徳川綱吉 元禄時代 服忌令
徳川綱吉像(土佐光起画/徳川美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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徳川綱吉 とくがわつなよし( A.D.1646〜A.D.1709)

江戸幕府第5代征夷大将軍(在位1680〜1709)。3代将軍家光の第4子。館林藩主より5代将軍に就任。学問の奨励や幕政の刷新をおこなった。治世前半は「天和の治」と讃えられるが、堀田正俊の死後は側用人を重用し、政治を乱す。とくに生母の信仰に影響され「生類憐れみの令」を発布。壮大な護国寺・護持院を建立したほか、多数の寺社の造営、明暦の大火、富士山が大噴火などで幕府財政の破綻を招いた。

徳川綱吉

江戸幕府第5代征夷大将軍
(在位1680〜1709)
  • 1683 武家諸法度(天和例)を発布
  • 1684(貞享元) 服忌令、貞享暦を採用
  • 1685 最初の生類憐れみの令
  • 1688 唐人屋敷を長崎郊外に建設(翌年完成)
  • 1687 大嘗祭の再興
  • 1689 北村季吟を歌学方に登用
  • 1690 湯島聖堂落成
  • 1691 林信篤(鳳岡)を大学頭に登用
  • 1695(元禄8) 勘定吟味役荻原重秀の上申により貨幣改鋳(元禄金銀)をおこなう
  • 1702 赤穂事件
  • 1705 禁裏御料1万石を献上(計3万石)

主な幕僚:大老堀田正俊 → 側用人柳沢吉保、勘定吟味役荻原重秀、大学頭林信篤(鳳岡)

徳川氏系図
徳川氏系図 ©世界の歴史まっぷ

毀誉褒貶、相半ばする犬公方

予期せぬ将軍就任 治世時代の功罪

徳川綱吉は、3代将軍家光の4男として生まれた。家光は自身が経験した幼年期の世継ぎ争いを避けるために、早くから長男の徳川家綱を次期将軍と定め、弟の綱吉らには儒教を説いて謀反の意思を削いだ。しかし、家綱が子供に恵まれなかったため、綱吉は図らずも将軍となる。将軍就任後の綱吉は、政治に邁進まいしんする。越後高田藩松平家の御家騒動では厳しい裁定を下して綱紀粛正こうきしゅくせいに努め、幕府財政の刷新のために勘定吟味役を設置。殉死の禁止を明文化し、儒教をはじめとした学問を奨励するなど文治政治を進めていく。綱吉治世の前半期は、「天和の治」と称されるほど充実していた。しかし、大老堀田正俊死後、綱吉の政治はくもっていく。堀田亡きあと、綱吉は側用人の柳沢吉保を重用するが、側用人が将軍と老中たちの間に立つ仲介役となったために、老中と側用人の立場は逆転、幕府の行政機構は大きく歪んだ。さらに、母。桂昌院の政治介入を容認。桂昌院が帰依した僧隆光まで重用した。そして「男子が生まれないのは前世に多くの殺生をしたためであり、殺生を禁じるべし」という隆光の言をれ、当時から天下の悪法と嘲罵ちょうばされた「生類憐みの令」を発令し、晩節を汚した。

松の廊下刃傷事件:「忠臣蔵」で有名な浅野の殿中刃傷事件は1701年、綱吉時代のこと。下向した勅使を迎える儀式を重んじていた綱吉は激昂し、浅野長矩

幕藩体制の展開

幕政の安定

元禄時代

綱吉政権

側近前期(1680〜1684):大老堀田正俊
後期(1688〜1709):柳沢吉保
政策①学問を奨励:湯島聖堂の建設など
②仏教の保護:護国寺・護持院建立など
③仏教への帰依:生類憐れみの令・服忌令
④財政政策:貨幣の改鋳(元禄金銀)
結果①貨幣経済がいっそう発展
②支出増で幕府財政が破綻
③貨幣価値の下落で物価騰貴
参考:山川 詳説日本史図録
国内外の平和と安定を背景に、17世紀後半には5代将軍綱吉(1646〜1709)政権が成立した。前代からの大老酒井忠清(1624〜81)を排して、館林藩主綱吉の将軍擁立に功のあった堀田正俊(1634〜84)を大老に据えた綱吉は、まず農政を重視した。幕府財政の基礎の一つである幕領の百姓と農村の健全な管理を代官に強く命じ、これにしたがわない在地に根ざした代官を大量に処分した。

1683(天和3)年に、綱吉の代がわりの武家諸法度が発布された。1615(元和元)年の将軍秀忠による最初の発布以来、代々の将軍は第l条で「文武弓馬の道、もっぱ相嗜あいたしなむべき事」と命じてきた。綱吉はこれを改めて、「文武忠孝ちゅうこうを励し、礼儀を正すべき事」とした。武士に最も要求されたのは、武道を意味する「弓馬の道」から「忠孝」や「礼儀」へとかわったのである。主君に対する忠、父祖に対する孝、そして礼儀による上下の秩序が、平和な時代の支配の論理になった。この支配思想は儒教に裏づけられたもので、綱吉が湯島聖堂ゆしませいどうを建て、林信篤はやしのぶあつ鳳岡ほうこう 1644〜1732)を大学頭だいがくのかみに任じたのも儒教重視を物語っている。

この時期の幕府は、将軍の権威を高め、かつ平和な秩序を維持するために、天皇·朝廷の権威を利用した。家康以来、天皇・朝廷を統制の枠のなかに閉じ込めてきたが、それを維持しつつ、その上である程度は朝廷の儀式などを復活させ、尊重するようにした。前代にみられた伊勢例幣使石清水八幡宮放生会の再興に続いて、1687(貞享4)年、221年ぶりに大嘗会だいじょうえが、さらに94(元禄7)年、192年ぶりに賀茂葵祭かものあおいまつりが再興された。天皇即位の時の重要儀式である大嘗会は、1466(文正元)年に後土御門天皇が挙行したあと、9代の天皇が行えなかった。応仁の乱・戦国時代と続いた戦乱期にあって、朝廷の儀式の多くは中止せざるを得なかったのである。大嘗会は霊元上皇(在位1663〜87)の強い働きかけと幕府の判断で、東山天皇(在位1687〜1709)即位時に復活した。

このほか幕府は山陵の修理や禁裏御料の増献を行った。また、武家伝奏などの朝廷の人事についても、幕府の意向でまず人選したそれまでの方式を改め、朝廷がまず人選して、これを幕府の内意を得て決定するようにした。

もはや平和と社会の秩序は、動かしがたいものとなった。しかし依然として、過去の激動の時代の価値観(戦国の遺風)は屈折して残っていた。死を恐れず、戦場で武功をあげて上昇をはかる途の絶えた旗本や牢人たちは、無頼ぶらいかぶき者として、新たな儀礼的秩序のなかで、容易に旧来の価値観を転換できなかった。そのため秩序に抗して乱暴を働き、満たされぬ思いを社会にぶつけて解消しようとした。その風は、町人にも及び、無頼の及ぼす影響は幕府の支配にとって容認できぬものであった。

かぶき者の取締りは4代家綱の代にも行われたが、5代綱吉の代になって、1683(天和3)年から強引な検挙が開始され、86(貞享3)年、かぶき者の集団(大小神祇組じんぎぐみ)200余名を逮捕した。検挙者のうちには与力・同心や御家人の子弟が含まれ、リーダー格の11人は打首にされた。このほか幕臣の処罰は300件に及び、素行不良者などが摘発された。綱吉政権は、力の弾圧でかぶき者を取り締まったうえに、戦国以来の武力に頼って上昇をはかろうとする価値観を、生類憐み令服忌令ぶっきれいの二つの法令を出すことで、社会全体の価値観ごと変化させた。

幕府は、1687(貞享4)年から22年間にわたって、犬に限らず、小さな虫にいたる生類の殺生せっしょうや虐待を禁じた種々の法令を出し続けた。それらの法令の総称が「生類憐み令」である。例えば、犬の喧嘩には水をかけて怪我をさせぬように引き分けること、と命じた。これを脇差わきざしを抜いて引き離し、そのあげくに犬を切ったということで、八丈島に流罪になった例などがある。また生類の対象は、これら動物だけではなく、捨て子、捨て病人の禁制や行倒れ人の保護など、人間の弱者にも向けられたことは注目される。殺生を禁じ、生あるものを放つ、仏教の放生ほうじょうの思想に基づく生類憐み令は、権力による慈愛の政治という一面をもっている。しかし、武士・農民・町人など大部分の人々にとって、行き過ぎた動物愛護の命令は迷惑なものであった。とくに江戸の四谷・大久保・中野につくられた犬小屋の犬の飼育料を負担させられた関東の農民や江戸町人の迷惑は大きかった。

生類憐み令と同時期に服忌令ぶっきれいも出された。服忌令とは喪に服す服喪と、けがれを忌む忌引きびきのことで、近親者が死んだときなどに穢れが生じたとして、服喪日数や穢れがなくなるまで自宅謹慎している忌引の日数を定めた。例えば、父母が死んだ場合には忌が50日、服が13カ月と規定された。1684(貞享元)年に発令されたあと、93(元禄6)年まで5回も追加補充された。養父母の場合は何日か、などと問い合わせがなされ、事細かに追加がなされたためであるが、綱吉政権の服忌令制度化に向けた強い意欲がうかがえる。

服忌令ぶっきれいは、武家はもちろん百姓や職人・町人にいたるまで知らされ、死や血を穢れたものとして排除する考え方を広く社会に浸透させていった。綱吉政権は生類憐み令服忌令の両者を同時に徹底させることで、戦国時代以来の人を殺すことが価値であり、主人の死後、追腹おいばらを切ることが美徳とされた武士の論理や、よその飼い犬を殺すなどの無頼行為のかぶき者の存在ともども、最終的に否定した。

この生類憐み令や服忌令の影響は、殺生や死を遠ざけ、忌み嫌う風潮をつくり出した。その結果、死んだ牛馬を片づける皮多かわた長吏ちょうりや、町や堀などの清掃に従事し、清めにたずさわる非人ひにんの仕事が、以前にも増して社会的に必要かつ重要な役割として位置づけられることになった。このように社会的に不可欠な役割を果たしながら、その仕事に穢れ感がつきまとうとの考え方も広まり、皮多・長吏や非人の人々を忌み遠ざけるという誤った差別意識も強化されてしまった。

綱吉は、儒教のほかに仏教・神道・陰陽道を支持して、寺社の造営も大いに行った。壮大な護国寺護持院を建立したほか、東大寺大仏殿の再建や法隆寺諸堂の修復、寛永寺本坊の再建を行った。伊勢神宮熱田社などの神社造営や湯島聖堂の建立も行った。これらの費用は、諸大名の手伝普請てつだいふしんや全国勧化かんげに依存するものもあったが、幕府の自普請も多く、1685(貞享2)年の日光山堂社修復に金1万4327両、翌年の熱田社には金9114両を江戸の金蔵から支出している。そのほか、幕府は1688(元禄元)〜96(元禄9)年の間に、延べ34寺社の普請に約22万9269両の支出を行っている。綱吉政権期の寺社造営、修復費は、およそ70万両との計符もある。

江戸幕府初期から続いた比較的豊かだった鉱山収入も、この時期に減少し、金銀の産出量低下はただちに幕府財政の収入減につながった。また明暦の大火後の江戸城や市街の再建費用と、引き続く元禄期の寺社造営費用は、大きな支出増となって幕府財政の破綻を招くことになった。

勘定吟味役かんじょうぎんみやく(のちに勘定奉行)荻原重秀おぎわらしげひで(1658〜1713)は、財政収入増の方策として、貨幣改鋳を上申し、側用人柳沢吉保(1658〜1714)を経て、これを綱吉は聞き入れた。そして、従来の慶長小判に含まれていた金の比率(84%)を減らして、57%の金含有率の元禄小判を鋳造し、発行したのである。小判の増量で、幕府は500万両の増収をあげたが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこし、人々の生活は圧迫された。

さらに1707(宝永4)年11月には、富士山が大噴火した。前日から地震が繰り返され、つに爆発した富士山からの降砂こうさは、遠く上総かずさ下総しもうさ安房あわにも及んだ。その手前の武蔵·相模・駿河国では、砂は深く降り積り、被害は甚大であった。

幕府は復興のために、全国に諸国高役金しょこくたかやくきんを掛けた。高100石につき金2両ずつの割合で、復興金を納めるように命じたのである。全国津々浦々から集められた国役金は、約49万両となった。このうち実際の復旧に金6万3000両が支出されたことは明記されているが、残りの40数万両はほかに流用された可能性がある。全国からの国役金徴収のように、強い
将軍権力と勘定奉行荻原重秀の不明朗が同居した、綱吉政権の最末期であった。

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