曹丕 (A.D.187〜A.D.226) 曹丕は、三国時代の魏の初代皇帝(在位220年11月25日 - 226年6月29日)。文帝(魏)。父曹操が死ぬと、勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて魏王朝を創始。著書に『典論』がある。司馬懿らに皇太子曹叡の補佐を託し39歳で病死。
曹丕
生まれたときに雲気が立ちのぼり、それは青い色で丸く、車のほろのように彼のうえにかぶさって、一日中消えなかっという。早くに文字を覚え、文学を愛好したほか、騎上での弓射も上手で、剣術も好んだ。一時は曹操の後継者の座を弟の曹植に奪われそうになるが、賈詡を味方につけるなどして守った。曹操が死ぬと、献帝(漢)に禅譲させて帝位に就き文帝(魏)となり、魏王朝を開いた。曹操から軍事的才能も継いでおり、陣構えを聞いただけで劉備の敗北を予見。呉討伐のため2度も親征を行う。病が重くなると重臣の陳羣と司馬懿、一族の曹真と曹休らに曹叡(明帝)の補佐を託した。参考
概要
魏の初代皇帝
曹操の子。曹操譲りの軍事の才に恵まれ、剣術や学問にも長けた。曹操の死により献帝(漢)から禅譲され、33歳で魏王朝を創始。都を洛陽に定めた。 蜀、呉でも皇帝が立ったため、三国時代が始まった。外戚・宦官を抑えて執政するが、39歳で早世した。参考
生涯
曹操と卞氏(武宣皇后)との長子として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子(実質的には三男)の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。建安2年(197年)に曹操の正室の丁氏が養子として育て、嫡男として扱われていた異母長兄の曹昂(生母は劉氏)が戦死すると、これがきっかけで丁氏が曹操と離別する。次兄の曹鑠も程なく病死し、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられた。以後、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。やがて曹丕は文武両道の素質を持った人物に成長することとなった。『三国志』魏書によれば、曹丕は茂才に推挙されたが、出仕しなかった。 曹操の下で五官中郎将として副丞相となり、曹操の不在を守るようになった。 建安22年(217年)に曹操から太子に正式に指名される。通説ではこの時に弟の曹植と激しく後継争いをしたと言われるが、実際にそうだったかは怪しまれる。むしろ、兄弟の側近たちによる権力闘争であったという方が正確であろう。建安24年(219年)には、曹操不在時に魏諷の反乱未遂計画を鎮圧した。 建安25年(220年)に父が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。王位についたばかりの頃、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏し、大いに喜び孟達を厚遇した。当時、大勢の臣下のうちで、孟達への待遇があまりに度はずれであり、また地方の鎮めの任を任すべきでないと考えるものがあった。これを耳にすると、「私が彼の異心なきことを保証する。これも例えてみれば、蓬の茎で作った矢で蓬の原を射るようなものだ(毒を以て毒を制すの意)」といった。 その後、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即いた。ただし、表向きは家臣達から禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣達に重ねて禅譲を促されるという形を取った。18回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、三国時代に入ることとなる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国土を安定させた。特に陳羣の進言による九品官人法の制定は、後の世に長く受け継がれた。 一方、外政面では3度にわたり呉に出兵した。黄初3年(222年)に始まった出兵は、三路から呉を攻め、曹休が呂範を破り、曹真・夏侯尚・張郃らが孫盛・諸葛瑾を破り、江陵を包囲攻撃し陥落寸前まで追い込んだが、曹仁と臧覇が最終的に敗れ、疫病が流行したため退却せざるを得なかった(222年から223年にかけての三方面での戦い)。黄初5年(224年)の出兵は、徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁に驚き、戦わずして退却した。翌黄初6年(225年)の出兵は、この年は寒さが厳しく川が凍り、船を動かすことが出来なかったので撤退した。この時、呉の孫韶の奇襲を受け、曹丕の副車などが奪われた。孫権が臣従していた頃に呉王に封じてしまったことと、これらの出兵失敗は、やがて孫権の皇帝自称に繋がる。 司馬懿・陳羣・呉質・朱鑠(字は彦才)は文帝に寵愛され、「四友」と呼ばれて重職を歴任した。 黄初7年(226年)、風邪をこじらせて肺炎に陥り、そのまま崩御した。死ぬ間際、司馬懿・曹真・陳羣・曹休に皇太子の曹叡を託した。 なお、小説『三国志演義』には、蜀呉同盟に怒り、呉に対して黄初5年(224年)に大水軍をもって攻めるが徐盛に大敗、赤壁の戦い同様の被害を出し、そこで張遼を失ったと描写してあるが、これは創作である。治績
文帝の治世は、主として内政を重視するものであり、腐敗を極めた後漢末期を殷鑑としたことが顕著である。宦官を一定以上の官位に昇進できないようにしたのは、その端的な処置であろう。他にも、郭氏を皇后に立てる際は、皇帝を差し置いての太后への上奏を禁じ、外戚の政治関与を禁じる勅を発している。そのほか、私刑や仇討を禁じて社会秩序を維持し、大逆罪を除く密告を禁止して、密告そのものを罪に問う勅を発布、刑罰の軽減や淫祠の取り締まりを命じるなど、後漢末の弊害や、その後の混乱によって引き起こされた社会問題を、収拾しようと苦心した跡が伺える。また、冀州の兵士5万戸を河南郡に移した。 曹植を始めとする兄弟を僻地に遠ざけ、地力を削ぐため転封を繰り返したことで有名であるが、これも外戚と同様、皇族の政権掌握を防ぐことにあったと思われる。しかし、これによって必要以上に藩屏の力が衰え、文帝死後においては、司馬氏の台頭を防ぐことができなくなってしまった。魏を滅ぼした西晋の武帝司馬炎はこれに鑑みて皇族を優遇したが、今度は逆に諸王に軍事権まで与えるなど厚遇が過ぎ、八王の乱を引き起こすに至る。 なお、文帝は在位わずか7年で崩御するが、それが創業したばかりの王朝の基盤を培うには不充分な期間だったため、結果として魏の寿命を縮めたという指摘もある。しかし文帝の在位中は蜀漢の諸葛亮が北伐を行う事ができないほど充実した治世であった。曹丕が登場する作品
三国志 Three Kingdoms
