中尊寺
中尊寺金色堂覆堂 Wikipedia

中尊寺金色堂


中尊寺金色堂

後三年の役に勝利した奥州藤原氏初代藤原清衡が、平泉に居を移し、堀河天皇の命を受けて、長治2年(1105)、天台宗の高僧・円仁えんじんが開創した中尊寺を整備し、堂塔40余、僧坊300余に及ぶ壮大な伽藍を造立した。金色堂は天治元年(1124)に上棟された阿弥陀堂で、みちのくに仏の浄土のような理想郷を築こうとした清衡の祈願の象徴。須弥壇内には藤原氏3代(清衡、基衡、秀衡)の遺体と4代泰衡の首級が納められている。
世界遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」

中尊寺金色堂

概要

2011年、岩手金南部に位置する平泉に残る建築・庭園、および遺跡群が、世界遺産に登録されました。なかでも中尊寺金色堂は、唯一、建物などが現存する遺構です。

平安時代後期、陸奥(福島・宮城・岩手・青森)の豪族・安倍氏が、朝廷より派遣された源頼義みなもとのよりよしに倒され(前九年の役)その結果、勢力を伸ばした出羽(山形・秋田)の清原氏に内紛が起こります。清原氏の一族であった藤原清衡ふじわらのきよひらは合戦に勝利をおさめ(後三年の役)、出羽と陸奥支配権を握りました。平泉に居を移した清衡は、堀河天皇の命を受けて、長治2年(1105)、天台宗の高僧・円仁えんじんが開創した中尊寺を整備し、堂塔40余、僧坊300余に及ぶ壮大な伽藍を造立します。

金色堂は天治元年(1124)に上棟された阿弥陀堂で、みちのくに仏の浄土のような理想郷を築こうとした清衡の祈願の象徴です。当時、みちのくは日本随一の金の産地で、清衡は巨大な富の力で彫刻・漆工芸・金属工芸のすいを集め、堂の内外に金箔を押した「皆金色かいこんじき」と称される光り輝く仏堂を建立しました。内陣中央の須弥壇しゅみだんに、本尊の阿弥陀如来像を中心に11体の諸仏を安置。夜光貝や象牙を用いた螺鈿細工らでんざいく蒔絵まきえが、いたるところをきらびやかに装飾しています。

清衡は中尊寺伽藍落慶の翌々年に没し、遺体は金箔を施した木棺に納めて須弥壇の下に安置されました。のちに中央壇の左右に諸仏を安置する須弥壇が増築され、それぞれ2代源基衡みなもとのもとひらと3代源秀衡みなもとのひでひらの遺体が納められています。秀衡は兄・源頼朝みなもとのよりともに追われて平泉へ逃れてきた源義経みなもとのよしつねをかくまいました。その嫡男・藤原泰衡ふじわらのやすひらは頼朝を恐れて義経を自害に追いやりましたが、頼朝軍に攻撃され館に火を放ち敗死。藤原氏三代が築いた文化都市・平泉の栄華は、ここに終焉を迎えました。

金色堂の建立には、平安京から一流の仏師や金工・漆工などの技術者が呼び寄せられました。東北の地にあって、都に勝るとも劣らぬ当代一流の技が結集されたこと。建築だけでなく仏像・仏具・装飾工芸など、すべて1セットの仏教遺構として残されている点が、金色堂が唯一無二の国宝とされる理由です。

年表

中尊寺金色堂関連年表

 
1051陸奥国で前九年の役
1053藤原頼道、平等院鳳凰堂を建立
1083後三年の役。藤原清衡(奥州藤原氏初代)が勢力を拡大する契機に
1105清衡、中尊寺の伽藍造営に着手
1117清衡発願の『紺紙金銀字公書一切経』の書写開始
1124中尊寺金色堂が上棟
1126中尊寺伽藍の落慶供養
1128清衡没する。遺骸を金色堂内陣中央須弥壇に安置
1157この頃、奥州藤原氏2代基衡が没
1176秀衡『紺紙金銀字一切経』を書写
1180秀衡の庇護下にあった源義経、平泉から兄・頼朝のいる黄瀬川に参陣
1186この頃義経、再度秀衡のもとに身を寄せる
1187秀衡が没
11894代泰衡、義経を自刃に追い込む。頼朝が平泉に侵攻。奥州藤原氏滅亡

金箔に包まれた阿弥陀堂建築

中尊寺金色堂
中尊寺金色堂 画像出典:BSジャパン

金色堂は、高さ約8メートル、間口・奥行きはともに約5.5メートルの正方形で、四方にぐるりとひさしがついた「一間四面堂いっけんしめんどう」と呼ばれる典型的な阿弥陀堂。平安時代を代表する浄土教建築である。屋根はピラミッド状の宝形造ほうぎょうづくりで、木材を載せた木瓦形板葺こがわらがたいたぶき。四方の壁の内外から床、天井、庇の裏まで金箔が施されている。中央と左右の3つの須弥壇上には、阿弥陀三尊と地蔵菩薩像などを安置。須弥壇内には藤原四代の遺体や首級が納められている。

中尊寺

1124年に奥州藤原氏初代藤原清衡ふじわらきよひらが建立した中尊寺金色堂は、鎌倉7代将軍惟康親王これやすしんのうの命で建設された覆堂により保護されてきた。現在の覆堂は鉄筋コンクリート造で、金色堂は温度、湿度が調節されたガラスケースにおさめられている。

参考 山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

中世社会の成立

院政と平氏の台頭

院政期の文化

この時代には地方の豪族が京都の文化を積極的に取り入れており、各地に宗教文化が広がった。奥州藤原氏は藤原清衡ふじわらのきよひらの時に平泉に中尊寺を建て、黄金をふんだんに使った金色堂などの建物を造営し、その子藤原基衡ふじわらのもとひらも平泉に毛越寺もうつじという大寺院を建立した。また、陸奥の磐城いわきの白水阿弥陀堂や、九州豊後ぶんごには富貴寺大堂ふきじおおどう臼杵うすきの石仏など、地方豪族のつくった阿弥陀堂や浄土教美術の秀作が各地に残されている。

世界遺産

平安時代末期に仏の正しい教えがすたれ世が乱れるという末法思想が広まり、貴族を中心に浄土思想が流行した。平泉では奥州藤原氏によって、浄土信仰に基づく理想世界の実現をめざした仏教文化が花開いた。中尊寺は、1105年に藤原清衡が再興した寺院である。金色堂と呼ばれる仏堂は創建当初のまま残る唯一の建造物で、金や螺鈿らでんをふんだんに使い、仏像群とともに阿弥陀如来の極楽浄土を表現している。須弥壇内には藤原氏3代(清衡、基衡、秀衡)の遺体と4代泰衡の首級が納められた。清衡が納めた「供養願文」からは、奥州の戦いで死んだ者たちを敵味方の区別なく極楽浄土へ導き、辺境の奥州にこの世の浄土を築こうとした清衡の思いがうかがえる。

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