朝鮮通信使 ちょうせんつうしんし(A.D.1636〜A.D.1811) 朝鮮通信使 全12回のうち最初の3回は回答兼刷還使と呼び、文禄・慶長の役の捕虜返還が目的。4回目以降(1636〜)は通信使と呼び、援明抗清のため日本と友好関係を築く目的。440余名の一行を賓客として経費を日本が負担(オランダは自弁)。
朝鮮通信使
江戸期朝鮮通信使履歴
江戸期朝鮮通信使履歴
回数 | 西暦(元号) | 朝鮮暦 | 将軍 | 朝鮮正使 | 名称 | 目的 |
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第1回 | 1607年(慶長12年) | 宣祖40年 | 徳川秀忠 | 呂祐吉 | 回答兼刷還使 | 日朝国交回復、捕虜返還 |
第2回 | 1617年(元和3年) | 光海君9年 | 徳川秀忠 | 呉允謙 | 回答兼刷還使 | 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還 |
第3回 | 1624年(寛永元年) | 仁祖2年 | 徳川家光 | 鄭岦 | 回答兼刷還使 | 家光襲封祝賀、捕虜返還 |
第4回 | 1636年(寛永13年) | 仁祖14年 | 徳川家光 | 任絖 | 朝鮮通信使 | |
第5回 | 1643年(寛永20年) | 仁祖21年 | 徳川家光 | 尹順之 | 朝鮮通信使 | 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀 |
第6回 | 1655年(明暦元年) | 孝宗6年 | 徳川家綱 | 趙珩 | 朝鮮通信使 | 家綱襲封祝賀 |
第7回 | 1682年(天和2年) | 粛宗8年 | 徳川綱吉 | 尹趾完 | 朝鮮通信使 | 綱吉襲封祝賀 |
第8回 | 1711年(正徳元年) | 粛宗37年 | 徳川家宣 | 趙泰億 | 朝鮮通信使 | 家宣襲封祝賀 |
第9回 | 1719年(享保4年) | 粛宗45年 | 徳川吉宗 | 洪致中 | 朝鮮通信使 | 吉宗襲封祝賀 |
第10回 | 1748年(寛延元年) | 英祖24年 | 徳川家重 | 洪啓禧 | 朝鮮通信使 | 家重襲封祝賀 |
第11回 | 1764年(宝暦14年) | 英祖40年 | 徳川家治 | 趙曮 | 朝鮮通信使 | 家治襲封祝賀 |
第12回 | 1811年(文化8年) | 純祖11年 | 徳川家斉 | 金履喬 | 朝鮮通信使 | 家斉襲封祝賀(対馬に差し止め) |
参考 Wikipedia
朝鮮通信使の送迎や接待は豪奢をきわめたため、両国ともに財政的な負担は大きかった。幕藩体制の確立
幕藩体制の成立
朝鮮と琉球・蝦夷地
幕藩体制の展開
幕政の安定
正徳の政治
1711(正徳元)年、家宣の将軍宣下を慶賀する朝鮮通信使が日本に来訪した。その際、新井白石は従来の外交文書とは異なる礼法を用いた。それまでの朝鮮からの国書には、日本の将軍に対して「日本国大君」と書かれてきた。これを「日本国王」宛てに改めさせたのである。「大君」が「国王」より低い意味をもつことを嫌ったからである。また、使節の待遇は丁重に過ぎたと、これを簡素に改めた。参考