天津条約
- 天津条約(アロー戦争):1858年、アロー戦争に関し、清国とロシア・アメリカ・イギリス・フランスが結んだ条約。
- 天津条約(甲申政変):1885年4月、朝鮮の甲申政変の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
- 天津条約(清仏戦争):1885年6月、清仏間に結ばれた、清仏戦争の講和条約。清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスの保護権と、中国南部における通商、鉄道建設をみとめた。
天津条約
1. 天津条約(アロー戦争)
1858年 アロー戦争に関し、清国とロシア・アメリカ・イギリス・フランスが結んだ条約。
- 英仏両国への賠償金600万両の支払い
- 開港場の増加
- 外国人の内地旅行の自由
- 外交使節の北京常駐
- キリスト教布教の自由など
条約調印後、諸外国が撤退すると北京では主戦派が台頭し、59年に条約批准のために訪中した各国全権を攻撃した。このため、英仏両国は再び軍事行動をおこした。
2. 1885年4月の 天津条約
1884年12月に朝鮮において発生した甲申(こうしん)政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために締結した条約。
内容
- 日清両国は朝鮮から即時に撤退を開始し、4箇月以内に撤兵を完了する。
- 日清両国は朝鮮に対し、軍事顧問は派遣しない。朝鮮には日清両国以外の外国から一名または数名の軍人を招致する。
- 将来朝鮮に出兵する場合は相互通知行文知照を必要と定める。派兵後は速やかに撤退し、駐留しない。
照会文によって、日本商民殺傷事件の再調査と事実であった場合の処罰が約束された。
後の日清戦争の直前、この「行文知照」について日中の見解が分かれ異論が生じた。「照」の字は当時中国官庁では「(中国の)天子の了解を得る手続き」と理解され、中国側では両国共に中国の天子に「照会」をとるとも解された。
1885年4月の天津条約が登場する作品
李氏朝鮮の甲申政変、1885年4月の天津条約が描かれています。
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3. 1885年6月の 天津条約
トンキン戦争講和のため合意された天津停戦協定(李・フルニエ協定)に基づき、1885年6月9日に清仏戦争講和のため清仏間で天津にて締結された。
癸未条約・甲申条約にて確立されたベトナム(アンナン及びトンキン)へのフランスの宗主権を認める内容となっており、中国側のベトナムに対する宗主権の放棄が明確となった。この結果、フランスはインドシナ植民地を確定し、植民地帝国を拡大した。
清国側:北洋大臣・李鴻章
フランス側: フランス公使・ユール・パトノートル
内容
- 清はベトナムをフランスの保護国として認知する
- ラオカイ(保勝)とランソン以北にそれぞれ通商港を開港する
- 清が鉄道を敷設する際にはフランスの業者と商議する
- フランスは基隆、澎湖島から撤退する