拓跋珪
道武帝像(雲崗石窟第20窟)Wikipedia

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拓跋珪 (道武帝)( A.D.371〜A.D.409)

拓跋珪たくばつけいは、南北朝時代(中国)の北朝北魏初代皇帝。華北を統一していた前秦の崩壊という激動にあたって、諸部族に推戴されて386年代王の位に就き、都を盛楽せいらく(内モンゴル)に定め、国号をと改めた(北魏)。敵対する五胡諸部族を平定し、後燕国の混乱に乗じて黄河以北の華北平原を征服。首都を平城に移し398年皇帝の位に就いた。

拓跋珪

台頭する鮮卑族の王朝北魏をおこす

中国は西晋による短い統一期間を経て、五胡十六国時代、さらには南北朝時代という分裂時代を経験する。五胡とは、5つの北方・西方民族をさし、拓跋珪の属する拓跋部は五胡の一つでである鮮卑族のなかの1部族である。時に華北を統一していた前秦の崩壊という激動にあたって、拓跋珪は諸部族に推戴されて代王の位に就き、その年のうちに都を盛楽せいらく(内モンゴル)に定め、国号を魏と改めた。曹魏と区別するため、これを北魏、後魏、拓跋魏などと呼ぶ。

拓跋珪は敵対する五胡諸部族を平定したのち、後燕国の混乱に乗じて、公称40万の大軍でもって中原になだれ込み、瞬く間に黄河以北の華北平原を征服した。次いで首都を平城に移し、皇帝の位に就く。拓跋珪は漢人名族出身の人材を重用するとともに、拓跋部の部族解散を断行して大人たいじん(族長)の部族民に対する支配権を剥奪し、部族民を国家の直接支配下に置くなど、中央集権国家の樹立を目指した。また仏教の受け入れにも積極的だった。

拓跋珪の乱心:晩年、拓跋珪は寒食散という散薬の中毒症状のため精神に異常をきたし、みだりに臣下を殺した。政情不安がおきたことから、清河王(拓跋紹)はこれを鎮めるべく、やむなく父を殺した。
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子女

  • 明元帝(拓跋嗣) 北魏第2代皇帝
  • 清河王(拓跋紹)
  • 陽平王(拓跋煕)
  • 河南王(拓跋曜)
  • 河間王(拓跋脩)
  • 長楽王(拓跋処文)
  • 広平王(拓跋連)
  • 京兆王(拓跋黎)
  • 拓跋渾
  • 拓跋聡

世界遺産

「雲崗石窟」の曇曜五窟

拓跋珪
道武帝像(雲崗石窟第20窟)Wikipedia

雲崗石窟 – 世界の歴史まっぷ

中国山西省の「雲崗石窟うんこうせっくつ」には、1㎞の断崖だんがいに刻まれた252の石窟と5万1,000体あまりの仏像がある。これらは中国における初期仏教芸術の傑作とされ、敦煌の莫高窟ばっこうくつ龍門石窟とともに中国3大石窟のひとつに数えられている。452年に即位した北魏の文成帝は、皇帝と釈迦を同一視させることで皇帝の権威を高めようと試み「曇曜どんよう五窟」と呼ばれる5つの石窟に自身を含む5人の皇帝を模した大仏を建立した。しかし494年の洛陽遷都をきっかけに、石窟の存在は忘れ去られていった。1902年に日本人建築家の伊東忠太いとうちゅうたが石窟を発見し、再び脚光を浴びた。

同時代の人物

巨大古墳

紀元5世紀前後、畿内では巨大古墳が数多くつくられた。前方後円墳のほかに前方後方墳、円墳、方墳という形があり、この違いは被葬者の階級によるものと考えられている。

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