徳川家綱 平和と秩序の確立
徳川家綱像(伝狩野安信画/徳川記念財団蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

徳川家綱


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徳川家綱 とくがわいえつな( A.D.1641〜A.D.1680)

江戸幕府第4代征夷大将軍(在任1651〜1680)。家光の長男。慶安の変や、明暦の大火が起ったが、保科正之、酒井忠勝、松平信綱ら、前代からの重臣らの補佐により政情は安定。末期養子の禁止を緩和して牢人対策し、殉死の禁止など戦国遺風の廃止につとめ、文治政治をおこなった。

徳川家綱

江戸幕府第4代征夷大将軍
(在位1651〜1680)
  • 1651(慶安4) 由井(比)正雪の乱(慶安の変) 大名の末御養子の禁止を緩和
  • 1652(承応元) 承応事件(戸次庄左衛門らを老中殺害の企てにより捕縛)
  • 1657 明暦の大火(振袖火事)
  • 1658 江戸に定火消を設置
  • 1663 武家諸法度を発布=殉死の禁止
  • 1664 領知宛行状の発給
  • 1665(寛文5) 諸大名の人質(証人)の廃止 諸宗寺院法度・諸社禰宜神主法度制定
  • 1671 諸代官に宗門改帳の作成を命じる
  • 1673 分地制限令

主な幕僚:後見人保科正之・老中松平信綱・大老酒井忠清

徳川氏系図
徳川氏系図 ©世界の歴史まっぷ

政務に興味を失った「左様せい」様

江戸幕府4代将軍。就任当初は、慶安の変など幕府転覆計画が続くも、前代の遺老や遺訓を受けた将軍補佐らによって政情は安定。殉死の禁止や証人制の廃止など文治的政治への移行期の施策をすすめた。30年間の在職だったが、病弱のため政治の主導権は幕閣にあった。

幕藩体制の展開

幕政の安定

平和と秩序の確立

家綱政権

補佐役会津藩主・保科正之、大老・酒井忠清
課題由井(比)正雪の乱(慶安の変)を機に幕政の転換
①牢人対策:末期養子の禁止を緩和
②戦国遺風の廃止
・殉死の禁止、大名の人質(証人)の廃止
③諸法度の整備
・諸宗寺院法度、分地制限令
結果幕政の安定にともない、藩政の安定・領内経済の発展がはかられる
4代将軍家綱(在任:1651〜1680)

1651(慶安4)年4月に3代将軍家光が死去し、長子徳川家綱(1641〜80)が11歳で4代将軍職を継いだ。3代将軍家光までの支配のあり方は、内外の戦争に備えた軍事指揮権を発動して、全大名を武力でしたがわせる方式をとってきた。しかも将軍の命令や武家諸法度に反した大名には、断絶や改易・転封の処分を行う、武威による厳しい支配であった。

17世紀なかごろになると、東アジアの中心である中国において半世紀近い動乱を経たのち、清(王朝)(1616〜1912)が明(王朝)を滅亡させて新しい秩序が生まれた。その秩序は東アジア全体に平和をもたらした。また、日本国内では戦国期以来の長かった戦争も、先の島原の乱(1637〜38)を最後に3代将軍までの政治でほとんど解決をみた。

しかしその一方で、大名を処分したために生じた多数の牢人ろうにんの問題が社会不安を招くようになった。

浪人は、本来は浮浪人を意味した。主家をもたない武士身分である牢人は、牢の字を嫌って、江戸時代中期以降、浪人の字をあてるようになった。

1651(慶安4)年、家綱の将軍宣下が行われる少し前の7月23日に、兵学者由井(比)正雪(1605?〜51)の乱(慶安の変)と呼ばれる事件がおこった。正雪が槍の名人丸橋忠弥まるばしちゅうや(?〜1651?)らの牢人集団を率いて幕府転覆の陰謀を企てているとの密告がなされたのである。幕府はこの事件を天下謀叛として、自殺した由井正雪の首を安倍川河原にさらし、丸橋忠弥を処刑したほか、多数の牢人をはりつけや打首にした。

幼い4代将軍家綱を支える大老酒井忠勝(1587〜1662)·老中松平信綱や叔父である後見人の保科正之(1611〜72)らの幕閣は、事件後、牢人の発生を防ぐため、御家断絶の原因になっていた末期養子の禁止を緩和した。それは、今後は当主が死に臨んだとき(末期)、その当主が50歳未満の場合には末期養子を入れて家の存続をはかることを許可したものである。ただし、50歳以上の当主に跡継ぎがなかった場合には、依然、末期迷子は禁止され続けた。

殉死は将軍と大名の主従間でも、大名と家臣の主従間でも、家臣とその従者との間にもみられた。武士世界の一つの価値として、殉死を美風とみなす空気が、3代将軍家光の時代までは続いていた。これを4代将軍家綱は、殉死は無益のことと否定したのみならず、現に罰した。そして主人の死後は殉死することなく、跡継ぎの新しい主人に奉公することを義務づけたのである。主人個人に奉公するこれまでの考え方を改め、主人の忠誠を尽くすことが望まれた。この結果、主人の家は代々主人であり続け、家臣は代々主家に奉公し続けることを当然のこととした。こうして、従者の側が主人にとってかわる、戦国期から近世初頭にみられた下剋上の可能性は無くなった

1664(寛文4)年に、家綱はすべての大名にいっせいに領知宛行状りょうちあてがいじょうを発給した。これ以前の3人の将軍は、個々の大名と主従関係を確認しつつ、まちまちに発給していたが、家綱によって統ー的に、また同時に交付されたことは、将軍権力のより体制的な確立とみることができ、それは幕府の安定を示すものであった。

幕藩体制の成立

禁教と寺社

幕府は島原の乱後、キリスト教徒を根だやしにするため、とくに信者の多い九州北部などでイエス像·マリア像などを表面に彫った真鍮製の踏絵を踏ませる絵踏を行わせた。さらに禁教を推し進めるために、1640(寛永17)年には幕領に宗門改役しゅうもんあらためやくをおき、1664(寛文4)年には諸藩にも宗門改役が設置され、宗門改めが実施された。

幕府は、これらの禁止した宗教を人々に信仰させないようにするため、寺請制度を施行した。誰もが檀那寺だんなでらをもち、仏教は主たる宗教となったが、かといって仏教以外の宗教がキリスト教のようにすべて禁圧されたのかといえば、そうではない。神道・修験道・陰陽道なども、仏教に準じた宗教として幕藩権力によって容認されていた。仏教は家単位で信仰され、現代にいたる仏教行事(彼岸・盆など)が江戸時代から習俗となったのに対し、神社は村落単位で信仰され、五穀豊穣の祈念の神事や収穫祭(秋祭り)を地域の神社の神職が担った。病気や身心の悩み事があれば、修験者(山伏)の祈祷や薬草・丸薬に依存した。よい名前をつけようと姓名判断を陰陽師に依頼したり、家の普請に際しては方位による家相図の作成を陰陽師に頼んだ。そのほか猿回しに厩の祓いを、万歳に新春の言祝ぎを、盲僧に寵祓いをしてもらうなど、巡歴する宗教者にも依存した。

全国の仏教寺院の統制は本山や本寺に末寺を掌握させる(本末制度)をとった。幕府(家綱)は寺院法度を、1601(慶長6)年から宗派組織のまとまりをもっていた天台・真言・禅・浄土宗などの本山・本寺にあてて46通出し、各宗派ごとに本山・本寺の地位を保証し、合わせて宗派末寺の編成と教団組織化の権限を与えた。その後も日蓮宗・浄土真宗などそのほかの宗派にも及び、各宗派の本末組織がととのった1665(寛文5)年には、幕府は宗派の違いを超えた仏教寺院僧侶全体に共通の諸宗寺院法度を示した。また、教団の幕府への窓口として江戸に触頭ふれがしらを設けさせた。

神社については幕府(家綱)は同じく1665(寛文5)年に諸社禰宜神主法度しょしゃねぎかんぬしはっとを制定した。第l条で、諸社の禰宜・神主などはもっぱら神祇道じんぎどうを学び神体を崇拝し、神事祭礼を勤めることを命じた。両部神道(真言宗)・山王一実神道(天台宗)のような神仏習合したものではない、吉田神道のような唯一神道を学ぶことが命じられた。また第2·3条を通して全国の多数の神社が吉田家を本所とする組織を形成させた。しかし幕府は白川家による神社支配も容認し、両家による各地中小神社の支配は明治維新まで続いた。

修験道は、天台系(本山派)は聖護院門跡が、真言系(当山派)は醍醐寺三宝院門跡が本山として末端の修験者を支配した。また陰陽道は、公家の土御門家が全国の陰陽師を配下におく組織化を進めた。

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