 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される。ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。 | 310年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
ガレリウス 東ローマ | 260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 311年5月頃 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。 | 311年自然死 |
コンスタンティウス・クロルス 西ローマ | 250年3月31日ダルダニ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 306年7月25日 | クラウディウス2世とクィンティッルスの末裔(正確にはクラウディウス2世とクィンテッルスの姪クラウディアの末裔)を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。 | 306年7月25日自然死 |
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 西ローマ | 不明 | 306年夏 – 307年前半 | 属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。 | 307年9月16日マクセンティウスにより処刑される |
マクセンティウス 西ローマ | 278年頃 | 306年10月28日 – 312年10月28日 | マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし、西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも、後に反旗を翻されて帝位を追われる。 | 312年10月28日コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死 |
リキニウスとマルティアヌス、バレリウス・バレンス 東ローマ | 250年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 308年11月11日 – 324年9月18日 | ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 | 325年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
マクシミヌス・ダイア 東ローマ | 270年11月20日 | 311年5月1日 – 313年後半 | ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。 | 313年後半リキニウスの軍勢に敗死 |
コンスタンティヌス1世 西ローマ | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日 – 337年5月22日 | コンスタンティウス・クロルスの息子。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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コンスタンティヌス1世 | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日–337年5月22日 | コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。自身の死後は息子三人と甥二人による五人の分治を画策する。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス2世 | 316年 | 337年5月22日–340年 | コンスタンティヌス1世の長男。父の死後、次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ、弟コンスタンス1世に処刑された。 | 340年コンスタンス1世により処刑される |
コンスタンティウス2世 | 317年8月7日シルミウム(属州パンノニア) | 337年5月22日–361年11月3日 | コンスタンティヌス1世の次男。即位に際して父の遺言により共治するはずだった従兄弟の二人を殺害しその後、兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる。更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ、父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる。しかし共同帝の必要を感じ、始めは従兄弟のガルスを、後にその弟のユリアヌスを副帝に任じる。 | 361年11月3日自然死 |
コンスタンス1世 | 320年 | 337年5月22日–350年 | コンスタンティヌス1世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する。 | 350年マグネンティウスにより暗殺される |
ウェトラニオ | 不明 | 不明–350年12月25日 | コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすが、コンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される。その後、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。 | 356年自然死 |
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス | 332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア) | 360年初頭–363年6月26日 | コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。 | 363年6月26日遠征中に戦傷死 |
ヨウィアヌス | 331年シグドゥヌム(属州モエシア) | 363年6月26日–364年2月17日 | ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。 | 364年2月17日事故死 |
ウァレンティニアヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ウァレンティニアヌス1世 西ローマ | 321年キバラエ(属州パンノニア) | 364年2月26日 – 375年11月17日 | ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 | 375年11月17日自然死 |
ウァレンス 東ローマ | 328年キバラエ(属州パンノニア) | 364年3月28日 – 378年8月9日 | ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 | 378年8月9日ゴート軍との戦いで敗死 |
グラティアヌス 西ローマ | 359年 シルミウム (属州パンノニア) | 367年8月4日 – 383年8月25日 | ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。 | 383年8月25日アグヌス・マキシムスにより暗殺される |
ウァレンティニアヌス2世 西ローマ | 371年ミラノ (イタリア本土) | 375年11月17日 – 392年5月15日 | ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。 | 392年5月15日暗殺 |
テオドシウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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テオドシウス1世 東ローマ | 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) | 379年1月1日 – 395年1月17日 | ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、ウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。 グラティアヌスによって共同皇帝とされた後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世の死によって単独皇帝となった。 | 395年1月17日自然死 |
アルカディウス 東ローマ | 377年 | 383年1月 – 408年5月1日 | テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。 | 408年5月1日自然死 |
ホノリウス 西ローマ | 384年9月9日 | 393年1月23日 – 423年8月15日 | テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。 | 423年8月15日自然死 |
コンスタンティウス3世 西ローマ | 生年不明ナイッスス(属州モエシア) | 421年2月8日 – 421年9月2日 | テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。 | 421年9月2日自然死 |
テオドシウス2世 東ローマ | 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) | 408年5月1日 – 450年7月28日 | アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没したため、姉の夫マルキアヌスを後継者に指名する。 | 450年7月28日自然死 |
ヨハンネス 西ローマ | 不明 | 423年8月27日 – 425年5月 | ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙される。しかしテオドシウスの孫であるウァレンティニアヌス3世に敗れて退位させられた。 | 425年5月ウァレンティニアヌス3世により処刑される |
ウァレンティニアヌス3世 西ローマ | 419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) | 424年10月23日 – 455年3月16日 | コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 | 455年3月16日ペトロニウス・マキシマスにより暗殺される |
マルキアヌス 東ローマ | 396年 | 450年夏 – 457年1月 | テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。 | 457年1月自然死 |
テオドシウス朝断絶後
西方帝位
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
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ペトロニウス・マクシムス | 396年 | 455年3月17日–455年5月31日 | 元老院議員。ウァレンティニアヌス3世の暗殺によって西方におけるテオドシウス朝断絶を画策した。元老院の支持によって帝位を得たが、ヴァンダル族の前に首都を捨てて逃亡、激怒した民衆に投石されて死亡した。 | 455年5月31日民衆による投石で死亡 |
アウィトゥス | 385年 | 455年7月9日–456年10月17日 | フン族を破った将軍アエティウスの側近。西ゴートとの交渉中にペトロニウスの失脚を知り、ゴート軍の助力を得てローマを占領する。西ゴート撤退後、蛮族出身の軍務長官リキメルに謀殺される。 | 456年10月17日リキメルにより暗殺される |
マヨリアヌス | 420年11月 | 457年4月–461年8月2日 | アウィトゥスの同僚。リキメルによって傀儡として擁立されるも、影響下を脱して独自に統治を行う。優れた手腕で西方領土の再建を進めるが、志半ばでリキメルに暗殺される。 | 461年8月2日リキメルにより暗殺される |
リウィウス・セウェルス | 生年不明ルカーニア(イタリア本土) | 461年11月–465年8月 | 元老院議員。リキメルの傀儡としてマヨリアヌス暗殺後に皇帝となる。リキメルに従順に従うも、不要と判断されて4年後に毒殺される。 | 465年リキメルにより暗殺される |
アンテミウス | 420年 | 467年4月12日–472年7月11日 | 東方正帝マルキアヌスの娘婿。リキメルの傀儡として皇帝となるも、東ローマの後ろ盾で独立を図る。 | 472年7月11日リキメルにより暗殺される |
オリュブリウス | 420年 | 472年7月11日–472年11月2日 | ウァレンティニアヌス3世の娘婿。リキメル病没後、ヴァンダル軍の協力を得て帝位を奪うが、自らも流行病に倒れる。 | 472年11月2日自然死 |
グリュケリウス | ? | 473年3月–474年6月 | アニシウス氏族出身。ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取るが、東方正帝レオ1世の支持を得たユリウス・ネポスに追放される。 | 480年以降サロナにて病没 |
ユリウス・ネポス | 430年 | 474年6月–475年8月28日(イタリア)–480年春(ダルマティア) | ダルマティア海軍の提督マルケリヌスの甥で、東方正帝レオ1世の娘婿。東方領土の強い支持でグリュケリウスを追放して皇帝となる。蛮族の軍師オレステスの裏切りで追放され、ダルマティアへ亡命する。新たな東方正帝ゼノンからは正式な「西方の共同皇帝」と見なされ、ロムルス・アウグストゥルスとオレステスを追放したオドアケルからも承認されていた。しかしその存在を危険視したオドアケルの翻意で刺客を送られ、暗殺される。 | 480年オドアケルにより暗殺される |
ロムルス・アウグストゥルス | 460年 | 475年10月31日–476年9月4日 | 蛮族の軍師オレステスの息子。母親はローマ人だったが、半蛮族の皇帝もローマでは認められてはいなかった。オドアケルに敗れた父オレステスの失脚により、帝位を返上して追放される。以降、法律的には東方正帝が西方正帝を兼ねることとなるが、政治的には西方領土という概念自体が消失した。 | 不明 |