後醍醐天皇 (
A.D.1288〜A.D.1339)
第96代天皇(在位1318〜1339)。鎌倉幕府を倒し、天皇親政をめざして「建武の新政」(1333〜1336)を実施したが、武家の実力が公家を凌駕していたこの時代に、天皇親政の理想をかかげた新政への不満は地方武士の反乱として噴出。1336(建武3)年、足利尊氏が京都で建武式目を制定し室町幕府が成立すると、後醍醐天皇は廃位され、吉野に南朝を開いて政権回復の機会を狙うが果たされず、その地で崩御した。
後醍醐天皇
天皇親政を夢に描いた、不屈の帝王
後醍醐の倒幕計画と鎌倉幕府の滅亡
1318年(文保2)、後醍醐天皇が即位。このときすでに31歳。幼少での即位が多かった当時としては異例の壮齢である。
後醍醐天皇が目指したのは天皇親政だ。今や天皇の臣下であるはずの武家に実権を握られていた。本来ならば徳をもって天下を治めるはずの天皇家はすっかり権威を失い、自分の後継者でさえ勝手に決めることができない。後醍醐天皇の自らの立場や現状に対する不満は、倒幕ヘの強い意志となっていった。
1321年(元亨1)、後宇多上皇が院政を停止し、後醍醐天皇の御世が始まる。着々と実行への準備を進め、ついに倒幕を決意。日野俊基を全国各地へと派遣し、幕府に批判的な武士たちの経済力・軍事力を調べる。
得られた情報を吟味し、随臣一の切れ者であった日野資朝をして謀略させ、倒幕勢力として組織していった。
対する鎌倉幕府では、十四代執権北条高時が遊興に耽って政治を放棄。不満をもつ御家人たちによる武装蜂起があとを絶たない。こうした状況のもと後醍醐天皇は2度にわたって倒幕を企てるが、どちらも幕府へ密告する者が出て失敗し、皇位を廃
されて隠岐へ流された。
だが、努力は無駄には終わらなかった。後醍醐天皇に応じて挙兵した楠木正成は、河内郡下赤坂城で激しい抵抗を続け、後醍醐天皇の子・護良親王がゲリラ戦を展開しながら各地に檄を飛ばすと、播磨の赤松則村(赤松円心)が呼応。九州では菊池・阿蘇が、伊予では土居・得能が兵を挙げ、倒幕運動は全国へと広がった。
これを見て後醍醐天皇は名和長年を頼って隠岐から脱出し、挙兵。すると足利尊氏が幕府に背いて京の六波羅探題を滅ぼし、新田義貞は鎌倉を落として、鎌倉幕府は減亡した。
武士を軽んじて招いた建武新政の失敗
足利尊氏制圧下の京へ人った後醍醐天皇は親政を再開。権力のすべてを自らに一元化して政治を展開した。しかし、後醍醐天皇は武士に冷たかった。戦後の論功行賞では自分の一族や貴族に厚く施して武士を冷遇。倒幕の功労者である赤松円心などは、戦前よりも知行地が減らされる有り様で、早々に政権を離脱した。
さらに「すべての土地の所有権は天皇のものである」と宣言するなど、現実から乖離した政策は、多くの武士たちの反発を招いた。倒幕をなし得たのは武士の力によるものである。だが後醍醐天皇は、自分の理想が正しかったから実現できたものと錯覚してしまった。やがて武士の中で最大の勢力をもつ足利尊氏が後醍醐天皇と決別。後醍醐天皇は京を迫われ、古野に南朝を開いて政権回復の機会を狙うが果たせず、その地で崩御した。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
室町幕府の成立
鎌倉幕府の滅亡
文保の和談ののち、即位したのが大覚寺統の後醍醐天皇(在位1318〜39)であった。宋(王朝)の朱子学を学んだ天皇は、政治に強い意欲を示し、父後宇多天皇(在位1274〜87)の院政を排して天皇親政を開始した。人材を登用し、記録書の機能を盛んにし、延喜・天暦の時代を模範としてその再現につとめた。
平安時代に理想を求めた天皇が、幕府に好意を抱くはずはなく、朱子学の大義名分論からも幕府への不満をもった。幕府が後二条天皇(在位1301~08)の皇子を皇太子に定め、そのつぎの皇太子を持明院統の量仁親王と定めたことも、天皇の行動に影響を与えた。自分の皇子に位を譲って院政を行うためには、天皇は幕府を否定しなければならなかった。一方、幕府は御家人の反感をかい、また悪党の跳梁に困惑していた。幕府への批判は人々の間に広がっていった。こうした状況にあって、天皇は武力による討幕に踏み出したのである。
天皇が近臣日野資朝(1290〜1332)。日野俊基(?~1332)らと協議した討幕計画は、畿内の武士・僧兵を味方につけて六波羅探題を襲おうとするものだった。ところが1324(正中元)年、この計画は明るみに出て、日野資朝・日野俊基は幕府に逮捕された。幕府はこのときは寛容で、資朝こそ佐渡に流したが、俊基を許し、天皇も間責しなかった。これを正中の変という。
いったんは挫折したものの、天皇の討幕の意志は固かった。天皇は護良(1308~35)・宗良(1311~85)両親王を延暦寺の座主に任じ、僧兵の力をひき寄せようとした。
俊基は山伏の姿になって、畿内の武士を説いてまわったという。けれどもこの企ても1331(元弘元)年、武力での討幕に反対する近臣吉田定房(1274~1338)の密告によって露顕した。幕府は六波羅探題に天皇の捕縛を命じた。天皇は近臣たちと京都を脱出して山城の笠置山に潜行し、畿内の武士たちをつのった。河内の悪党と考えられる楠木正成(1294〜1336)が赤坂城に挙兵したのはこのときである。しかし、そのほかに天皇の呼びかけに応じようとした者はなく、頼みの僧兵も動かなかった。天皇は捕らえられ、赤坂城は落城して正成は姿をくらました。幕府は天皇を隠岐島に流し、数名の近臣も流罪に処した。日野俊基と配流中の日野資朝は首をはねられた。これが元弘の変で、幕府は持明院統の光厳天皇(在位1331~33)を立てた。
天皇の配流をもって事件は鎮圧されたかにみえたが、北条氏に不平をもつ武士、とくに畿内の悪党の動きがここからにわかに活発になる。楠木正成は河内の千早城で再び挙兵し、幕府軍と戦った。当時の戦いの作法にといわれない正成の縦横無尽な戦い方は、史料に記された悪党の戦法そのままである。大和の山間部では護良親王が兵をあげ、悪党勢力の結集をはかった。播磨では親王の指令を受けて、悪党出身の赤松円心(1277~1350)が立ちあがった。彼らは幕府の大軍を相手に、いずれも粘り強く戦った。
畿内で戦いが続くうちに、地方でも反幕府の機運は高まっていった。肥後の菊池氏、伊予の土井・得能氏らの有力御家人も反旗をひるがえした。後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆の名和長年(?~ 1336)に迎えられ、船上山にこもった。天皇のもとには多くの武士がはせ参じた。
幕府は船上山を攻撃するために、足利尊氏(1305〜58)を京都に派遣した。足利氏は源氏の名門で、源頼朝一流亡きあとの源氏の正嫡と広く認められていた。代々得宗家と縁戚関係を結び、得宗家につぐ家格を誇っていた。鎌倉を出発した高氏はひそかに天皇と連絡を取りながら京都に進み、ここで幕府を討つ意志を明らかにした。同時に各地の有力御家人に使者を送り、討幕への協力を求めた。
足利尊氏の離反は、形成を凝視していた全国の武士たちに決定的な影響を与えた。彼らは先を争って討幕の軍に身を投じ、各地の幕府・北条氏の拠点を攻撃した。高氏は赤松円心らと六波羅を攻め落とした。関東では鎌倉を脱出した高氏の子千寿王(のちの足利義詮)のもとに、武士たちが続々と集結した。源氏一門の新田義貞(1301〜38)がこの大軍を指揮し、鎌倉に攻め入った。激戦の末に北条氏は敗れ、北条高時以下北条氏一族と主だった御内人はつぎつぎと自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。1333(元弘3)年5月、高氏の挙兵からわずか1ヶ月のちのことであった。後醍醐天皇は伯耆をあとにし、途中、光厳天皇の廃位を宣し、京都に帰った。ここに、後醍醐天皇を中心とする公家政権が誕生したのだった。
建武の新政
後醍醐天皇は、天皇政治の理想的時代といわれた醍醐天皇・村上天皇の治世を模範とし、新しい政治を行った。これが建武の新政であり、公家政権の復活という観点から、建武の中興ともいう。ちなみに後醍醐という諡号(天皇の死後に贈られる名)は、醍醐天皇にあやかって、天皇自ら定めたものといわれる。
天皇は形骸化していた官衙の復元をはかった。当時、中務省以下の太政官の八省は、ほとんど政治的活動を停止していたが、八省の卿(長官)として大臣級の上級貴族が任命され、天皇の指揮下に再編成された。知行国制度の盛行によって国司も実態を失っていたが、天皇は地方支配組織の要として国司を重視し、格の高い貴族や側近を積極的に国司に登用していった。
天皇権限の強化も進められた。後醍醐天皇は伯耆から京都に帰るや否や、土地の所有権の確認は綸旨(天皇の指令書)を唯一の根拠にすると取り決めた。綸旨は天皇の意志を最もよく示す文書であり、公家・武家の関心の焦点である土地の領有を認定する権限は、天皇によって掌握されたのである。天皇の地位を脅かす幕府・院政の存在は否定された。摂政・関白の職務は廃止され、国司制度の改革によって知行国は否定され、 上級貴族たちは経済的に大打撃をこうむった。彼らは天皇に忠節を尽くすことによってのみ、経済的権益を入手できるようになった。
新政府の中央機関としては、記録所・雑訴決断所・恩賞方などがおかれた。記録所は国政の重要事項の議決を任とした。雑訴決断所は所領問題処理のための機関で、鎌倉幕府の引付を踏襲し、公家ばかりでなく多くの武士が寄人(役人)として用いられた。討幕に功のあった人の恩賞を扱う恩賞方も同様で、公家・武家がならんで任務にあたった。地方支配のためには、先の国司のほかに、武家が任じる守護が併置された。
奥羽には義良親王(1328~68)が派遣され、北畠顕家(1318~38)が補佐をした。関東には成良親王(1326~44)が派遣され、足利直義(1306~52、高氏の弟)が補佐をした。これらは陸奥将軍府・鎌倉将軍府と呼ばれた。
天皇は「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり、朕が新儀は未来の先例たるべし」と意欲に満ちた新しい政治をめざした。けれども結果的には、新政はたった3年ほどであえなく崩れ去った。
原因の第一は、天皇権力の性急な強化に無理が生じたことである。土地の保障は綸旨によるという布告を聞いた人々は、大挙して京都にのぼり、綸旨の発給を求めた。なかには戦乱のどさくさにかこつけて、領地を不当に入手しようとする者もいた。後醍醐天皇個人がいかに有能であったにせよ、人間一人の能力にはおのずと限界がある。天皇の絶対性を標榜する新政の政務はたちまち停滞し、人々の信頼を失っていった。第二に、新政府に参加した人々の立場がまちまちで、協調して政務にあたれなかったことがあげられる。公家は貴族政治の復活を、武家は北条氏にかわる武家政治の出現を望む。伝統的勢力は復古的な政策を、悪党ら新興勢力は革新的な政策を望む。討幕事業は後醍醐天皇と密接に結びついた勢力のみでなく、得宗の専制に反対した人々が広く結集して実現した。彼らすべての要望を満足させることは不可能であり、新政府の瓦解は当然の結末だったかもしれない。このほか、大内裏造営の大事業に手をつけて全国に重税を課したこと、銅銭や紙幣などの新銭発行という場あたり的な経済政策をとったことなど、新政府の失政は数多くある。だが根本的にいうと、原因の第三として、鎌倉時代を通じて新しい歴史をうみだしてきた幕府の存在を否定したことがあげられよう。武家の実力が公家を凌駕していたこの時代に、天皇親政の理想をかかげた施政方針そのものが、時流に逆行するものだったのである。
鎌倉幕府の滅亡は、北条氏一族や御内人勢力の滅亡であり、武士全体の力はいささかも衰えていなかった。討幕は御家人や悪党の参加があって成就したのであり、御家人の代表が足利高氏、畿内の新興武士たちを統率したのが護良親王であった。足利高氏は御家人に挙兵を促した功績を高く評価され、天皇の諱尊治の一字を許されて尊氏と名乗った。護良親王は尊氏の声望を警戒し、強引に征夷大将軍に就任し、広範な武士の掌握に乗り出した。ところが、将軍位を核とした武士政権を否定する後醍醐天皇は、親王の行動にきわめて批判的であった。天皇の怒りをかった親王はほどなく失脚し、ついで鎌倉に流された。同地に赴任していた足利直義は親王を拘禁し、やがて殺害した。護良親王亡きあと、武士の代表としての尊氏の座は不動のものとなり、新政に失望した武士たちの期待はこぞって彼に寄せられた。
新政への不満は、地方武士の反乱として噴出した。その最大のものが北条時行(?〜1353)の中先代の乱であった。1335(建武2)年、北条高時の遺児時行は信濃で挙兵して武蔵に進出し、足利直義の軍を破って父祖の地の鎌倉を占拠した。尊氏は東下の許可と征夷大将軍への任命を天皇に求めたが、天皇は要請を却下した。尊氏は勅許を得ぬままに兵を率いて京都を出発し、各所で北条軍を破って鎌倉を奪回、ついに新政府に反する態度を明らかにした。
新政府は尊氏を討伐するために新田義貞を派遣した。新田氏は足利氏と出自を同じくする名門だが、鎌倉時代を通じて恵まれない状況にあった。後醍醐天皇は不遇の義貞に注目して新政府で重要な地位を与え、尊氏を牽制する役割を担わせていた。足利軍と新田軍は箱根の竹ノ下に戦い、敗れた義貞は京都へ敗走した。尊氏はこれを追いかけて西上し、京都に進入した。
1336(建武3)年、尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びた。九州は足利氏とは縁のない土地であったが、武士たちはつぎつぎに尊氏のもとにはせ参じた。勢いを盛り返した尊氏は、大軍を率いて東上し、摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧した。
尊氏は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光明天皇(在位1336〜48)を擁立した。ついで当面の政治方針を明らかにした建武式目を発表した。このとき、幕府をどこにおくかが論議され、新政府と絶縁して鎌倉に武家だけの政権をつくろうという足利直義の意見は多くの賛同者を得たが、結局は京都での幕府の樹立が決定された。1336(建武3)年11月7日、建武式目制定の日をもって、室町幕府は成立した。