徳川家継
徳川家継像(作者不明/長谷寺蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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徳川家継 とくがわいえつぐ( A.D.1709〜A.D.1716)

江戸幕府7代将軍(在任1713〜1716)。兄たちが早世したため、家宣の死後、満で3歳2カ月で将軍の地位に就き、側用人の間部詮房新井白石の「正徳の治」に支えられた。幼児将軍を権威づけるために、5歳の家継と2歳の皇女八十宮の婚約を発表、将軍の地位が格式と権威をもつよう、儀式・典礼を重視し、身分の上下が一目で明確になるよう服制も整備されたが、7歳で死去。

徳川家継

江戸幕府第7代征夷大将軍
(在位1713〜1716)
  • 1713(正徳3) 分地制限令を改定
  • 1714(正徳4) 絵島・生島事件。貨幣改鋳(正徳小判)
  • 1715 海舶互市新例
  • 1716(享保1) 家継死去。

主な幕僚:将軍侍講新井白石、側用人間部詮房

徳川氏系図 徳川将軍家
徳川氏系図 ©世界の歴史まっぷ

「正徳の治」に支えられた幼少将軍

江戸幕府7代将軍。兄たちが早世したため、家宣の死後5歳で将軍の地位に就いた。幕政の実権は側用人の間部詮房が握り、正徳金銀の発行など新井白石が提案した諸政策を推進した。一方、大奥は乱れ、生母月光院に仕える年寄の絵島事件等発生。8歳にて死去。

幕藩体制の展開

幕政の安定

正徳の政治

新井白石と正徳の政治

政策内容幕政の刷新生類憐み令の廃止
荻原重秀罷免
朝幕関係の融和閑院宮家の創設
儀礼の整備①儀式・服制・官位の整備
朝鮮通信使の待遇を簡素化
③国書に使用する「日本国大君」号を「日本国王」号に復す
経済政策①貨幣改鋳:正徳小判=良質の貨幣を発行
②海舶互市新例
・目的:金銀の海外流出を防止
・内容:貿易額を制限
結果儒教に基づく理想主義的政策が、現実と食い違いかえって政治を混乱させた
参考:山川 詳説日本史図録

将軍家宣は、1712(正徳2)年に病死した。治政3年9カ月の短命な将軍であった。跡を継いだ子の徳川家継(1709〜16)は、満で3歳2カ月の幼児であった。幕政における間部と白石への依存度は増した。白石らは、幼児将軍を権威づけるために、家継と皇女八十宮やそのみやの婚約を1715(正徳5)年に発表した。ときに将軍は満5歳、皇女は2歳であった。また、将軍個人の人格ではなく、将軍の地位が格式と権威をもつように、儀式・典礼を重視し、身分の上下が一目で明確になるように服制も整備された

新井白石は、幕府財政を握っていた荻原重秀を罷免させたあと、1714(正徳4)年、正徳小判を発行した。これは、慶長小判と同じ金の含有率、量で、元禄小判乾字金で混乱した貨幣流通を回復させようとした。貨幣改鋳とならんで白石の経済政策として長崎貿易の制限がある。オランダ・中国(明・清)との貿易で、1601(慶長6)年以降1708(宝永5)年までの100年余りで国内の産出金銀の金4分の1、銀4分の3が流出したと白石は概算し、海舶互市新例かいはくごししんれい(長崎新令·正徳新令)を1715(正徳5)年に出して、l年間に清船は30隻、銀高6000貰、オランダ船は2隻、銀高3000貰に貿易額を制限した。

幕藩体制の確立

幕藩体制の成立

村と百姓
分地制限令:1673(延宝元)年に、名主は20石、一般百姓は10石以上の田畑をもたないと分地ができないと定め、1713(正徳3) 年にいたってはすべて分地は分割高・残高ともに高10石・段別1町以上なければならないとした。
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