封建制 封建制とは、古代中国の周王朝に由来する言葉であるが、ヨーロッパの封建制はそれとは性格を異にする。中国の封建制は氏族的な血縁関係に支えられていたのに対し、ヨーロッパ中世の封建制は1対1の双務契約的な関係からなり、複数の主君に仕える家臣も少なくなかった。 ヨーロッパの封建制も、一般的には君主と家臣との間の封(封土)を媒介とした保護忠誠関係という狭義の捉え方と、荘園制ないし農奴制を経済的基礎とする社会体制という広義の捉え方とがある。
目次
封建制
西ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ世界の成立
封建社会の成立
ヨーロッパ中世は通常封建社会とか、封建制の時代と言われる。封建制とは、古代中国の周王朝に由来する言葉であるが、ヨーロッパの封建制はそれとは性格を異にする。中国の封建制は氏族的な血縁関係に支えられていたのに対し、ヨーロッパ中世の封建制は1対1の双務契約的な関係からなっていたことが大きな相違である。また、ヨーロッパでは、複数の主君に仕える家臣も少なくなかった(複数従臣制)。
また、ヨーロッパの封建制の意味についても、その捉え方は一様ではないが、一般的には君主と家臣との間の封(封土)を媒介とした保護忠誠関係という狭義の捉え方と、荘園制ないし農奴制を経済的基礎とする社会体制という広義の捉え方とがある。ここでは、まず前者のとらえ方からみてみよう。
封土を媒介とした保護忠誠関係
8〜9世紀の西ヨーロッパでは、イスラーム教徒・マジャル人・ヴァイキングなど相次ぐ異民族の侵入とフランク王国の分裂、およびその後の王権の衰退のなかで、人々は自己の安全を守るため地方の有力者に土地を託して主従関係を結ぶようになった。その結果、支配階層間に私的な主従関係が幾重にも渡って成立することになり、有力者は多数の家臣を抱えて勢力を増し、各地に城塞を築いて諸侯として自立した。また、封(封土)は当初1代限りのものであったが、次第に世襲化されるようになり、国王を頂点に侯とか伯を名乗る大諸侯から、中小諸侯、騎士にいたる階層制(ヒエラルヒー)が成立した。国王は名目的には最上層を占めたが、実質的には地方の一諸侯にすぎず、ときとして他の諸侯に臣従する場合もあった。
封建的主従関係に伴う権利・義務
主従関係の締結は、託身と言われる臣従の儀式を必要とした。まず、家臣が主君の前にひざまずき、両手を合わせて差し出す。主君はそれを両手ではさんで、家臣として保護することを約束する。次に家臣は立ち上がり、福音書ないしは十字架に手をかけて忠誠を誓う。そうしてのち、主君は家臣に契約のしるしとして鞭・指輪・小枝などを与えるのである。それはいわば封の象徴であり、実際の封は土地(封土)や官職・金銭・徴税権など多種類にわたった。なお、封土の多くはもともと家臣の土地であったが、契約に際してそれを改めて主君から授封されるという形式を踏んだ。家臣は、こうした権利を手にする一方で、軍役奉仕と経済援助(捕虜となった主君の賠償金支払い、主君の長男の騎士叙任式、主君の長女の結婚式、主君のエルサレム巡礼費支払いなど)の義務を負った。

騎士の馬上試合(トーナメント)
今日、トーナメントといえば勝ち抜き戦の試合形式を指し、総当たり方式のリーグ戦と対比されるのが普通である。しかし、元来それはヨーロッパ中世の騎士による馬上試合を意味した。鎧・甲・に正装した騎士たちが、初めは2隊に別れて勝負を決め、次に一人ずつ相対して勝負を争った。勝負は槍を用いて相手を馬から突き落とすというもので、まさに実践的な演習を兼ねた行動であった。勝者は敗者の馬および馬具を奪い取ることができ、また、憧れの女性から祝福を受けた。騎士の崇拝する女性は、主君の夫人など既婚者の貴婦人である場合が多く、その恋愛も精神的な面が重んじられた。
西ヨーロッパ中世世界の変容
イギリスの封建社会と身分制議会
ノルマン朝(1066〜1154)
イギリスの封建社会はノルマン朝において確立された。ウィリアム1世(イングランド王)は、征服の過程で土着のアングロ・サクソン貴族の土地を没収し、配下のノルマン貴族らに騎士的奉仕の代償として授封した。そして、1085年より1年がかりで全国規模の検地を実地し(この検地帳がドゥームズデイ・ブック)、王権を強化した。それは、フランスなどとくらべてもきわめて集権的な封建国家の成立を意味した。
ドゥームズデイ・ブック:domesday (doomsday) とは「最後の審判 the Last Judgement の日」の意味であり、測量調査の厳正ぶりを「最後の審判」にたとえて、こう呼ばれるようになった。
プランタジネット朝(1154〜1399)
しかし、12世紀半ばには王位をめぐる内乱がおこり、結果的にフランスのアンジュー伯がヘンリー2世(イングランド王)として即位し、プランタジネット朝を開いた。
ヘンリー2世はアキテーヌ侯のエレアノールと結婚するなどして、ほぼフランス西半部を領有し、大陸とイギリスにまたがる大帝国(アンジュー帝国)を建設した。また、対内的には行政・司法制度を整備して王権強化に努め、イギリス封建王政の盛期を現出した。
次の獅子心王リチャード1世(イングランド王)は、第3回十字軍( 初期の十字軍 – 世界の歴史まっぷ)から帰国の途中オーストリア大公の捕虜となり、その身代金支払いや莫大な軍費負担に諸侯の不満はつのり、全面的な反抗を招くことになった。
続く欠地王ジョン(イングランド王)はフィリップ2世(フランス王)と争い、ノルマンディーをはじめ大陸領の大半を喪失し(1204)、父王ヘンリー2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命を巡ってインノケンティウス3世(ローマ教皇)と対立して破門され、屈服するという失態を演じた( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)。その後大陸の旧領の回復をはかったが、国内の貴族に軍役を拒否され、さらには彼らの反乱を招くことになった(1215)。これにはロンドン市民も同調したため、ジョン欠地王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。これが、いわゆる大憲章(マグナ・カルタ)である。
大憲章(マグナ・カルタ)
1215年6月15日、ジョン(イングランド王)はロンドン西方のラニーミードで貴族と会見し、彼らの要求をのみ、大憲章として発布した。内容は、教会の自由、封建的負担の制限、国王役人の職権乱用防止、ロンドンその他の都市の特権、通商の自由、度量衡の統一など多岐にわたる。近世になって63ヶ条に整理されたが、もともとは貴族や市民などの権利を書きならべたものにすぎず、法典としての体系世は見られない。その意味で、大憲章は封建的慣習・特権を国王に再認識させ、国王の専横に歯止めをかけようとしたものととらえることができる。しかし、法の支配を明文化した点で高く評価され、イギリス立法政治の基礎をなした。フランスの封建社会と三部会
カペー朝(987〜1328)
フランスでは、カペー朝において典型的な封建社会( 封建制)が成立した。諸侯勢力が強大で、王領も北部を中心とする極めて狭い地域に限られていた。加えて12世紀の半ばには、イギリスに成立したプランタジネット朝によりフランスの国土の半分が領有されたため、カペー家のフランス統一は妨げられた。しかし、同世紀末に登場したフィリップ2世(フランス王)は、官僚制を整備して王領地の管理に努めるとともに、都市との結びつきを強めて諸侯を牽制し、王権の強化をはかった。そして、ジョン(イングランド王)との戦いや南フランスへのアルビジョワ十字軍などを通じて、王領地を西部や南部にも拡大していった。
13世紀半ばのルイ9世(フランス王)の治世には、内政・外交とも安定し、フランスは西ヨーロッパ国際政治の中心的地位を占めた。
フィリップ4世と三部会
三部会には全国三部会と地方三部会とがある。全国三部会は通算60回開かれたが、そのうち最初の2回はフィリップ4世の時代に行われている。
第1回がアナーニ事件の前年(1302)、第2回がテンプル騎士団事件の年(1308)である。いずれも教皇との対立の中で、国王が国内勢力を味方につけるために開かれた。フィリップは王室財政の補充と集権化の障害を除くために、フランスに本拠を移していたテンプル騎士団を異端として解散させることをもくろんだ。しかし、異端審問権は教皇にしかなかったから、これを国王にも特例として認めさせるため、1308年、トゥールに全国三部会を開いたのである。そして、目論見どおり、騎士団の所領・財宝を没収し、団長以下修道士たちを異端として処刑した。ただ、フィリップのこの頃の全国三部会はまた整備されておらず、代表の選出方法や会期などは曖昧なままであった。
封建制・荘園制の崩壊
都市と商業の発達は、必然的に貨幣経済の浸透を促した。現物経済に依存してきた荘園領主も貨幣を必要としはじめ、12〜13世紀ころから経営の見直しを迫られるようになった。そこで、直営地を解体して農民に分割貸与し、従来の賦役を生産物地代ないしは貨幣地代に切り替えていった。いわゆる古典荘園から純粋荘園への変化がこれである。だた、それは旧来の領主・農民関係を大きく変えることになった。すなわち、領主の人格的支配は次第に緩み、貨幣を蓄えた農民の中には、多額の解放金を支払うことにより、人頭税・結婚税・死亡税などの身分的隷属から自由になるものも現れたのである。 この農奴解放は、14〜15世紀になるとさらに促進された。百年戦争・バラ戦争などの相次ぐ戦乱とペスト(黒死病)の大流行により、農村人口が激変したからである。特に、1347〜1348年のペストの流行は、イタリア半島や南フランスからほぼヨーロッパ全土に波及し、全人口の3分の1から5分の1を奪ったと言われる。農業労働力の不足に対処するため、領主は地代を軽減したり、農民の土地保有権を強化して保有地の売買や貸借の自由を認めるなど、待遇の改善をはかった。こうした動きは、一般に「封建制(領主制)の危機」と称されるが、結果的に領主は地主化し、農民も少額の地代を納めるだけで身分的にはほとんど自由な独立自営農民(ヨーマン)となった。ヨーマンの誕生は、地代の金納化のもっとも進んでいたイギリスで顕著にみられた。また、フランスを中心とするエルベ川以西の地域では、生産物地代を負担する小規模経営の農民が多数生まれることになった。ペストの流行都市の恐怖
12世紀を中心とする前後200年のヨーロッパは、農業的高度成長の時代であったが、それを支えた農業技術の革新も限度に達し、13世紀半ばには開墾運動が沈滞するようになった。穀物生産も伸び悩み、人口増加による穀物価格の上昇は、14世紀以降の人々を慢性的な栄養失調状態に陥れた。そこにペストの大流行である。人々はペストの格好の餌食となった。日常化する死のなかで、人々は死の恐怖を増幅させた。そうした恐怖のなかで、人々はさまざまな祈願・祈祷を行った。なかには、十字架と革紐を手にして行進し、聖歌を歌いながらはだけた上半身を鞭打つ苦行者の群れも見られた。あるいは、南フランスやライン沿岸の諸都市では、ペストの流行をユダヤ人の仕業と考える人々により、ユダヤ人の虐殺が行われた。また、絵画や彫刻の主題にも死が取り上げられ、墓地のフレスコ画などに「死者の舞踏」「死の勝利」が描かれた。イタリア・ルネサンスが人間の生を追求したのも、死と隣り合わせの時代であったからだということもできる。参考