大逆事件 (A.D.1910) 1910年明治天皇暗殺計画という理由で、幸徳秋水・管野スガ・大石誠之助ら無政府主義・社会主義者26人を起訴、翌年全員有罪、幸徳・菅野・大石ら12人が死刑。以後社会主義運動は不振となり「冬の時代」と呼ばれた。
大逆事件
1910年、明治天皇暗殺計画という理由で、幸徳秋水・管野スガ・大石誠之助ら無政府主義・社会主義者26人を起訴。翌年、全員有罪とされ、幸徳・菅野・大石ら12人が死刑。以後、社会主義運動は不振となり、「冬の時代」と呼ばれた。徳富蘆花は『謀叛論』で幸徳らを弁護、永井荷風は『花火』で、文学者として事件を批判した。参考 日本史用語集―A・B共用
近代国家の成立
近代産業の発展
社会問題の発生
日清戦争後、労働者の階級的自覚がしだいに高まり、劣悪な労働条件を改善するために団結するようになった。1897(明治30)年にはアメリカから帰国した高野房太郎(1868〜1904)らが職工義友会をおこし、「職工諸君に寄す」というー文を配布したが、これに片山潜(1859〜1933)らが加わって、同年、労働組合期成会が結成され、その指導のもとに、各地で鉄工組合や日本鉄道矯正会などの労働組合がつくられ、待遇改善や賃金引き上げを要求する労働争議がしばしばおこるようになった。片山が中心となり、労働組合期成会・鉄工組合の機関誌として『労働世界』が発行され、労働組合運動が展開された。

社会民主党結成時の党員:社会主義協会の中心メンバーであった6人が、1901年に結社届を提出した。しかし、前年に制定された治安警察法により、結党の2日後に結社禁止を命じられた。 参考 山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
社会民主党
中心メンバーは、幸徳秋水·片山潜・安部磯雄(1865〜1949)·西川光二郎(1876〜1940)・木下尚(1869〜1937)・河上清(1873〜1949)らで、理想綱領として軍備全廃・階級の廃止・土地と資本の公有化などをかかげ、実際、運動の綱領としては貴族院廃止・軍備縮小・普通選挙実施・8時間労働実施などをうたった。そのころはマルクス主義の影響よりも、まだキリスト教的人道主義の性格が強かった。大逆事件
その真相は長く謎に包まれていたが、第二次世界大戦後になってようやく明らかになってきた。それによると、宮下太吉・菅野スガら数人の急進的な無政府主義活動家が、天皇をすべての社会悪の根源としてその暗殺を計画し、爆裂弾の製造にあたっていたことが発覚して逮捕された。政府はこれを機に大量の社会主義者を検挙し、うち26名を非公開の裁判に付し、幸徳秋水ら12名を死刑、14名を懲役刑に処した。しかし、実際には幸徳は天皇暗殺計画には消極的だったらしく、今日では処刑された人々のなかには無実だった者もあったとみられている。参考