対仏大同盟 たいふつだいどうめい (A.D.1793〜A.D.1815) フランス革命への干渉、ナポレオン1世への対抗のため、5回(数え方によっては第7回)にわたりヨーロッパ諸国が結んだ軍事同盟。93年フランスのルイ16世処刑、ベルギー占領を機にイギリスを中心に、オーストリア、プロイセン、スペインなどの周辺国が参加し、1815年ワーテルローの戦いでナポレオン打倒するまで。
目次
対仏大同盟
対仏同盟一覧
対仏大同盟 | 期間 | おもな参加国 | 備考 |
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第1回対仏大同盟 | 1793〜97 | イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなど | 1797年カンポ=フォルミオの和約 |
第2回対仏大同盟 | 1799〜1802 | イギリス・オーストリア・ロシア・オスマン帝国・ナポリ王国など。(プロイセンは中立) | 1807年アミアンの和約 |
第3回対仏大同盟 | 1805〜1805 | イギリス・オーストリア・ロシア・スウェーデン(プロイセンは中立) | 1805年トラファルガーの海戦・アウステルリッツの三帝会戦 ティルジット条約 大陸封鎖令 |
第4回対仏大同盟 | 1813〜1814 | イギリス・オーストリア・プロイセンを中心にヨーロッパ大半の国々 | 1813年諸国民戦争 |
第5回対仏大同盟 | 1815〜1815 | イギリス・プロイセン・ロシア・オーストリア・スウェーデン・オランダ・ライン同盟 | 1815年ワーテルローの戦い |
参考 ブリタニカ国際大百科事典
ナポレオンの登場と大陸支配流れ図

欧米における近代社会の成長
フランス革命とナポレオン
第一共和制の成立と内外の危機
革命軍の攻勢とルイ16世(フランス王)の処刑は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めた。イギリスのピット首相(小ピット Pitt, 1759〜1806)の呼びかけで、1793年第1回対仏大同盟が結成された。イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加した。モンターニュ派(山岳党)の独裁と恐怖政治
フランスの政治的・経済的危機は続いていた。地方都市ではジロンド派の蜂起がおこなわれ、対仏大同盟の軍隊はフランスに侵入し、国民総徴用令がだされた。インフレや小麦の不足も深刻であった。ブリュメールのクーデタとナポレオン
1796年のオーストリア攻略作戦では、27歳のナポレオンがイタリア方面軍事司令官に抜擢され、兵力で勝るサルデーニャ・オーストリア同盟軍を破り、1797年オーストリアに迫り、カンポ=フォルミオの和約を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた。彼の軍事的・政治的才能はここでも遺憾なく発揮された。 エジプトを征服し、イギリスのインド支配にいどむ基地とするという目的で、1798年ナポレオンはエジプト征服をおこなった。しかし、エジプトは占領したが、フランス艦隊はイギリスのネルソン Nelson (1758〜1805)艦隊にアブキール Aboukir で敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘づけにされた。1799年イギリスはオーストリア・ロシアなどと第2回対仏大同盟を結成した。国内の政治状況とイギリスの動きをエジプトで知ったナポレオンは、軍をエジプトにおいて、500の兵と4隻の船でフランスに戻った。テルミドールのクーデタと総裁政府
フランスはオランダを征服し、1795年プロイセンと講和を結び、ナポレオン=ボナパルトのイタリア遠征の勝利でオーストリアと1797年カンポ=フォルミオの和約 Compo-Formio を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた。帝政の成立と大陸制覇
イギリスでは再びピット内閣が成立し、1805年、第3回対仏大同盟が結成された。ナポレオンはイギリス侵攻計画をたてたが、同年10月、トラファルガーの海戦 Trafalgar で、ネルソンのイギリス艦隊にフランス・スペインの連合艦隊が敗れ、計画は挫折した。陸上の戦いではナポレオンは大きな勝利をおさめた。同年12月のアウステルリッツの戦い Austerlitz では、ナポレオンがオーストリア・ロシア連合軍を撃破し、大陸の覇権を握ることとなった。ナポレオン帝国の崩壊
ナポレオンの大陸軍に対し、ロシア軍は戦いをさけ、ゆっくり後退を続け、ナポレオン軍をロシア本土の奥深くひきこんだ。退却に際し、ロシア軍は焦土作戦をとり、穀物や侵入軍が必要とするものを焼きはらった。1812年9月半ば、ナポレオン軍はモスクワを占領した。後退にあたってロシア軍は放火し、建物を破壊した。侵入軍は宿泊所の不足に苦しめられた。冬の到来と、長い補給路が危険にさらされることから、ナポレオンは撤退を決意した。ナポレオンのモスクワからの撤退は、軍事史上の悲劇のひとつとなった。多くの兵士がコサックの追撃と、ロシア平原の冬に倒れた。ロシアの国境までたどりついたのは、侵入した軍隊の5分の1であった。ナポレオンは軍をおき去りにし、彼の帝国を守る新しい軍隊を編成するため急ぎフランスにもどった。ロシア軍は撤退するフランス軍を追ってナポレオンの帝国に侵入した。 ナポレオンの同盟者でもあったヨーロッパの君主たちはナポレオンから離れた。イギリス・プロイセン・オーストリア・スウェーデンはロシアと結び、新しい対仏大同盟が結成された。ナポレオンは敵が結束する前にたたくという彼の得意の戦略を用いようとしたが、今度は遅きに失した。1813年10月ナポレオン軍と新しい同盟軍はライプチヒ Leipzig で対戦し、同盟軍がフランス軍を決定的に撃ち破った(諸国民の戦い)。このためナポレオンはフランスに後退した。フランスに侵入した同盟軍に対し、ナポレオンは何度か優れた戦術で戦った。しかし敗色はこく、1814年4月同盟軍はパリに入城した。彼は息子に譲位しようとしたが、認められなかった。同盟軍は彼に年金を与え、エルバ島に隠退させた。ルイ16世の弟がフランスに帰り、ルイ18世 Louis XVIII (位1814〜24)として即位し、ブルボン朝の王政が復活した(王政復古)。 ルイ18世(フランス王)は、その反動的な態度で国民の間に多くの敵をつくりだした。また、戦後の平和の秩序を討議するためウィーンに集まった列国の代表の利害は対立し、議事はまとまらなかった(ウィーン会議)。こうした情勢を知ったナポレオンはエルバ島を脱出して、1815年3月フランス南部に上陸し、支持者を加え北上した。彼を捕らえるため派遣された軍も「皇帝」に従った。ルイ18世はベルギーに逃亡し、パリに入ったナポレオンは再び皇帝の地位についた。「百日天下」の始まりである。ナポレオンは時をかせぎ、軍隊を再編成し、戦争に備えた。諸国は第5回対仏大同盟(数え方によっては第7回)を結成して、復活したナポレオンに対決した。1815年ベルギーのブリュッセルの南、ワーテルロー Waterloo で、ナポレオンはイギリスのウェリントン Wellington (1769〜1852)(アーサー・ウェルズリー(初代ウェリントン公爵)、プロイセンのブリュッヘル(ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル)と戦って敗れた(ワーテルローの戦い)。復活した皇帝の支配は短期間で終わった。