最澄
最澄像 一乗寺蔵(国宝) ©Public Domain

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最澄 A.D.767〜A.D.822
最澄さいちょうは、平安時代初期の僧。天台宗の開祖。諡号:伝教大師。
785年比叡山に草堂を造営(のちの延暦寺)。804年入唐。805年帰国し翌年天台宗を開く。『山家学生式』を定め大乗戒壇設立を上奏、没後7日目に勅許(822)。

最澄

鑑真が伝えた天台の教えを確立させた伝教大師

伝教大師最澄が悟った究極の「一切皆成仏」

鑑真が来日してから、ちょうど半世紀がたっていた。804年(延暦23)7月に派遣された第16次遣唐使船で唐へ渡った留学僧の中に、のちに大宗教家となる、最澄と空海がいた。ときに最澄38歳、空海31歳。

最澄は、19歳のとき東大寺で正式に僧になる資格を得た。東大寺で戒律を受けたということは、前途は有望であったはずである。しかし最澄は奈良の大きな寺には入らず、比叡山に登った。その頃の奈良の仏教は、人を導き救うという本来の使命から離れ、政治と癒着し、僧たちは目先の欲得や自分の出世しか考えない、堕落したものであったからだ。

修行を続けること十数年。最澄の心をとらえたものは、鑑真が律宗とともに伝えた天台宗の教えであった。しだいに名を知られるようになった最澄は797年(延暦16)頃から、桓武天皇のもとに仕え、唐に留学する機会を得た。最澄は唐に着くと、まっすぐ天台山に登り、そこで多くの経典を手に入れると、入唐の翌年、ただちに帰国した。

最澄が帰国すると最大の保護者である桓武天皇が重い病に臥していた。最澄は天皇の病気回復を一心に祈った。そして南都六宗と並んで、天台宗が仏教の一宗派として正式に認められた。

最澄は天台宗で独自に僧を養成するため戒壇の設立を申し出たが、許しを得られず息を引き取った。勅許がおりたのは、死の7日後であった。

最澄の悲願:最澄が独自の戒壇をつくりたいと思ったのは、僧の資格を与える東大寺戒壇院に疑問をもっていたからだった。なお、戒壇とは、正式な官僧となるための儀式を行うための壇のこと。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで

律令国家の形成

平安朝廷の形成

唐風文化と平安仏教

平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化こうにん・じょうがんぶんかと呼んでいる。
この時代は、政治的には新しい都で律令制を改革して文章経国もんじょうけいこくがはかられ、文人貴族が登用されることもあった。貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化した段階を迎え、宮廷で漢文学が発展した。また仏教では、新たに最澄や空海らによって伝えられた天台宗・真言宗が広まり、密教が盛んになったという特色をもつ。

平安新仏教

奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南部の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新しい仏教を志向する仏教界の動きを支持した。

近江に生まれた最澄は、比叡山に登って修学し、小堂を営んだ。804(延暦23)年、遣唐使に従い入唐、法華経を中心とする天台の教えを受けて多くの経典を伴って帰国し、平安京東北の比叡山に延暦寺を建て、天台宗を開いた。そして『山家学生式さんけがくしょうしき』を定めて比叡山で修学する学僧の規則をつくり、それまでの東大寺戒壇における受戒に対して、新しく独自の大乗戒壇の創設をめざしたが、これは南部の諸宗から激しい反対を受けることとなった。最澄は『顕戒論けんかいろん』を著して反論し、各地で布教を行うとともに戒壇創設を働きかけた。生前には実現しなかったが、最澄の死後直後に大乗戒壇は公認され、のちに延暦寺が日本仏教界の中心としての地位を築くもととなった。延暦寺は仏教・学問の中心となり、浄土教の源信や鎌倉新仏教の開祖たちも多くここで学んでいる。

讃岐に生まれた空海は、はじめ大学に入ったが、儒教・仏教・道教の3者における仏教の優位を論じた『三教指帰さんごうしいき』を著して仏教に身を投じた。のち、最澄と同時の804(延暦23)年の遣唐使に従って入唐、長安で密教の奥義を極めて2年後に帰国し、紀伊(和歌山県)の高野山こうやさん金剛峰寺こんごうぶじを建てて、真言宗を開いた。真言は大日如来の真実の言葉の意で、その秘奥ひおうなことを指して密教と呼ばれ、釈迦の教えを経典から学び修行して悟りを開こうとする顕教けんぎょうに対して、秘密の呪法の伝授・習得により悟りを開こうとするものである。空海は『十住心論じゅうじゅうしんろん』でこの密教の立場を明らかにしている。密教の根本道場としては、金剛峰寺のほか、空海が嵯峨天皇から賜った平安京の教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ)がある。

天台宗の方も、最澄ののち、やはり入唐して新しい密教を学んできた弟子の円仁えんにん円珍えんちんらによって本格的に密教を取り入れた。東寺などを中心とした真言宗の密教を東密とうみつと呼ぶのに対して、天台宗の密教を台密だいみつと呼んでいる。のち円仁と円珍の門流は対立し、10世紀末以降、円仁の門流は延暦寺によって山門派と呼ばれ、円珍の門流は園城寺おんじょうじ(三井寺)によって寺門派じもんはと呼ばれた。天台・真言の両宗ともに密教として加持祈祷をよく行い、国家・社会の安泰を祈ったが、それに頼って災いを避け幸福を追求しようとする現世利益げんぜりやくの面から天皇や貴族たちの帰依を広く集めることになった。

平安仏教

天台宗 真言宗
開祖 最澄(伝教大師)(767〜822))

最澄
最澄像 一乗寺蔵(国宝) ©Public Domain

空海(弘法大師)(774〜835)

空海
絹本著色弘法大師画像(愛媛県指定有形文化財)金峯山 長谷寺より

開宗 785年比叡山に草堂を造営(のちの延暦寺)。
804年入唐。805年帰国し翌年天台宗を開く。
『山家学生式』を定め大乗戒壇だいじょうかいだん設立を上奏、没後7日目に勅許(822)。
804年入唐。長安で恵果から密教を学び、806年帰国
嵯峨天皇の保護のもと、819年高野山に金剛峰寺こんごうぶじを建立。
823年京都教王護国寺(東寺)を賜る。
教義 法華経ほけきょうを中心経典とし、人間の仏性の平等(仏の前における絶対平等)を説いた。 大日経だいにちきょう金剛頂経こんごうちょうきょうが中心経典。加持祈祷で現世利益が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。
著作 顕戒論けんかいろん』(820)
大乗戒壇設立の正当性を主張
三教指帰さんごうしいき
儒教・仏教・道教の優劣を説く
十住心論じゅうじゅうしんろん
悟りに至る過程を説く
密教 最澄の弟子円仁えんにん円珍えんちんは天台宗の密教化をすすめた。台密 本来密教であって、加持祈祷が仏事の中心。東密
発展 円仁・円珍によって天台教団の基礎が大成。993年円珍派が園城寺(三井寺)に移り、寺門派(園城寺)と山門派(延暦寺)とに分裂・対立。 真言密教の加持祈祷や、即身成仏の教えにみる現世利益的傾向が、皇族・貴族の指示を受けて発展。密教流行をもたらす。
影響 法華経の絶対平等の思想が鎌倉新仏教を生む。 天台密教とともに祈祷儀式に影響
性格 山岳仏教の性格
②鎮護国家や現世利益げんぜりやくを求める仏教
③南部六宗の学問研究中心である顕教に対し、密教を取り入れ、加持祈祷(手で印を結び、陀羅尼を唱えて仏の加護を祈る呪術)が中心
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最澄が登場する作品

空海

弘法大師空海入定1150年を記念して製作された1984年の映画。空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、桓武天皇を丹波哲郎、嵯峨天皇を西郷輝彦が演じています。
空海(映画)登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

東映ビデオ
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外部リンク

天台宗総本山 比叡山延暦寺 [Hieizan Enryakuji]


同時代の人物

ハールーン=アッラシード (763〜809)

アッバース朝第5代カリフ(在位786年〜809年)。みずからビザンツ遠征し輝かしい成果をおさめ、東西貿易の発展と灌漑農業の拡大によってアッバース朝最盛期を現出。首都バグダードは「世界に並ぶもののない都市」としてその繁栄を謳歌し、『千夜一夜物語』に登場。フランク王国のカール大帝などと使節の交換を行った。

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