日米和親条約 (神奈川条約 ( A.D.1854〜)
江戸幕府とアメリカの間に結ばれた条約。林韑(大学頭)とペリーが横浜村で調印。永代不朽の和親、下田・箱館の開港、漂流民の救済と必需品の供給、最恵国待遇の供与、領事駐在権の容認などを規定。日本が欧米諸国へ開国する起点となった。
日米和親条約
林韑(大学頭)とペリーが神奈川近くの横浜村で調印した条約。永代不朽の和親、下田・箱館の開港、漂流民の救済と必需品の供給、最恵国待遇の供与、領事駐在権の容認などを規定。イギリス・ロシア・オランダとも類似の条約を締結。神奈川条約ともいう。
江戸幕府とアメリカの間に結ばれた条約。神奈川条約とも呼ばれる。下田・箱館2港の開口、片務的な最恵国待遇などを定め、日本が欧米諸国へ開国する起点となった。
欧米における近代国民国家の発展
アメリカ合衆国の発展
領土の拡張
ペリーの日本来訪
当時、日本近海で捕鯨活動をおこなっていたアメリカは、海難にともなう船員の保護、食料・水・燃料の補給のための寄港、通称のための寄港を目的として開国を要求した。しかし、すでにアメリカは1837年、モリソン号が日本人難破船員を送り届け通商を求めたが、幕府側の砲撃によって退散した事件を経験していたし、46年にも浦賀に2隻のアメリカ船が訪れて通商を求めたが拒否され、さらに同年日本近海で難破した捕鯨船員15名が長崎に拘留されて過酷な待遇をうけたことがあった。このため、ペリーは本国から平和的な方法による開国交渉を指示されていたが、実力の誇示こそが日本開国に効果があると考えていた。1853年の初訪問では8日間いただけで退去し翌年再度訪問して日米和親条約を締結した。53年はちょうどクリミア戦争がおきた年であり、日本近海に触手をのばしていたイギリス・フランス・ロシアはその戦争に忙殺されていた。
合衆国の対外発展とメキシコ
対外面では、カリフォルニア獲得以降、アメリカは太平洋方面に関心をもちはじめ、1854年日米和親条約を締結した(日本の開国)。
アジア諸地域の動揺
東アジアの激動
明治維新
欧米列強のアジア進出の圧力は、やがて江戸幕府のもとで17世紀以来鎖国を続けてきた日本にもおよぶようになった。ロシアが18世紀末以降、日本の北方海域に出没するようになったことは前述( ロシアの東方進出)のとおりであるが、19世紀になると、アメリカが日本を捕鯨船の補給基地と中国貿易の寄港地として目をつけるようになり、1853年、ペリー Perry (1794〜1858)の率いるアメリカ艦隊(黒船)が浦賀に来航し、日本の開港を求めた。幕府では開国か攘夷かをめぐって激しい対立があった。しかし老中阿部正弘(1819〜57)らは、開国は避けられぬ情勢にあると判断し、翌1854年、日米和親条約(神奈川条約)を締結して、下田・箱館(函館)の2港を開港した ❶ 。