孫権 (A.D.182〜A.D.252) 孫権は、三国時代の呉の初代皇帝(在位229年5月23日-252年5月21日)。長江下流域に拠っていた豪族で、父孫堅や兄孫策の跡をついでこの地帯一帯に強固な基盤をきずいた。魏・蜀についで222年に独立し、兼業(現南京市)に都をおき、華中、華南の開発を行った。
孫権
人望を集め江南に大勢力を築く
兄・孫策が実子の孫紹でなく孫権を後継者に指名したため、江東の地盤を受け継いだ。優秀な軍師周瑜と、内政に手腕を発揮する張昭。両者の補佐も兄から引き継ぎ、孫権は勢力を拡大した。 劉備と同盟を結び、曹操の南下を揚子江の右岸・赤壁で阻止。魏、呉、蜀とで中国全土を3分した。魏の曹丕が献帝から禅譲されて帝位に就き、蜀の劉備も皇帝を名乗ったため、孫権も皇帝を自称。首都を建業(現南京)に築いた。建業は以後、政治・経済、文化の中心として繁栄した。 魏から蜀が奪った荊州の領有について、孫権は劉備と対立。荊州の守備についていた蜀の関羽を捕らえて処刑(樊城の戦い)。弔い合戦にきた蜀軍を夷陵の戦いで返り討ちにし、荊州を確保した。 劉備死後、諸葛亮の提案で蜀との友好関係を維持。魏に対抗した。性格はおおらかで人情にも厚かった。地方豪族から信頼を集め、江南一帯の安定経営に成功した。諸葛亮の兄、諸葛瑾は孫権の家臣だったが、諸葛亮と内通していると諫言があったとき、子瑜(諸葛瑾)が弧(私)を裏切らないのは、弧が子瑜を裏切らないのと同じだ」と答えたという。
江東の麒麟児、武名を轟かす
孫権は産まれながら頤が張って口が大きく、瞳にはきらきらした光があった。父孫堅はそうした風貌を喜び、高貴な位にのぼる相があると考えた。兄孫策が江東で行動を起こして以降、孫権はいつも孫策に従って各地を転戦した。その性格は、朗らかで度量が広く、思いやりが深いと同時に決断力があった。男伊達を好んで自分のもとに人材を養い、やがて彼の名が知られるようになると、その名声は孫堅や孫策に伯仲した。孫策が刺客によって殺された後、孫権は名臣周瑜、張昭らに助けられ、また豊かな政治的能力によって江南豪族たちの信頼を集め、その地盤を固めた。曹操から「水軍80万の軍勢を整えて、将軍とお会いして呉の地で狩猟をいたそうと思う」という文面の手紙が送られてくると、群臣の多くは震えあがり、曹操に逆らうべきではないと勧めたが、孫権は周瑜と魯粛の意見に従い、交戦を決意。赤壁において曹操軍を撃破した。従わぬ民:孫権が後を継いだころ、呉が押さえていたのは都市部に限られ、山岳地帯には山越が居住していた。彼らは古くからの越族が中心となるが、中には漢族の難民も含まれていた。
参考
東アジア世界の形成と発展
北方民族の活動と中国の分裂
分裂の時代
後漢末、華北で張角がおこした黄巾の乱(184)を契機に反乱が各地におこり、地方の治安は著しく悪化した。これらの反乱を平定する実力のなくなっていた後漢の政府は、兵力をもつ豪族に官位を与えて地方の安定をはかろうとした。このような豪族勢力を結集するのに成功したのは、この時期、各地に割拠した軍事集団の指導者の中で、魏(220〜265)の基礎を築いた曹操と、蜀(221〜263)を建国した劉備、および呉(222〜280)の建国者である孫権であった。
呉を建国した孫権は、長江下流域に拠っていた豪族で、父や兄の跡をついでこの地帯一帯に強固な基盤をきずいた。魏・蜀についで222年に独立し、兼業(現南京市)に都をおき、華中、華南の開発を行った。
参考
詳説世界史研究孫権が登場する作品
三国志 Three Kingdoms

同時代の人物
壱与
卑弥呼の死後、男の王が立ったが、たちまち戦乱状態に陥ったことから、卑弥呼の親族の少女壱与を王に立てた。すると戦乱はやみ、ようやく国は安定した。