山県有朋
山県有朋(国立国会図書館蔵/ 近代日本人の肖像

山県有朋


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山県有朋 やまがたありとも( A.D.1838〜A.D.1922)

山口出身の政治家。奇兵隊を率いて倒幕に活躍。陸軍の基礎を確立し、西南戦争を鎮圧した。1889年と98年に長州閥・軍閥の巨頭として内閣を組織し、文官任用令の改正、陸・海軍大臣現役武官制・治安警察法などを施行。現役を引退後は元老として政界に君臨する。

山県有朋

山口出身の政治家。奇兵隊を率いて倒幕に活躍。陸軍の基礎を確立し、西南戦争を鎮圧した。1889年と98年に長州閥・軍閥の巨頭として内閣を組織し、文官任用令の改正、陸・海軍大臣現役武官制・治安警察法などを施行。現役を引退後は元老として政界に君臨する。

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天皇中心の専制国家の実現を目指した巨星

徴兵制を導入するなど軍隊の近代化を進める

山県有朋が目指すのは、天皇中心の絶対的専制主義国家の確立であった。近代兵制の祖・大村益次郎おおむらますじろうが死に、参議前原一誠が辞任したため、山県は軍の実権を握ることになった。軍を陸海軍に分け、徴兵制を導入するなど軍隊の近代化を進めていく。絶対的専制主義国家を目指す山県にとって、1878年(明治11)の近衛砲兵による反乱は、衝撃を与えた。山県は事件の2か月後、軍人訓戒を訓示、その4年後には天皇の名のもとに「軍人勅諭」を発する。軍部の頂点に天皇を置き、天皇の命令は絶対なものとした。軍隊の規律維持や士気向上には役立ったかもしれないが、統帥権の独立と帷幄上奏いあくじょうそう(閣議を経ず上奏)の慣例をつくったことは、のちの日本にとっては禍根となった。一方、政界でも重きを成し、伊藤博文死後は、元老の中枢的存在として山県閥と呼ばれる一大勢力を形成し政界を操縦した。しかし大正期に入ると、しだいに山県主導の藩閥政治への不満が高まり、1921年(大正10)の皇太子妃選定問題(宮中某重大事件)では世論をも巻き込んだ批判を浴びて一気に求心力を失い、その翌年に死去した。

国葬:山県の国葬に参列したのは文官・武官の大物と軍人だけ。20日前の大隈重信の葬儀で20万もの民衆が別れを惜しんだのとは大きな違いだった。山県はそれほど国民から人気がなかった。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

明治維新と富国強兵

中央集権体制の強化
官制改革

藩閥政府の形成

正院太政大臣三条実美(公家)参議木戸孝允(長州)
西郷隆盛(薩摩)
板垣退助(土佐)
大隈重信(備前)
左院議長副議長江藤新平(肥前)
右院神祇卿大輔福羽美静(津和野)
外務卿岩倉具視(公家)寺島宗則(薩摩)
大蔵卿大久保利通(薩摩)井上馨 (長州)
兵部卿山県有朋(長州)
文部卿大木喬任(肥前)
工部卿後藤象二郎(土佐)
司法卿佐佐木高行(土佐)
宮内卿万里小路博房(公家)
開拓長官東久世通禧(公家)次官黒田清隆(薩摩)
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠
徴兵制度

国家を強化するため、これまでの諸藩士を中心とした軍隊にかわって、徴兵制による国民を基礎とした近代的軍隊をつくりあげることが必要とされた。この方針は版籍奉還直後から大村益次郎によって立案され、彼が暗殺されたのちは、山県有朋やまがたありとも(1838〜1922)を中心に具体化された。廃藩置県によって藩兵は解散され、ついで政府は全国の兵権を兵部省しょうぶしょうに集め、4鎮台をおき、1872(明治5)年3月には御親兵を近衛兵と改めた。そして同年11月、徴兵の詔を出し、1873(明治6)年1月には徴兵令を公布して、士族・平民の身分にかかわりなく満20歳に達した男性を兵役に服させるという新しい軍制を打ち立てた。また、鎮台も6鎮台になった。こうして組織され、洋式の装備で訓練を受けた新しい軍隊は、のちに西南戦争で大きな威力を発揮したのである。

国民皆兵

徴兵令には戸主とこれにかわる者、嗣子しし・養子・官吏·学生など、かなり大幅な免役の規定があり、とくに代人料270円を払えば免役になったりして、「国民皆兵こくみんかいへい」の実はあがらなかった。そこで、1879(明治12)年·83(明治16)年·89(明治22)年の3回にわたって改正を加え、免役規定を縮小して国民皆兵の義務を強化した。

しかし、徴兵令の公布は士族からは武士の特権を奪うものとして非難を受け、平民からは新しく負担を増すものとして反対され、地方によっては暴動を招いた 。そこで、政府は1873(明治6)年国内の治安維持をつかさどる内務省を設置し、翌年その管轄のもとに東京に警視庁を設けるなど、警察制度の整備にも力を注いだ。

1872(明治5)年の徴兵告諭に「血税」という文字があったことから、生き血を絞られるものと誤解して、いわゆる血税一揆と呼ばれる徴兵反対の暴動がおこったところも多かった。
新政府への反乱

明治維新に活躍した人々

氏名出身生没年大政奉還時の年齢
勝海舟幕臣1823(文政6)〜1899(明治32)45
大村益次郎長州藩1824(文政7)〜1869(明治2)44
岩倉具視公家1825(文政8)〜1883(明治16)43
山内豊信土佐藩1827(文政10)〜1872(明治5)41
西郷隆盛薩摩藩1827(文政10)〜1877(明治10)41
大久保利通薩摩藩1830(天保元)〜1878(明治11)38
吉田松陰長州藩1830(天保元)〜1859(安政6)(30)
木戸孝允長州藩1833(天保4)〜1877(明治10)35
橋本左内越前藩1834(天保5)〜1859(安政6)(26)
坂本竜馬土佐藩1835(天保6)〜1867(慶応3)33
井上馨長州藩1835(天保6)〜1915(大正4)33
榎本武揚幕臣1836(天保7)〜1908(明治41)32
徳川慶喜将軍1837(天保8)〜1913(大正2)31
三条実美公家1837(天保8)〜1891(明治24)31
後藤象二郎土佐藩1838(天保9)〜1897(明治30)39
山県有朋長州藩1838(天保9)〜1922(大正11)30
高杉晋作長州藩1839(天保10)〜1867(慶応3)(29)
伊藤博文長州藩1841(天保12)〜1909(明治42)27
( )内は死亡時の年齢

立憲国家の成立と日清戦争

国家体制の整備
内閣制度の確立

第1次伊藤内閣

官職氏名出身年齢爵位
総理伊藤博文長州藩45
外務井上馨長州藩51
内務山県有朋長州藩48
大蔵松方正義薩摩藩51
陸軍大山巌薩摩藩44
海軍西郷従道薩摩藩43
司法山田顕義長州藩42
文部森有礼薩摩藩39
農商務谷干城土佐藩49
逓信榎本武揚幕臣50
地方自治制度

地方制度の面においても大きな改正が加えられた。政府は議会開設に先立ち、内務大臣山県有朋やまがたありともを中心に、ドイツ人顧問モッセの助言を受けてドイツに範をとる地方自治制を取り入れ、地方自治の確立につとめ、1888(明治21)年に市制・町村制を公布し、翌年施行した。ついで1890(明治23)年、府県制・郡制を公布した。三新法にかわるこれら一連の新法令の公布によって、強い官僚統制のもとに地方有力者を組み込むかたちをとって、官治主義的な地方自治制度が確立された 。地方自治制を帝国議会開設に先立って定めたねらいの一つは、議会開設後、当然予想される政府と政党との衝突や政争の激化を地方政局へ及ぼさないためのものであった。そのため、県会議員の選挙ではこれまでの住民による直接選挙の方式を改めて、郡会、市会などからの間接選挙によることとし、郡会議員の選挙では一部に大地主の互選の制度を定め、また市会議員・町村会議員の選挙は、直接国税2円以上を納める有権者の直接選挙で選ばれた。その選挙では、有産者に有利な等級選挙法を採用するなどの配慮をし、”財産と教育ある名望家”が議員に選ばれるような制度をつくって、地方自治の基礎としたのである。なお、郡制・郡会や市町村会議員の等級選挙制度は、その後批判が高まり、1920年代に廃止された。

府県知事や郡長は、これまで通り政府によって任命された。
初期議会
初期議会のあゆみ 初期議会
初期議会のあゆみ ©世界の歴史まっぷ
第1次山県内閣
第1次山県内閣カード ©世界の歴史まっぷ

第ー議会(1890〜91年)から第六議会(1894年)までのいわゆる初期議会においては、民党は衆議院の予算審議権などを武器として、しばしば政府と激しく対立した。第ー議会では民党は「民力休養・政費節減」をスローガンに行政整理を主張し、政府提出の予算案を大幅に削減しようとし、政府(第1次山県内閣)と対立した。政府は民党の要求を一部認めることにより妥協をはかり、立憲自由党の土佐派(竹内綱たけうちつな〈1839~1922〉·林有造・植木枝盛ら)の協力を得て予算案を成立させ、かろうじてこの難局を切り抜けることができた。第ー議会で政府側と民党側が、相互に妥協的態度をとったのは、最初の議会から双方が正面衝突して衆議院が解散され、予算案が不成立に終わるようでは、欧米の先進国から日本人の立憲政治運営能力に疑問をもたれることになるので、双方ともにそうした事態を避けようという自制心をいだいていたことも大きな理由であろう。

明治時代の内閣総理大臣

総理大臣成立年月年齢出身・政党
伊藤博文(第1次)1885.1245長州
黒田清隆1888.449薩摩
山県有朋(第1次)1889.1252長州
松方正義(第1次)1891.557薩摩
伊藤博文(第2次)1892.852長州
松方正義(第2次)1896.962薩摩
伊藤博文(第3次)1898.158長州
大隈重信(第1次)1898.661肥前・憲政党
山県有朋(第2次)1898.1161長州
伊藤博文(第4次)1900.1060長州・政友会
桂太郎(第1次)1901.655長州
西園寺公望(第1次)1906.158公家・政友会
桂太郎(第2次)1900.762長州
西園寺公望(第2次)1911.863公家・政友会

日露戦争と国際関係

日清戦争後の政府と政党
日清戦争後の政府と政党 日清戦争後の政治と政党の流れ図
日清戦争後の政治と政党の流れ図 ©世界の歴史まっぷ
第2次山県内閣
第2次山県内閣カード ©世界の歴史まっぷ

あとを継いだ第2次山県内閣は、いったん憲政党(旧自由党系)と手を結んで、1898(明治31)年、地租増徴案を成立させ、地租率を地価の3.3%に引き上げた。山県内閣は、その後、政党の力をおさえるため、1899(明冶32)年には文官任用令を改正して政党員が官吏になる道を制限し、翌1900年には軍部大臣は現役の大将・中将に限る軍部大臣現役武官制を確立し、また治安警察法をつくつて社会、労働運動を規制するなどの政策をとった。

しかし、超然主義がもはや不可能であることは明らかであった。懸案となっていた衆議院議員選挙法の改正が山県内閣のもとで1900(明治33)年に行われ、選挙権については直接国税の制限額は10円以上に引き下げられて有権者は倍増し、被選挙権における納税額による制限は撤廃されるなど、国民の参政権が拡大されたのである。投票方法も無記名秘密投票制が採用された。このような情勢のなかで、憲政党は文官任用令改正問題で対立を深めていた山県内閣との提携をやめ、伊藤博文に接近し、伊藤も自ら積極的に政党結成に乗り出した。こうして星亨らの指導により憲政党(旧自由党系)は解党し、伊藤を総裁に擁立して、1900(明治33)年9月立憲政友会が結成された。

立憲政友会を基礎として1900年10月に成立した第4次伊藤内閣は半年余りで終わったが、これを機に伊藤・山県らは第一線を退き、元老として内閣の背後から政治を動かすようになった。そして、1901(明治34)年の第1次桂内閣成立以後、山県を後ろ盾に藩閥·官僚勢力に基礎をおく桂太郎かつらたろう(1847〜1913)と、伊藤のあとを継いだ立憲政友会総裁西園寺公望が、交代して内閣を組織する、いわゆる桂園時代けいえんじだいが始まった。

元老

伊藤博文・山県有朋・黒田清隆・松方正義・井上馨・西郷従道・大山巌(1842〜1916)の7人に、明治末期以降、桂太郎・西園寺公望の2人が加わった。公家出身の西園寺を除けばいずれも薩長両藩出身の藩閥政治家であり、明治時代に首相を経験した者は大隈重信を除いて、すべて元老に列せられた。元老については、憲法はもとよりそのほかの法令でも何ら明文上の規定はなかったが、彼らはいずれも明治国家の建設に大きな力があった長老級の有力政治家で、天皇の諮問に応じて重要な国務、とくに内閣更迭にあたって後継の首相を推薦したり、重要な外交問題に参画するなど、事実上、明治国家運営の最高指導者の役割を果たした。

桂園時代

日露戦争を通じて、日本の国内政治にもいろいろな変化が現れた。日露戦争後の1906(明治39)年、第1次桂内閣は退陣し、第1次西園寺内閣が成立したが、これ以後、藩閥・官僚勢力や陸軍をバックとした桂太郎と、衆議院の第一党である立憲政友会の総裁西園寺公望とが「情意投合じょういとうごう」して交互に内閣を組織するというかたちが続き、いわゆる桂園時代が訪れた。山県有朋をはじめとする藩閥政治家の長老は元老として、各種の重要国務に参画し、後継首相の推薦などを通じて政界に隠然たる勢力をふるっていた

とくに山県有朋は軍部(陸軍)・高級官僚・枢密院・貴族院などの間にいわゆる山形閥をつくって、大きな政治的影響力を保持していた。
帝国国防方針

1907(明治40)年、軍部は山県有朋らが中心となって帝国国防方針を立案した。これは、陸軍はロシア・フランスを仮想敵国として17個師団を25個師団に増強し、海軍はアメリカに対抗して戦艦・巡洋戦艦各8隻を中心とする大艦隊(八・八艦隊)を建設する、というものであった。

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