同盟外交の展開と列強の二極分化 三国同盟 三国協商 第一次世界大戦前の国際関係図 露仏同盟
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ

三国同盟


三国同盟 ( A.D.1882〜A.D.1915)
フランスの孤立をはかるビスマルク外交の中心的同盟。フランスのチュニジア占領に反発したイタリアが1882年ドイツ・オーストリアに接近し結ばれた。しかし、第一次世界大戦勃発後、「未回収のイタリア」獲得を目指すイタリアが協商国側と密約を結び同盟を離脱、1915年に崩壊。

三国同盟

  • ドイツ・オーストリア・イタリアが結んだ軍事的相互援助同盟。フランスのチュニジア占領に反発して、1882年にイタリアがドイツ=オーストリア同盟に加わり成立した。
  • フランスの孤立をはかるビスマルク外交の中心的同盟。フランスのチュニジア占領に反発したイタリアが1882年ドイツ・オーストリアに接近し、結ばれた。しかし、第一次世界大戦勃発後、「未回収のイタリア」獲得を目指すイタリアが協商国側と密約を結び同盟を離脱して、1915年に崩壊した。
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欧米における近代国民国家の発展

ヨーロッパの再編

ビスマルク外交

ビスマルクにとってもっっとも警戒を要したのはフランスであった。フランスはプロイセン=フランス戦争敗北以来ドイツに対する復讐心に燃えており、ブーランジェ事件(1887〜89)やドレフュス事件(1894〜99)の背後にはドイツに対する敵愾心てきがいしんがあった。領土的にもアルザス・ロレーヌ地方の問題が両国の間には横たわっていた。そのためビスマルクは「光栄ある孤立」を保っていたイギリスと協調・親善関係を維持し、イギリスとフランスの接近を防いだ。イギリスもまたアフリカにおいて縦断政策を推し進めていたので、横断政策を進めるフランスとは植民地獲得競争において敵対的関係にあった(アフリカ問題)。

ビスマルク外交 ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ

そしてビスマルクはロシアとオーストリアを誘って三帝同盟 League of the Three Emperors を1873年10月締結し、フランスの一層の孤立化をはかった。しかしロシアとオーストリアはバルカン半島においてパン=スラヴ主義 Pan-Slavism とパン=ゲルマン主義 Pan-Germanism のもと激しく対立していた(バルカン問題)。78年(6〜7月)のベルリン会議でビスマルクが「誠実なる仲介人」と称して関係国の利害を調整したが、決定にロシアは不満をもち、三帝同盟は崩壊した。

ドイツは翌79年10月、オーストリアとの間に独墺同盟を結成し、再びバルカンにおけるロシア・オーストリア間の利害を調整して81年三帝同盟を復活させた。さらにチュニジア問題でフランスと対立したイタリアを誘ってドイツ・イタリア・オーストリアによる三国同盟(1882〜1915)を結んだが、ロシア・オーストリア間の対立は結局解消できず、87年三帝同盟が消滅した。ドイツは3国間の同盟をあきらめ、ロシアとの間に再保障条約(1887年6月17日)を結んだ。これは両国の一方が他国から攻撃されたときは中立を守ることを約したものである。こうした複雑な同盟をビスマルク体制と呼び、彼の在任中、フランスは国際的孤立状態から脱却できなかった。

二重保障条約・再保険条約ともいう。この条約はオーストリアとロシアの対立のなかで、オーストリアと同盟関係を維持しつつ、しかもロシアを結びつけるという意味で再保障の名がある。

帝国主義とアジアの民族運動

帝国主義と列強の展開

ドイツ

ドイツ帝国では、ビスマルクがヴィルヘルム1世(ドイツ皇帝)との強い信頼関係の長期政権を維持していたが、現状維持的な政策には手詰まり感が漂いはじめていた。1888年、ヴィルヘルム1世が高齢で亡くなった。イギリス流の自由主義的な思想をもつと目されていたフリードリヒ3世(ドイツ皇帝)が帝位を継いだが、3ヶ月余の治世で咽頭がんのため病没し、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) (位1888〜1918)が29歳で新皇帝に 即位した。折から、ルール地方の鉱山労働者から始まったストライキが全国に広まりつつあり、若い皇帝は労働者勢力を体制側に取りこもうと社会主義者鎮圧法の延長を拒否してビスマルクと対立した。ビスマルクは1890年の帝国議会選挙に敗れて辞任した。ビスマルクの失脚はドイツ外交にも影響した。期限切れの迫っていたロシアとの再保障条約は、三国同盟などと矛盾することを理由に、更新されなかった。

世界分割と列強対立

同盟外交の展開と列強の二極分化

ドイツもオーストリア=ハンガリー・イタリアとの間の三国同盟を更新し、ヨーロッパの国際関係は、三国同盟と露仏同盟という二大ブロックが対峙する形になった。イギリスはヨーロッパの同盟関係から超然として「光栄ある孤立」を保っていた。しかし、イギリスはアフリカやアジアでフランスとロシアに対立し、さらにドイツ・日本・アメリカという新たなライヴァルが登場した。とりわけ、1898年、ドイツは「世界政策」と称して積極的な植民地獲得政策に乗り出した。外洋向け艦隊をいっきょに増強するドイツの海軍拡張計画は、北海・バルト海におけるイギリスの覇権を脅かした。また、ドイツはアナトリアからペルシア湾にいたるバグダード鉄道の敷設権をオスマン帝国から獲得して近東への経済的進出を本格化させた。ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶドイツの3B政策は、黒海から東地中海への出口を求めるロシアの南下政策やインドへの道として東地中海地域を重視するイギリスの3C政策 アフリカの植民地化 – 世界の歴史まっぷ)と衝突した。

ドイツは、1906年と08年に艦隊法を改正し、ドレッドノート型の巨大戦艦を建造したイギリスを追走した。一方、日露戦争に敗れたロシアは弱体化が明らかになり、中央アジアでの権益問題を協議するためイギリスと交渉し、1907年英露協商 が結ばれた。こうして、露仏同盟・英仏協商・英露協商をとおして英・仏・露の間に三国協商という同盟が成立し、独・墺・伊の三国同盟と対立した。しかし、三国同盟の一員であったイタリアは「 未回収のイタリアイタリアの統一)」をめぐってオーストリアと対立し、しだいにフランスに対する敵視政策を改めていった。両国はチュニジアにおけるフランスの、リビアにおけるイタリアの優位を承認したうえで、三国同盟が更新された1902年には、たがいの中立を約束した穏やかな合意にいたった。その結果、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアとの結束を強めていった。こうして、列強はイギリスとドイツをそれぞれの中心とする二つの陣営にわかれ、英独間の軍縮交渉が不調に終わった1910年代には、たがいに軍備拡大を競い合いつつ力の均衡を保つという「武装した平和」の状態に入った。そのようななか、1911年、モロッコでベルベル人の反乱がおき、フランスが鎮圧のために出兵すると、ドイツは居留民保護を理由にモロッコ南部のアガディール港に軍艦を派遣した。ここに独仏衝突の危機が高まったが、ドイツはフランス領コンゴの一部の割譲と引き換えに、モロッコのフランス保護領化を承認せざるをえなかった( 第2次モロッコ事件 )。ドイツのこの砲艦外交は国際社会から露骨な権力外交として批判される一方、ドイツの世論は事件に介入してドイツに譲歩を迫ったイギリスに激しく反発した。

英露協商:イランは北部をロシア、南部をイギリスの勢力範囲とし、中部は緩衝地帯となった。アフガニスタンはイギリスの勢力範囲と認め、チベットへの内政不干渉が約束された。

二つの世界大戦

第一次世界大戦とロシア革命

第一次世界大戦の勃発
第一次世界大戦の勃発 第一次世界大戦中のヨーロッパ
第一次世界大戦中のヨーロッパ ©世界の歴史まっぷ

1914年6月28日、オーストリア皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻がオーストリアに併合されたボスニアの州都サライエヴォで暗殺された(サライェヴォ事件)。犯人はセルビア系の青年で反ハプスブルクの民族主義的組織に所属していた。セルビア政府は事件とは直接関与していなかったが、オーストリアはドイツの強力な支援をえて7月28日にセルビアに宣戦布告した。セルビアを支援するロシアが総動員令を発すると、ドイツはロシア・フランスに宣戦布告した。

8月4日にはドイツ軍はベルギーの中立を侵して北フランスに進撃した。イギリスは国際法違反を理由にドイツに宣戦布告し、ほかの列強諸国も同盟・協商関係にしたがって参戦したので、同盟国側と協商国(連合国 )側との間で帝国主義戦争が始まった。8月24日には日本が日英同盟 日露対立と列強)を理由に参戦し、中国におけるドイツの租借地膠州こうしゅう湾および山東省青島チンタオを攻略し、11月には、反ロシアのオスマン帝国に英・仏が宣戦布告したので、戦線は東アジアや西アジアにも拡大した。三国同盟の一員であったイタリアは1915年にオーストリアに宣戦布告し、17年にはアメリカ合衆国も連合国 に加わった。バルカン諸国のなかではブルガリアが同盟国側に、ルーマニアとギリシアが連合国 に加わった。こうして、戦線はヨーロッパからアジア・アフリカ・大西洋にまで拡大し、列強の植民地や従属地域から兵士や軍需物資も動員されたので、この戦争は世界的規模の大戦争となった(第一次世界大戦)。

第一次世界大戦前の国際関係図
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