天武天皇 (大海人皇子)(A.D.631〜A.D.686) 天武天皇は、第40代天皇(在位673年3月20日 - 686年10月1日)。天智天皇(中大兄皇子)の同母弟の大海人皇子は、671年に政権に参画した天智天皇の長子大友皇子(弘文天皇)との大王位継承争いを発端とした壬申の乱をおこして勝利し、天武天皇に即位した。
目次
天武天皇
甥を武力で討ち、皇位に就く
古代最大の内乱・壬申の乱に勝利
668年(天智7)、兄の天智天皇が即位すると、大海人皇子が皇太弟となった。ところが、天智天皇はわが子の大友皇子を次期の天皇に望むようになる。皇太弟:大海人皇子は立太子すると皇太弟となった。普通なら皇太子となるところだが、大海人皇子の場合は天皇の弟だから皇太弟という。名称は違うが、皇太子とほぼ同格の地位である。
671年8月、天智天皇は病の床についた。天皇は大海人を病床に呼んで、皇位を譲り後事を託すと伝えた。天皇の使者から言葉に気をつけるよう忠告されていた大海人は、「次の皇位は皇后に譲り、政治のことは大友皇子を皇太子に立ててお任せください。私は出家して、天皇の病気が平癒するよう祈ります」と、きつぱり断った。天智の言葉にうなずいていたら、命はなかっただろうといわれている。
出家した大海人は、その日のうちに古野にこもった。これを、虎に翼をつけて放すようなものだと噂する者もいたという。
その年の暮れ、天智天皇が崩御。大海人と大友の仲は一気に険悪となり、皇室を二分した壬申の乱が起こる。本来ならば大友皇子は官軍、大海人皇子は賊軍であり、大友側に分があるはずだった。しかし、朝廷内の動揺は激しく、大友側は結束しきれなかった。結局、大海人側は各地で大友側を圧倒。約1か月後に大友皇子が自害し、古代最大の内乱は幕を開じた。
大友皇子
『日本書紀』により長らくその即位を認められず
天智天皇の第一皇子。天智天皇の崩御後、壬申の乱で大海人皇子と皇位を争い、敗れて近江山前で自害した。『懐風藻』に詩2編と詳細な伝えが残っている。『日本書紀』は皇子の即位を認めていないが、1870年(明治3)に在位を認められ、弘文天皇と諱された。即位していないとする説もある。略年表
- 668年 天智天皇の皇太弟となる
- 671年 出家して吉野へ下る。同年暮れ、天智天皇崩御
- 672年 壬申の乱に勝利
- 673年 即位。都を飛鳥浄御原に遭す
- 679年 吉野に行幸。吉野の盟約
- 681年 草壁皇子を皇太子にする。律令の編纂を開始
- 684年「八色姓」を定める
- 686年 死去
生年は不明:『日本書紀』には天武天皇の年齢に関する記述がないため、その生年は不明。そこから天武は実は天智天皇よりも年長だったのではないかとする説も根強く唱えられている。
参考
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで律令国家の形成
天智天皇が671(天智天皇10)年に死去すると、翌672年に、壬申の乱がおこった。 これは、天智天皇の同母弟で大王位継承者とされていた大海人皇子と、天智天皇の長子(母は伊賀地方豪族出身)で、671年に政権に参画した大友皇子との間におこった大王位継承争いを発端としている。671(天智天皇10)年正月に太政大臣に任じられたとされる大友皇子は、10月に大海人皇子が出家し、12月に天智天皇が死去した後は、近江朝廷の中心に立った。
江戸時代の学者は皇子の即位を主張し、1870(明治3)年、皇子は弘文天皇と追謚された。
しかし、実質的に朝廷の主であった皇子の即位そのものにこだわる必要はない。また、地方豪族を母にもつ大友皇子は、もともと即位できない立場にあった。
大海人皇子が大友皇子を倒した原因については、大海人皇子の後継者問題や鵜野皇女(のちの持統天皇)の意向もからんで、複雑な要因が存在したのである。
吉野に退いていた大海人皇子は、東国に脱出し、伊賀・伊勢を経て美濃を本拠とし、東国で徴発された数万の兵と、大伴氏を中心とする大和の諸豪族の兵を配下に収めた。大海人軍は飛鳥京を平定するとともに、大津宮を目指して近江路を進軍した。
一方、大友皇子は、西国の兵を徴発しようとしたが、白参考の戦いの動員で疲弊し、近江朝廷への不満を強めていた西国の地方豪族からの動員は思うようには進まず、ついに近江大津宮は陥落し、大友皇子は自殺して乱は決着した。大海人皇子は、683年に飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。
それまで「大王」とされていた君主号にかわるものとして、「天皇」号が制定されたのも、天武朝出会ったと考えられる。中国の「皇帝」と対置し、中国皇帝の冊封を受けた新羅の「国王」よりも優位に立つ、「東夷の小帝国」の君主として、自らを位置付けようとしたのである。

大王から天皇へ
わが国の君主の称号が、5世紀の雄略の代から使われていた「大王」から「天皇」に変わった時期に関しては、従来は推古朝を考える説が多かった。 しかし、その根拠とされてきた法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、天寿国繡帳銘、野中寺弥勒像台座銘などの金石文は、推古朝のものとは考え難いとされるようになり、再検討が必要となった。 一方、中国では、道教の最高神を表す「天皇」という語が君主の称号として用いられたのは、高宗(唐)の上元元(674)年が最初で、天武の即位2年目にあたる。 もしも推古朝から倭国で「天皇」号が用いられていたのならば、それを遣隋使や遣唐使を通じて知っていたはずの中国の皇帝が、東夷の蛮国の君主と同じ称号を用いるはずはない。むしろ、道教に深い関心を持つ唐の高宗が「天皇」号を用いているのを知った天武が、「天皇」と自称し始めたものとも考えられる。 また近年、飛鳥浄御原宮に近接する飛鳥池遺跡から、677(天武天皇6)年を表す年紀をもった木簡と一緒に「天皇」と記載された木簡が出土し、最も古い「天皇」号記載例となった。参考
天武天皇系図
系譜
- 妃:大田皇女 – 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女同 母姉
- 第二皇女:大来皇女(661-701)- 伊勢斎宮
- 第三皇子:大津皇子(663-686)
- 妃:大江皇女 – 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
- 第七皇子:長皇子(?-715) – 文室真人・文室朝臣等祖
- 第九皇子:弓削皇子(?-699)
- 妃:新田部皇女 – 天智天皇皇女、鸕野讃良皇女異母妹
- 第六皇子:舎人親王(崇道尽敬皇帝)(676-735) – 淳仁天皇父、清原真人等祖
- 夫人:氷上娘 – 藤原鎌足女
- 皇女:但馬皇女(?-708)- 高市皇子妃
- 夫人:五百重娘 – 藤原鎌足女、氷上娘妹、のち藤原不比等妻、藤原麻呂母
- 第十皇子:新田部親王(?-735) – 氷上真人・三原朝臣祖
- 夫人:大蕤娘 – 蘇我赤兄女
- 第五皇子:穂積皇子(?-715)
- 皇女:紀皇女(?-?)
- 皇女:田形皇女(675-728) – 六人部王室、伊勢斎宮
- 嬪:額田王 – 鏡王女
- 第一皇女:十市皇女(653?-678) – 大友皇子(弘文天皇)妃、葛野王母
- 嬪:尼子娘 – 胸形徳善女
- 第一皇子:高市皇子(654-696) – 長屋王・鈴鹿王父、高階真人・高階朝臣等祖
- 宮人:カヂ媛娘(カヂは木偏に穀) – 宍人大麻呂女
- 第四皇子:忍壁皇子(?-705) – 龍田真人祖
- 皇子:磯城皇子(?-?) – 三園真人・笠原真人・清春真人祖
- 皇女:泊瀬部皇女(?-741)- 川島皇子妃
- 皇女:託基皇女(?-751) – 志貴皇子妃
参考 Wikipedia
天武天皇が登場する作品
いずれもマンガで、創作された部分はあるが、大まかな流れや飛鳥時代の動き、東アジアの情勢などを知ることで、歴史に興味を持つきっかけになると思う。登場人物が多いので、巻頭にある系図と照らし合わせ、登場人物の立場を把握しながら全巻一気に読んでほしい。天上の虹 「持統天皇物語」
持統天皇の目線から描いた飛鳥時代天智と天武 「新説・日本書紀」
天智天皇と天武天皇を中心に、蘇我入鹿と藤原鎌足を日本書紀とは別の目線で描いた男の世界。