五胡十六国と南北朝 南北朝時代(中国) 東アジア諸国との交渉 北魏 南北朝時代(中国)地図
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北魏


五胡十六国時代

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( A.D.386〜A.D.534)
五胡十六国時代の五胡のひとつである「鮮卑」の拓跋氏の拓跋珪が、386年に諸部族に推されて代王の位に就き、都を盛楽(内モンゴル)に定め、国号を魏と改めた。曹魏と区別するため、これを北魏、後魏、拓跋魏などと呼ぶ。
439年に華北を統一し(北朝)、これにより南北朝時代(中国)が始まった。第6代孝文帝のときに都を平城から洛陽に移し、漢化政策を徹底した。のち、北魏は東魏・西魏に分裂した。

北魏

首都:盛楽、平城、洛陽

東アジア世界の形成と発展

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北方民族の活動と中国の分裂

五胡十六国と南北朝

2世紀の中頃より中国の北辺を脅かしていた鮮卑せんぴも長城を越えて侵入し、政権を打ち立てた。チベット系のていきょうも、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。
このうち、氐のたてた前秦ぜんしんは、長安に都をおき強勢となり、長江以北を支配下に入れ、一時的に華北を統一した。さらに中国統一を目指して南下したが、東晋との淝水の戦いひすいのたたかいで敗れ(383)、これを契機に前秦は崩壊し、南北分立の形勢が決まった。これら匈奴きょうど鮮卑せんぴけつていきょうのなどの諸民族を総称して五胡という。このような分裂状態の五胡十六国時代を経て、5世紀前半に鮮卑の拓跋氏たくばつしがたてた北魏ほくぎ太武帝たいぶていによって華北が統一された(439)。

その後、孝文帝のとき、均田制三長制をおこない、華北の荒廃した農村の復興をはかるとともに、税収の基礎を固めた。

また、都を平城へいじょう(現山西省大同市)から洛陽らくように移し(494)、本格的に中国支配にのりだすとともに、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。

淝水の戦い 東晋 五胡十六国時代(4世紀)地図
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五胡十六国の興亡
五胡十六国の興亡 ©世界の歴史まっぷ
三長制:北魏の孝文帝のときにおこなわれることになった村落制度で、5家をりん、5隣を、5里をとうとし、それぞれに長(隣長・里長・党長)をおいた。それぞれの長は役を免除され、戸口調査・徴税・均田制の実施などを担当した。
北魏

北魏は、北方の遊牧民の柔然じゅうぜんを攻撃してこの勢力を弱めたので、西域の諸国や東北の高句麗朝貢した。南朝の宋に対しては、軍事的にはおおむね優勢を保ち、淮河わいがもしくは長江を境界とした。

孝文帝の死後、漢化政策に反対する軍人の反乱をきっかけにして内紛がおこり、国力は急速に衰え、やがて東魏とうぎ西魏せいぎに分裂した。

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魏晋南北朝の文化
仏教

一般に国家や貴族層の保護をうけたが、北朝ではもっぱら皇帝の保護のもとで繁栄し、とくに北魏では国家仏教としてさかんになった。このため皇帝の意向によって弾圧される場合も生じることになり、5世紀初めに北魏でおこなわれた廃仏は、皇帝が道教を信仰したためであった。

仏教の受容にともない、仏像・寺院もさかんに作られるようになり、五胡十六国時代に初めて開かれた敦煌とんこう莫高窟ばっこうくつ )や北魏時代に建築が始まった雲崗石窟うんこうせっくつ龍門石窟などの巨大な石窟せっくつ寺院は、遠くインドのガンダーラ様式・グプタ様式や、中央アジア様式の影響をうけている。

道教

道教の源流は、老荘思想が民間信仰や不老長生を願う神仙思想しんせんしそうなどと結びついた後漢末の太平道・五斗米道ごとべいどうにあるとされるが、この時代に仏教の影響をうけ、天師道てんしどうとして発展した。
北魏の寇謙之こうけんしは、太武帝の信任をうけて天師道に改革を加えて新天使道を始め、国家宗教として教団の形成に努めた。
こののち、道教は広く普及するようになり、儒教・仏教とならんで中国思想の主流を形成するようになるとともに、不老長生と現世的利益を願うその教えは民衆のなかに深く溶け込んでいった。

歴代皇帝

北魏宗室の本来の姓は「拓跋」だったが、孝文帝の漢化政策によって漢風の姓「元」に改めた。

  1. 太祖道武帝(拓跋珪、在位:386年(代王)、386〜398年(魏王)、398年〜409年(皇帝))。
  2. 太宗明元帝(拓跋嗣、在位:409年〜423年)
  3. 世祖太武帝(拓跋燾、在位:423年〜452年)
    南安隠王(拓跋余、在位:452年)
  4. 高宗文成帝(拓跋濬、在位:452年〜465年)
  5. 顕祖献文帝(拓跋弘、在位:465年〜471年)
  6. 高祖孝文帝(元宏、在位:471年〜499年)
  7. 世宗宣武帝(元恪、在位:499年〜515年)
    文景帝(京兆王元愉、在位508年)︰僭称皇帝。「文景帝」は子の文帝(元宝炬)が西魏の皇帝に即位した時に追贈した諡号。
  8. 粛宗孝明帝(元詡、在位:515年〜528年)
    元法僧(在位︰525年)︰僭称皇
    帝皇女某(名不詳、孝明帝の皇女、在位:528年4月1日-2日)︰孝明帝唯一の子。孝明帝を毒殺した霊太后(胡太后)により、生後1ヶ月で男子と偽って皇帝に立てられる。しかしそれが発覚したため、霊太后によってわずか1日で廃位された。正史では正式な皇帝には数えられていない。
    幼主(元釗、在位:528年)︰わずか3歳で霊太后によって皇帝に擁立されたが、それに反対する爾朱栄が挙兵し、霊太后とともに殺害された。正史では正式な皇帝には数えられていない。
  9. 敬宗孝荘帝(元子攸、在位:528年〜530年)
    北海王(元顥、在位︰529年)僭称皇帝。梁によって魏帝と称せられる。
  10. 東海王(元曄、在位:530年〜531年)
  11. 節閔帝・前廃帝(元恭、在位:531年〜532年)
    汝南王(元悦、在位︰530〜532年)︰僭称皇帝。梁によって魏帝と称せられる。
  12. 安定郡王・後廃帝(元朗、在位:531年〜532年)︰531年10月に高歓に擁立されて即位。ただしその時には爾朱度律らによって擁せられた節閔帝(前廃帝)がまだ在位し、さらには梁に後援された元悦も皇帝を称していたので、高歓が北魏の実権を握って節閔帝と元悦の帝位を消滅させる翌年4月まで、北魏には3人の皇帝が並び立った。元朗 (北魏)
  13. 孝武帝(北魏)・出帝(元脩、在位:532年〜534年)︰534年7月に洛陽を脱出して長安に入り(西魏)、10月に洛陽で高歓が孝静帝(元善見)を即位させた(東魏)ため、北魏はふたつに分裂した。

参考 Wikipedia

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