応天門の変
貴族政治と国風文化
摂関政治
藤原氏北家の発展
藤原氏は、鎌足やその子不比等が律令国家の建設に大きな役割を果たしたこともあって、他の氏族に比べて、早くから律令制的な官僚貴族としての道を歩んでいた。 他の氏族、例えば大伴氏などは、奈良時代になっても宮の守衛や軍隊の統率といった律令制以前からの氏としての職務に固執し、そのような職務に対する意識を強くもっていた。これに対して藤原氏は、鎌足や不比等などの功績や光明子の立后を背景に、国政運営の最高機関である太政官に数多くの公卿を送り込み、8世紀末には特に藤原宇合の子孫である式家が、藤原百川・藤原種継らを出して有力となった。 しかし9世紀初めの嵯峨天皇の時代になると、式家は平城太上天皇の変(薬子の変)を契機として衰える。また同じころ、蔵人頭や検非違使の創設などによって天皇の権力が強まると、律令制以前からの天皇に対する貴族の伝統的な奉仕関係が消滅し、これにかわって、天皇との個人的な結びつきが貴族の朝廷での地位を左右するようになった。 この時代、「天皇との個人的結びつき」を支える要素としては、①文人としての教養、②管理としての政務能力、③天皇の父方の身内、④天皇の母方の身内、などがあった。- ①は9世紀の漢文学隆盛の風潮のなかで、大学で紀伝道を納めた学生が、天皇に注目されて昇進をとげるというもので、9世紀後半、宇多天皇に重用された菅原道真がその代表である。
- ②は儒教的思想に裏打ちされた政治理念の持ち主や、実務的な官吏として優れた能力を発揮した者、国司・将軍として任地で功績をあげた者などが公卿の地位まで登りつめるというケースである。桓武天皇の時代では、征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂や徳政相論で藤原緒嗣と論争した菅野真道が著名で、仁明天皇に登用された伴善男もこのグループである。
- ③は嵯峨天皇がその皇子・皇女に源朝臣の姓を与えて(嵯峨源氏)以来、歴代の天皇がそれにならった「賜姓源氏」で、その出自の高さから多くの公卿を出すことになる。
- ④はいわゆる外戚である。9世紀前半には、藤原氏以外にも、桓武天皇の母を出した渡来系の和氏、嵯峨天皇の皇后で仁明天皇の母である橘嘉智子を出した橘氏などから、外戚であることによって高い地位につく貴族が現れた。
伴善男は当時、太政大臣良房に次ぐ地位を占めていた嵯峨源氏の左大臣源信の追い落としを画策していたといい、応天門炎上の責任を源信に負わせようとしたが、良房は善男の従者の自白をもとに善男の犯行と断定した。事件の経過は12世紀後半の『伴大納言絵巻』にも詳しく描かれているが、当時の上層貴族間には複雑な内部抗争があったことは推測できるものの、真相は不明である。
その後、摂政の地位は養子の藤原基経に受け継がれるが、基経は884(元慶8)年、光孝天皇から関白の職を行うよう命じられ、887(仁和3)年、宇多天皇の即位直後におきた阿衡の紛議によってその地位を確立する。
891(寛平3)年、基経が死去すると、宇多天皇は基経の長男藤原時平とともに、当時文人・学者として名高かった菅原道真を抜擢し、道真は続く醍醐天皇の時代に右大臣にまで昇った。しかし娘を宇多天皇の皇子の妃としたことが警戒され、901(延喜元)年、時平の陰謀によって大宰府に左遷され、その地で死去した。これは藤原氏による①のタイプの貴族の抑圧とすることができよう。
参考