教皇領 17世紀なかばのヨーロッパ詳細版
17世紀なかばのヨーロッパ詳細版 ©世界の歴史まっぷ

教皇領 (A.D.752〜A.D.1870)

ローマ教皇あるいはローマ教皇庁が主権者として支配する国土。ペテロの遺産と呼ばれるローマ教会所有地を起源とし、754年フランク王国のピピン3世(小ピピン)がラベンナ総督府を寄進し、これらが基礎となった。13世紀末までに広大な領域としたが14世紀の教皇のアビニョン移住と諸侯の覇権争いは教皇領の統一性を著しく弱めた。1870年ローマがイタリア王国に併合されて、教皇領はバチカン界隈だけとなり、教皇とイタリア国家の対立が始ったが、1929年ファシズム政権と結んだラテラノ条約により教皇が主権を持つバチカン市国の成立が認められ、現在にいたる。

教皇領

ローマ教皇が主権者として支配する国土。ペテロの遺産と呼ばれるローマ教会所有地を起源とし、754年フランク王ピピン3世(小ピピン)がラベンナ総督府を寄進し、これらが基礎となった。11世紀に偽イシドール文書中のコンスタンチヌスの寄進状に基づいて領土の拡大をはかり、トスカナ南部、カンパーニャ、ウンブリアを獲得した。さらに13世紀末までにマルケ、ロマーニャ地方も支配下に入れて広大な領域とした。しかし14世紀の教皇のアビニョン移住と諸侯の覇権争いは教皇領の統一性を著しく弱めることになった。16世紀以来教皇のもとで中央集権化の試みが徐々に進行したが、18世紀末フランス軍の占領を背景に一時チザルピーナ共和国とローマ共和国に編成された。ウィーン会議によって教皇領が再建されたあと、1831年にロマーニャ地方で革命が起り、さらに1849年に再びローマ共和国が成立したが短命に終った。しかしイタリア統一運動が進むなかで、1860年ロマーニャ、マルケ、ウンブリアが住民投票でサルジニア王国への合併を決め、教皇領の大部分はイタリア王国に吸収された。1870年ローマもイタリア王国に併合されて、教皇領はバチカン界隈だけとなり、教皇とイタリア国家の対立が始ったが、1929年ファシズム政権と結んだラテラノ条約により教皇が主権を持つバチカン市国の成立が認められて、現在にいたっている。

参考 ブリタニカ国際大百科事典 小項目版 プラス世界各国要覧 2017

世界史対照略年表(1300〜1800)
世界史対照略年表(1300〜1800) ©世界の歴史まっぷ

ヨーロッパ世界の形成と発展

西ヨーロッパ中世世界の変容
ヨーロッパ世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

西ヨーロッパ世界の成立

ローマ・カトリック教会の成長

帝政末期のローマではキリスト教が公認され(313年)、国教化されることになる(392年)が、そのころ正統アタナシウス派の教義に従うカトリック教会には、5つの有力教会(五本山)があった。

  1. ローマ
  2. コンスタンティノープル
  3. アンティオキア
  4. エルサレム
  5. アレクサンドリア

このうちローマ教会は帝国の首都に位置することと、使徒ペテロ起源説を根拠に、早くから他の教会に対して首位性を主張した。ローマ司教はペテロの後継者を自認し、教皇(法王)と尊称された。
しかし、330年にコンスタンティノープルへの遷都が行われ、476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノープル総主教は東ローマ帝国皇帝の権威を後ろ盾にローマ教会の首位性を否定するようになった。

ベネディクト派

こうして両教会の首位世をめぐる対立が激化する中で、グレゴリウス1世(ローマ教皇)は北からのランゴバルド人の圧力に対抗しつつ、東ローマ帝国皇帝の支配から離脱しようと試みた。そのため、カトリックのフランク人に接近するとともに、他のゲルマン諸部族への布教に努力し、西ゴート人やアングロ・サクソン人の改宗に成功した。
その布教活動の中心となったのは、教皇の保護をうけたベネディクト派の修道士であった。このベネディクト派は6世紀前半、中部イタリアのモンテ・カッシーノ修道院を創設し、「祈り、そして働け」に要約される戒律を定めて、修道院運動の推進と民衆の教化に努めたヌルシアのベネディクトゥス(480〜543)に由来する。ベネディクト派修道院は、アイルランド修道院とならんで西欧キリスト教世界の形勢に大きな役割を果たした。

聖像崇拝論争

東西両教会の対立を深めたもうひとつの要因に、聖像崇拝論争がある。元来キリスト教は偶像崇拝を禁止していたが、異教徒への布教の必要から、ローマ教会は聖像(キリストや聖者の画像・彫像)の使用を容認した。しかし、東ローマ帝国では小アジア地方を中心に聖像禁止派の勢力が強く、また皇帝専制の障害となる修道院勢力が聖像崇拝派であったことなどから、726年、東ローマ帝国イサウリア朝初代皇帝レオン3世(717〜741)は聖像禁止令を発布した。
その結果、ローマ教会は東ローマ帝国にかわる政治勢力を新たに求めるようになった。

ピピンの寄進

そこに登場したのがフランク王国の宮宰カール・マルテルである。カール・マルテルはイスラーム軍を撃退し、フランク王国の実質的な支配者となっていたが、メロヴィング王家にとってかわるためになんらかの権威が必要であった。また、ランゴバルド王国の南下に苦しむローマ教皇も、有力な保護者を待ち望んでいた。そこで751年、ピピン3世(小ピピン)がクーデターにより即位すると、教皇はこれを祝福した。小ピピンもこれに応えてイタリア遠征をおこない(754、756)、ランゴバルド人を討って領土を奪い、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇に献じた。このいわゆる「ピピンの寄進」により、教皇領が成立することになった。

ローマ・カトリック教会の成長 – 世界の歴史まっぷ

カール大帝(シャルルマーニュ)

小ピピンの死後(768年)、その子カールとカールマンの兄弟が王国を2分しておさめたが、771年のカールマンの死とともにカール大帝(位768〜814)が全フランク王国を統一支配することになった。カール大帝は積極的な対外遠征を行い、領土の拡大をはかった。まず南方のイタリアでは、ランゴバルド人が再び勢力を強め教皇を圧迫していたためこれを討ち、ランゴバルド王国を滅ぼした(774)。そして、イタリアの北半を併合するとともに、中部イタリアを教皇領として確認した。また北方では772年以降サクソン人(ザクセン人)に対して遠征を繰り返し、804年に征服した。東方ではドナウ川上流で土豪化したバイエルン公国を攻め、788年これを併合するとともに、さらに791年以降ドナウ川中流のスラヴ人やアジア系アヴァール人とも戦い、その地を併合していった。

カール大帝の西ローマ帝国地図
カール大帝の西ローマ帝国地図 ©世界の歴史まっぷ
東フランク

961年、オットーはヨハネス12世(ローマ教皇)の救助要請に応えて2度目のイタリア遠征を行ない、翌962年教皇よりローマ皇帝の帝冠を受けた。ここに、いわゆる神聖ローマ帝国が誕生した(オットー1世(神聖ローマ皇帝))。ザクセン朝はその後3代続き、11世紀前半に再びフランケン朝(ザリエル朝)に取って代わられるが、その基本政策に大きな変化は見られなかった。

神聖ローマ帝国

オットー1世(神聖ローマ皇帝)の戴冠以降、19世紀初頭までのドイツ国家の名称を指す。だが、オットー1世自身は「尊厳なる皇帝」とのみ称し、その後12世紀半ばに「神聖帝国」の名称が、また13世紀後半になって「神聖ローマ帝国」の名称が正式に登場した。そして、15世紀半ば以降は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という呼称が一般化した。つまり、神聖ローマ帝国とは、聖なるローマ教会の世界に対応した、皇帝の超国家的支配の理念的表現であった。

現実的にはドイツで王となったものがローマ教皇の戴冠を受け、皇帝としてドイツおよびイタリアに君臨する仕組みをさした。そのため、ドイツ国王は常にイタリア政策を余儀なくされ、ドイツ国内の統治に専念することができなかった。だが、イタリア政策の結果もブルグンド、北イタリアないしはシチリアを一時的に支配するにとどまり、むしろドイツ国内の分権的傾向(領邦国家化)を一層推し進めることになった。

教会の権威

封建社会の成立過程をつうじて、修道士たちによる民衆への教化が進み、ローマ・カトリック教会は、次第にその精神権威を高めていった。同時に、国王や諸侯から土地の寄進を受け、政治的にも世俗諸侯と並ぶ勢力、すなわち聖界諸侯として各地に君臨した。その結果、聖職者の身分的組織も拡大・整備され、ローマ教皇を頂点に、大司教・司教・司祭・修道院長などの聖職階層制(ヒエラルヒー)が成立するとともに、信仰や習慣、教会の規律などに関する問題については、聖職者からなる公会議での決定が最高の権威となった。

こうして、理念的には教皇が聖職者の叙任や罷免の権利をもったが、現実には当時の教会の多くが世俗権力に支配されていた。その最大の理由は、私有教会制(アイゲンキルヘ)にあった。領主はその領内に教会や修道院を立てると、みずから司祭や修道士を任命して支配下に置き、経済的利益を手に入れた。それは領主の特別財産であり、当然のこととみなされていた。また、神聖ローマ帝国内の司教座教会や大修道院は、帝国教会として皇帝・国王の直接支配を受けた。諸侯勢力の強いドイツにあって、王権を維持・強化するために帝国教会政策は不可欠であった。だが、俗権の介入は教会の世俗化をもたらした。

封建社会の構造
封建社会の構造 ©世界の歴史まっぷ
クリュニー修道院
クリュニー修道院 Source:Flickr

10〜11世紀になると、教会の腐敗と世俗化に対し、内部から批判し改革しようとする動きが起こった。その中心を担ったのが、910年にフランス東南部ブルゴーニュ地方に建てられたクリュニー修道院である。「ベネディクトゥスの戒律(祈り、働け)」の厳格な励行など、初期修道院精神に立ちかえることをめざし、聖職売買や聖職者の妻帯を厳しく批判した。また、私闘の濫用を戒める「神の平和 Pax Dei」運動も推進した。

私闘 (Fehde) とは実力による紛争解決のことで、ゲルマン社会では合法的とされた。教会は治安維持のためにこれを禁止しようとしたが、あまり効果はなかった。
聖職売買(シモニア)

一般に、司教職や修道院長職などの聖職を財産として取引したり、相続の対象とすることを意味する。シモニアの語は、聖書の「使徒行伝」の第8章の故事に由来する。すなわち、魔術師シモンが使徒ペテロに対し、精霊を受ける力を与えてくれるようお金を出して、激しく叱責されたという語である。だが、クリュニー修道院や教皇グレゴリウス改革がおこなわれるまで、聖職者の妻帯や聖職売買は慣行として日常的におこなわれていた。

クリューニーの改革運動(修道院改革)は、同派の支修道院をつうじて急速にヨーロッパ各地へと波及した。その中でレオ9世(ローマ教皇)は改革派の人物を集めて枢機卿とし、積極的な教皇庁改革(グレゴリウス改革)に乗り出した。その結果、1059年枢機卿会議による教皇選出規定が決定され、教皇選挙への皇帝権の介入は排除された。さらにグレゴリウス7世(ローマ教皇)は1075年の「教皇教書」により、教皇権の至上性と俗権に対する優越を宣言したが、それは教会政策を帝国統治の基本にするドイツ王(ザーリアー朝)ハインリヒ4世(神聖ローマ皇帝)との決定的な対立を引き起こすことになった。いわゆるカノッサ事件(1077)である。

カノッサ事件の顛末

グレゴリウス7世(ローマ教皇)は、書簡を送って国王ハインリヒ4世の司教叙任を叱責し悔い改めを迫った。しかし、国王は逆に1076年1月ヴォルムスに聖俗諸侯を集め、司教の同意のもとに教皇の廃位を決議した。そこで、教皇は翌2月ハインリヒの廃位と破門を宣言すると、ドイツの司教たちは動揺し、世俗諸侯は再び国王に反旗をひるがえした。諸侯たちは集会を開き、波紋から1年後の1077年2月までに国王が波紋を解かれないかぎり、ハインリヒの王位を廃することを決定した。1076年の暮れ、孤立した国王は教皇に謝罪することを決意し、ローマに向かった。そして翌77年1月末、トスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒはカノッサ城に滞在する教皇に許しを請い、雪の城門で3日間素足のまま祈りと断食を続け、やっと破門を解かれた。これが、いわゆる「カノッサの屈辱」として知られる事件である。

カノッサ事件は、教皇権の優越を示すものではあったが、ドイツに限れば国王は再び勢力を回復し、反対派の諸侯を抑えることになった。教皇は再び国王を破門したが効果はなく、その死後も教皇と皇帝・国王の対立は続いた。
この聖職叙任権をめぐる教皇と皇帝間の対立(叙任権闘争)を集結させたのが、カリストゥス2世(ローマ教皇)とドイツ王ハインリヒ5世(神聖ローマ皇帝)の間のヴォルムス協約(1122)である。これにより以下の通り決定された。

  1. 司教や修道院長は教会法によって選出されること
  2. 霊的権威(指輪と杖が象徴)の授与は教皇が、教会領などの世俗的権威(笏が象徴)の授与は皇帝が行うこと
  3. イタリアとブルグンドでは、教皇の叙階が皇帝に先立ち、ドイツでは皇帝の笏の授与が教皇に先立つこと

つまり、皇帝はドイツの教会に対する実質的影響力は失わなかったのである。

こうして、12世紀前半に両者の対立は一応の妥協を見たが、その間、ウルバヌス2世(ローマ教皇)はグレゴリウス改革を継承するとともに、十字軍を宣言して教皇権の強化に努めた。その後の教皇インノケンティウス3世(ローマ教皇)は、ドイツの国王選任問題に介入してオットー4世(神聖ローマ皇帝)を破門、さらにカンタベリ大司教選任問題でジョン(イングランド王)を破門し屈服させるなど勢威を高めた。

こうして11世紀末から13世紀初めにかけて、教皇権は絶頂に達した。

「造物主は教会の天下に2個の主をおいた。その一つは教皇権であって太陽の如くであり、他のひとつは皇帝権であって月の如きものである。教皇権が皇帝権の上位にあることは、あたかも太陽が月に対する如くである」1215年ラテラン公会議でのイノケンティウス3世の演説

東ヨーロッパ世界の成立

後期ビザンツ帝国

11世紀の末、宮廷の内紛を鎮めて帝位についたコムネノス朝のアレクシオス1世コムネノスは、貴族勢力に対し軍事奉仕を条件に公有地の管理を任せるプロイノア制を導入、これにより帝国の封建化は進んだが、貴族連合体制のもとで国内は安定することになった。
対外的には、ヴェネツィアと提携してアドリア海からノルマンを撃退、さらにセルジューク朝の圧力に対抗するためローマ教皇に十字軍(第1回十字軍 1096年〜1099年)を要請し、トルコ人に奪われた土地の回復を目指した。
この相対的安定も、12世紀末から再び崩れた。貴族層は帝国からの自立を強め、セルビア・ブルガリアも独立、1204年にはヴェネツィアと第4回十字軍によりコンスタンティノープルが占領され、ラテン帝国の出現をみた。

東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1095年ビザンツ帝国コムネノス朝 Source: Wikipedia
東ローマ帝国 東ヨーロッパ世界の成立
1180年ビザンツ帝国コムネノス朝 Source: Wikipedia

西ヨーロッパ中世世界の変容

十字軍の背景

東ローマ帝国では、11世紀半ばにマケドニア朝にかわったコムネノス朝のもとで、従来の屯田兵制とテマ制が廃止 東ローマ帝国 初期ビザンツ帝国 – 世界の歴史まっぷ)され、ノルマン人などの外国人傭兵に国土防衛を依頼するようになった。
折しも、セルジューク朝が小アジアに進出し、ルーム・セルジューク朝(1077〜1307)を樹立すると、東ローマ帝国は危機に瀕することになった。
そこで、東ローマ帝国コムネノス朝初代皇帝アレクシオス1世コムネノスは、1095年、ローマ教皇をとおして西ヨーロッパの君主や諸侯に救援を要請した( 東ローマ帝国 後期ビザンツ帝国 )。それは、叙任権闘争の渦中にある教皇にとって、皇帝権に対する教皇権の優位を確立し、さらに1054年以降分離した東方正教会を教皇の手で再び吸収・統合するための絶好の機会であった。ここにウルバヌス2世(ローマ教皇)(1088〜1099)は、中部フランスのクレルモンに宗教会議を招集、聖地回復の十字軍を宣言したのである(1095 クレルモン教会会議)。

クレルモン教会会議とウルバヌス2世の演説

クレルモン教会会議(1095年11月17日〜27日)には聖職者、諸侯、騎士などが参加した他、多くの民衆が傍聴に詰めかけた。
教皇は教会改革の初決議を経て、会議終了直前の11月27日、次のように聖地回復を呼びかけた。
「東方で、わたしたちと同じようにキリストを信ずる人々が苦しんでいる。かれらはわたしたちに救いを求めている。なぜであるか。それは異教徒が聖地を占領し、キリスト教徒を迫害しているからである。……神はその解放をみずからの業として遂行なさる。この神のみ業に加わる者は神に嘉せられ、罪を赦され、つぐないを免ぜられる。キリスト教徒同士の不正な戦いをやめて、神のための正義の戦いにつけ。この呼びかけに応じた者には、現世と来世を問わず、すばらしい報酬が約束されている。ためらうことはない。現世のどんな絆も、あなた方をつなぎとめることはできない。なんとなれば、この企ては神自身が指導者であるから。」と。感動した聴衆は立ち上がり、口々に「神はそれを欲したまう」と叫んだと言われる。

参考 十字軍 (教育社歴史新書―西洋史)

初期の十字軍
第1回十字軍
ウルバヌス2世(ローマ教皇)は各地に勧説使かんぜいしを送り、遠征に加わるものには「贖宥しょくゆう」(罪の赦しにともなうつぐないの免除)の特権を与えることを口説いて、十字軍をつのった。
当時、ドイツ、フランス、イギリス3国の国王はいずれも破門中の身であったため( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)、フランス、イタリアなどの諸侯、騎士を中心に4軍団が編成され、1096年8月第1回十字軍が出発した。兵士たちに守られた巡礼者も含めると、その数は10万に達したという。いったんコンスタンティノープルに集結したのち、小アジアを横断してセルジューク朝軍と戦い、アンティオキア公国、エデッサ伯国を建国した。そしてシリア沿岸を南下、1099年7月、ファーティマ朝総督治下の聖地エルサレムを占領、ユダヤ教徒やイスラーム教徒の大量虐殺を行いエルサレム王国(1099〜1291)を建国した。また1102年にはトリポリ伯国も成立した。
エルサレム王国:有力な指導者のひとりゴドフロワ・ド・ブイヨン(1060〜1100)が初代の王(正式には「聖墳墓守護者」の称号)になった。

だが、シリア、パレスチナ一帯に領土を獲得した一部の諸侯、騎士や、そこでの土地配分にあずかった少数の市民、農民を除き、遠征に加わった大多数のものは帰途につき、十字軍国家は生産者人口と軍事力の不足に悩まされる事になった。また、聖地に常駐し、巡礼の保護と貧者、病人、死者の世話をする騎士修道会(宗教騎士団)として、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団が設立された。

騎士の城(クラック・デ・シュヴァリエ
クラック・デ・シュヴァリエ
クラック・デ・シュヴァリエ [世界遺産] Wikipedia

ヨハネ騎士団が1142年シリアに建設した城で、1271年マルムーク朝のスルタン・バイバルスによって占領された。塔をともなう二重の城壁によって強化され、広い堀で区切られている。

第1回〜第3回十字軍地図
第1回〜第3回十字軍地図 ©世界の歴史まっぷ
12世紀十字軍国家地図
12世紀十字軍国家地図 ©世界の歴史まっぷ
第2回十字軍

日ならずして、イスラーム側の反撃が開始された。まず、1146年エデッサ伯領が、つづいてアンティオキア候領の東半分が奪還された。ルイ7世(フランス王)とホーエンシュタウフェン朝初代コンラート3世(神聖ローマ皇帝)は、第2回十字軍(1147〜1149)を組織して内陸シリアの拠点ダマスクスを攻撃したが、あえなく失敗した。

初期の十字軍の成功は、イスラーム側の内紛に助けられたものであったが、このころイスラーム世界にサラディン(サラーフッディーン 1138〜1193)が登場すると、形勢は大きく逆転することになった。サラディンはアイユーブ朝(1169〜1250)を立てると、ファーティマ朝を滅ぼしてエジプトにスンナ派信仰を回復し、シリアをもあわせて反十字軍の統一勢力を結集した。その結果、エルサルム王国はサラディンにより1世紀たらずで奪回された。(1187)

第3回十字軍

これに対し、フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)フィリップ2世(フランス王)リチャード1世(イングランド王)の三大国の君主からなる第3回十字軍(1189〜1192)が結成された。
だが、大軍を率いたフリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝)は途中小アジアで不慮の事故死を遂げ、フィリップ2世(フランス王)はリチャード1世(イングランド王)と対立し、アッコンを奪還後帰国した。
リチャード1世(イングランド王)だけがその後もサラディンとわたりあったが、結局エルサレムを奪回することはできなかった。なお、この第3回十字軍に際して、ドイツ騎士団が成立している。

宗教騎士団(騎士修道会

十字軍に際し、騎士以上の階層から募集され、教皇の許可を得て設立された修道会。
騎士と修道士の双方の性格を兼ねそなえ、主としてキリスト教徒巡礼者の保護、傷病者の看護、聖地の警備などにあたった。教皇に直属したが、国王や諸侯からも保護され、各種の特権や領地の寄進を得て大きな勢力となった。最盛期にはその数は100を越し、数万人の会員を数えたといわれる。なかでもパレスチナに建設された聖ヨハネ騎士団(1113)、テンプル騎士団(1119)、ドイツ騎士団(1198)は三大宗教騎士団として有名である。

聖地陥落後、聖ヨハネ騎士団はキプロス島からロードス島に、テンプル騎士団はキプロス島からフランスにそれぞれ本拠を移し、商業・金融活動などで活躍したがしだいに本来の目的を失った。またドイツ騎士団は聖地ではあまり活動せず、むしろキリスト教の伝道と農業開発を目的にプロイセンに入植(1230〜1283)、ドイツ本土からの多数の農民や市民の移住を受け入れて発展した。しかし、15世紀初頭ポーランド・リトアニア連合軍に敗れ衰退した。

後期の十字軍
第4回十字軍(1202〜1204)
13世紀初頭の第4回十字軍(1202〜1204)は、教皇権の絶頂期にあったインノケンティウス3世(ローマ教皇)により提唱された。だがヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロの進言により、十字軍は聖地に向かわず、コンスタンティノープルを占領、略奪し、ラテン帝国(1204〜1261)を樹立するという結果を招いた( 後期ビザンツ帝国 – 世界の歴史まっぷ)。フランドル伯がボードゥアン1世(ラテン皇帝)となり、帝国領は封土として諸侯や騎士に授与された。ヴェネツィアもコンスタンティノープルの一部の他、多数の島々や沿岸地方を手に入れた。この十字軍の脱線の背景には、諸侯や騎士の領土欲のほかに、地中海商業をめぐる東ローマ帝国とヴェネツィアの対立があった。
十字軍の遠征路とラテン帝国地図
十字軍の遠征路とラテン帝国地図 ©世界の歴史まっぷ

少年十字軍

その後、1212年にはフランスとドイツで、神の啓示を受けたとする少年エティエンヌとニコラスの呼びかけに応じ、数千から数万の庶民の子供が熱狂的に聖地を目指した。いわゆる少年十字軍である。準備や資金を欠き、途中で倒れたり、非道な商人により奴隷に売られるなど悲惨な結果となった。

第5回十字軍(1228〜1229)

つづく第5回十字軍(1219〜1221/1228〜1229)は、アッコンからイスラーム側の軍事的、経済的拠点のエジプトに向かったが、カイロに達する前に敗北した。
その後、親イスラーム的なフリードリヒ2世(神聖ローマ皇帝)とアイユーブ朝との外交折衝(1228〜1229)により、一時エルサレムは返還されたものの、1244年フワーリズム(ホラズム)系トルコ人により再び奪われた。

第4回〜第7回十字軍地図
第4回〜第7回十字軍地図 ©世界の歴史まっぷ
第6回十字軍(1248〜1254)

これに大きな衝撃を受けたのが、ルイ9世(フランス王)である。信仰に厚く、死後聖者に列せられたルイ9世は、単独で第6回十字軍を組織すると、エジプトを攻めた。
また、このころ急速に台頭したモンゴル人との提携を企て、フランチェスコ派の修道士ルブルックをカラコルムに派遣した。しかし、アイユーブ朝にかわったマムルーク朝(1250〜1517)により撃退された。

第7回十字軍(1270)

その後ルイ9世(フランス王)は第7回十字軍を組織し、北アフリカのチュニスを攻撃したが、その地で病没し失敗に終わった。

ルイ9世(フランス王)のチュニス攻撃の背景には、シチリアを拠点に地中海帝国の再現を夢見る弟シャルル(シャルル・ダンジュー、カルロ1世(シチリア王))の進言があった。

一方、パレスチナの十字軍国家では、モンゴル人を恐れてマムルーク朝との提携を望んでいたが、モンゴル軍を撃退したマムルーク朝により、アンティオキア候領(1268)、トリポリ伯国(1289)、アッコン(1291)と相次いで滅ぼされ、聖地回復の夢は完全についえさった。

十字軍の影響

200年にもおよぶ十字軍をつうじて、ビザンツ帝国の衰退が加速された。ローマ教皇も、十字軍を唱導することで当初威信を高めたが、後期十字軍以降しだいに指導力の限界を感じさせ、威信は揺らいだ。
また、東方の領土や富の獲得をめざした諸侯、騎士は全般的に勢力を失い、その遺領を没収した国王が相対的に力を強めていった。
そうした中にあって、十字軍から最大の利益を引き出したのは、北イタリア諸都市であった。兵士と物資の輸送にあたるだけでなく、ライバルのビザンツ商人にかわって東地中海に商圏を拡大し、東方貿易から莫大な富を得ることになった。

教会勢力の衰微
異端運動

中世後期のヨーロッパでは、ローマ教会の堕落に対する批判が各種の異端運動となって現れた。

ワルド派

12世紀後半、フランスのリヨンの商人ワルド(1140〜1217)は、資材を貧民に施して人々に清貧と悔い改めを説き、聖書に基づく信仰を主張して教会制度を批判した。この教えを信ずる人たちはワルド派と呼ばれ、南フランスや北イタリアに広まったが、教会側の激しい弾圧を受けた。

アルビジョワ派

また、マニ教の影響下に東方でおこったカタリ派は、純潔の保持と断食などの戒律厳守を説いてバルカン半島に定着し、やがて12〜13世紀の西ヨーロッパ各地に広まった。特に南フランスのトゥールーズ・アルビ両地方では、地方貴族の支持をえてさかんとなり、アルビジョワ派とも称された。異端撲滅を掲げたインノケンティウス3世(ローマ教皇)は、アルビジョワ十字軍(1209〜1229)を提唱、王権の伸張を目指すフランス国王もそれに同調して攻撃したため、衰退した。

1215年、イノケンティウス3世は第4回ラテラン公会議を招集し、第4回十字軍の提唱、司教による異端裁判の制度化などを決定した。これにより、異端審問の非公開や密告制、拷問が現実のものとなった。

教皇のバビロン捕囚

13世紀末にでたボニファテゥウス8世(ローマ教皇)(位1294〜1303)は、国家に対する教会の優位と教皇権の絶対性を主張したが、王権の伸張という現実により打ち砕かれた(アナーニ事件 1303)。

ボニファティウス8世とアナーニ事件

ボニファティウス8世(ローマ教皇)は、1300年キリスト教世界に聖年の布告を発し、ローマのサン・ピエトロ教会に詣でるものに全贖宥しょくゆう(罪の許し)を与えることを宣言。さらに1302年には教書「ウナム・サンクタム(唯一の聖なる)」で教皇権の絶対性を主張し、教皇権の健在ぶりを誇示した。また、フランス国内の教会領への課税をめぐって、フィリップ4世(フランス国王)と対立した。だが、今やカノッサ事件の時とは、時代も状況も異なっていた。いち早く三部会を開いて(1302)その支持を取り付けたフィリップにより、1303年教皇はローマ南方のアナーニで捕らえられ、一時監禁されてしまった。いわゆるアナーニ事件である。教皇は即座に関係者を破門したが効果なく、屈辱のうちにまもなく没した。その後、フィリップは新しい教皇に圧力を加えて、1302年の教書の撤回とアナーニ事件関係者の赦免を認めさせた。

その後ボルドー出身のクレメンス5世(ローマ教皇)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後7代約70年にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれることになった。これを、古代のユダヤ人の苦難になぞらえて、「教皇のバビロン捕囚」(1309〜1377)という。
1378年、教皇庁はグレゴリウス11世(ローマ教皇)によりローマに戻されたが、彼の死後、新教皇にイタリア人のウルバヌス6世(ローマ教皇)が選出されると、フランス人の枢機卿は対立教皇クレメンス7世(対立教皇)をたて、アヴィニョンに再び教皇庁を設置した。フランス・イベリア諸国・ナポリ・スコットランドなどはアヴィニョン派を支持し、イタリア諸国・ドイツ諸侯・イングランドなどはローマ派を支持したため、ここに教会大分裂大シスマ 1378〜1417)は決定的となり、教皇の権威は失墜した。

アヴィニョン教皇庁の場所

[display_map marker1=”43.9508521 | 4.807697100000041 | アヴィニョン教皇庁” zoom=”18″ height=”400″ map_type=”HYBRID”]

宗教改革

教会の世俗化や腐敗はますます進み、各地で教会の改革を求める運動が起こってきた。14世紀後半、オクスフォード大学の神学教授ジョン・ウィクリフ(1320頃〜1384)は、教皇権を否定するとともに、教会が世俗的な富を追求することを厳しく攻撃し、教会財産の国庫への没収を是認した。そして、イングランドの教会及び国王の教皇からの独立を主張した。また教義面では聖書主義を唱え、聖書の英語訳とその普及に努めた。彼の教えは異端とされたが、ランカスター公の保護下に生き延び、国内ではロラード派と呼ばれる人々に信奉され、国外ではベーメンのフスの運動に大きな影響を与えた。

フス派

ウィクリフの説に共鳴したヤン・フス(1370頃〜1415)は、プラハ大学の神学教授として教会の土地所有や世俗化を厳しく非難、聖書のチェコ語訳に努めるとともに、チェコ語による説教により民衆の心をつかんだ。だが、ローマ教皇の贖宥状しょくゆうじょう販売を批判して破門され、ドイツ皇帝ジギスムント(神聖ローマ皇帝)の提唱したコンスタンツ公会議に召喚されることになった。この会議では、統一教皇の選出により教会大分裂を終結に導いたが、フスを異端として焚刑に処した(1415)ためフス派の怒りをかった。そして、ジギスムント(神聖ローマ皇帝)がベーメン王を兼ねると、フス派を中心とするプラハ市民は反乱に立ち上がった(フス戦争 1419~1436)。
こうしたウィクリフヤフスの思想と行動は、のちの宗教改革の先駆となった。

フス戦争

フス派にはプラハの都市貴族、大学を中心とした穏健なウトラキスト派と、農民・職人・下層騎士などからなる過激なターボル派があったが、当初はカトリック教会や皇帝軍に共同で対処し、度々皇帝軍を打ち破り(1420〜1431)、一時は国外にも進撃する勢いを示した。しかし、カトリック側がバーゼル公会議で妥協的な和平案を出すとしだいに対立するようになり、結局ターボル派はウトラキスト派とカトリック教会連合に敗れ、1436年穏健派と教会の間で和約が成立した。このフス戦争は、ドイツの支配に対するチェコ人の民族運動としての性格をもっていた。

北と南のイタリア

中世後期のイタリアは、中部のローマ教皇領を挟んで、北と南でそれぞれ異なった歩みを見せることになった。北イタリアでは、ドイツやフランスのような封建制はあまり発展せず、ヴェネツィア・ジェノヴァ・フィレンツェなどが地中海商業で富を蓄積し、独特の都市共和国(コムーネ)( 都市の自治権獲得 – 世界の歴史まっぷ)を形成していった。ドイツ皇帝のイタリア遠征が続きローマ教皇と対立が激化すると、諸都市は皇帝党ギベリン Ghibellines)と教皇党ゲルフ Guelfs)に分かれて争った。都市の内部でも大商人などの上層市民はギベリンを、新興市民層はゲルフをそれぞれ支持し、激しい戦闘を繰り広げた。

フリードリヒ1世の遠征に対する北イタリア諸都市のロンバルディア同盟の結成( 都市の自治権獲得 – 世界の歴史まっぷ)は、ゲルフとしての戦いであった。
1494年のイタリア地図
1494年のイタリア地図 ©世界の歴史まっぷ

トスカナ平原のフィレンツェでは、13世紀後半市民がギベリンの貴族を追放して共和制を実現(フィレンツェ共和国)、教皇と結びついて金融・商業を中心に発展した。だが、大商人・金融業者ら大市民が市政を独占するようになると、中産市民・下層労働者らの小市民はこれに反発し、1378年にはチオンピの乱が起こった。結局、市政は大市民層に掌握され、アルヴィッツィ家メディチ家(1434〜1494)による寡頭支配が行われた。

またロンバルディアの中心ミラノでは、13世紀末にヴィスコンティ家が実権を握り14世紀末以降公国を称した(ミラノ公国)。その支配は中部イタリアの一部にまでおよんだが、15世紀半ばにスフォルツァ家にとってかわられた。他方、市民の中から選ばれた総督(ドージェ)による寡頭政治がおこなわれたヴェネツィアでは、強力な艦隊をもとにアドリア海から東地中海に進出し、第4回十字軍を利用してコンスタンティノープルを攻略、各地に植民地を獲得した。さらに14世紀には地中海の覇権をかけて宿敵ジェノヴァと戦いこれを撃破、東方貿易を独占して「アドリア海の女王」の名をほしいままにした。

南イタリアは、8世紀以降イスラームの支配下にあったが、11世紀にはノルマンが進出、やがてルッジェーロ2世(シチリア王)によりシチリア島とナポリにまたがる両シチリア王国が建設されると、司法・行政が整備され集権化が進んだ。そして、首都パレルモの宮廷には、イスラーム文化にビザンツ・ノルマンの文化が融合した国際的文化が形成された。その後、支配権はドイツのシュタウフェン家をへてフランスのアンジュー家に移ったが、その苛酷な支配に対し、1282年シチリア島民は反乱を起こした。その結果、シチリア島は反乱を助けたアラゴン家の支配下に入り、アンジュー家の支配するナポリ王国と分離することになった。

1282年3月30日復活祭の夕刻にパレルモでおこり、やがて全島に広まったこの対仏反乱は、「シチリアの晩鐘」と呼ばれる。

こうして中世末期のイタリアは、北の都市共和国(コムーネ)と南の集権国家という対比のなかで、ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・フィレンツェ共和国・教皇領・ナポリ王国の5大勢力が分立する情勢を形づくった。なおナポリ王国は、15世紀半ばにアラゴン家により征服されるが、同世紀末には再生服をはかるフランスにより、イタリアは長い戦争(イタリア戦争 1494〜1559)に巻き込まれていく。

近代ヨーロッパの成立

ルネサンス

イタリア都市とその市民の生活

ルネサンス期のイタリアは、都市共和国、小君主国、教皇領などに分裂し相互に対立し、都市内部では権力をめぐる党派抗争がくりひろげられ、外国勢力の介入を招いた。こうした政治情勢がルネサンス文化にさまざまな影響を与えている。

1494年 シャルル8世(フランス王)のイタリア遠征とメディチ家追放、1527年 ドイツ皇帝軍によるローマ略奪(ローマ劫掠)はルネサンス文化の破壊を導いた。

ヨーロッパ主権国家体制の展開

ヨーロッパ主権国家体制の形成

イタリア戦争

ルネサンス文化が開花した15〜16世紀のイタリアでは、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、教皇領など中小の諸国家が相互にその勢力を維持、拡大を求め抗争を続けていた。この抗争にはイタリアでの覇権をめぐるフランス(ヴァロワ家)とハプスブルク家の対立が加わり、イタリア地方を舞台に絶えざる戦闘や複雑な外交的駆け引きがくりかえされた。ナポリ王位継承権を主張するフランスのイタリア侵入は、シャルル8世(フランス王)(位1483〜1498)に始まり(1494)、次王ルイ12世(フランス王)(位1498〜1515)、フランソワ1世(フランス王)(位1515〜1547)とひきつがれ、フランスはミラノ公国を手中におさめた。スペイン王カルロス1世が皇帝選挙でカール5世(神聖ローマ皇帝)(位1519〜1556)となると、1521年イタリアに軍を進め、フランスとの間にイタリア戦争(1494〜1559)が展開された。フランスが敗れると、神聖ローマ軍によるローマの略奪がおこなわれ、教皇を屈服させた(ローマ劫掠)。フランソワ1世(フランス王)はその後もイギリスやオスマン帝国と結ぶなどしてイタリアでの戦争を続けた。しかし、1544年のクレピーの和約でイタリアにおけるドイツの優位が確立、フランソワの死(1547)とアンリ2世(フランス王)(位1547〜1559)とフェリペ2世(スペイン王)の間に結ばれたカトー・カンブレジ条約(1559)で、フランスはイタリア支配を断念し、イタリア戦争は終わりをつげた。

参考

created by Rinker
¥2,700 (2019/09/16 11:39:23時点 Amazon調べ-詳細)