木造観音菩薩立像(夢殿安置) 法隆寺
木造観音菩薩立像(夢殿安置)(国宝)©Public Domain

木造観音菩薩立像(夢殿安置)

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木造観音菩薩立像(夢殿安置) 法隆寺救世観音像(7世紀前半)

奈良県法隆寺の飛鳥時代の木造の菩薩像。およそ1400年前に造立された、日本に現存する最古の木造彫刻のひとつ。腰高のすらりと優美な立ち姿と、くっきりした目鼻立ちに独特の笑みが印象的なこの像は、聖徳太子等身大の像として伝えられる。奈良時代に斑鳩宮跡地に夢殿が建立されると、「救世観音」はその本尊とされたが、平安時代末期の13世紀以降は秘仏とされ、法隆寺の僧侶ですら夢殿の逗子の扉を開けることは禁じられた。1951年に国宝に指定される。

木造観音菩薩立像(夢殿安置)

本体と光背は金箔押し木造、宝冠は金銅, 本体 高180 cm, 宝冠 高30cm, 光背 高111cm, 台座 高33.5cm

国宝・重要文化財データ

  • 名称 木造観音菩薩立像(夢殿安置)
  • 員数 1躯
  • 種別 彫刻
  • 国 日本
  • 時代 飛鳥時代
  • 区分 国宝
  • 指定年月日 1951年6月9日
  • 所在都道府県 奈良県
  • 所有者名 法隆寺

参考 国指定文化財等データベース

救世観音とは

法隆寺救世観音
法隆寺救世観音 (画像出典:ニッポンの国宝100)

法隆寺夢殿の本尊「救世観音」は、およそ1400年前に造立された、日本に現存する最古の木造彫刻のひとつです。

腰高のすらりと優美な立ち姿と、くっきりした目鼻立ちに独特の笑みが印象的なこの像は、法隆寺に残る記録から、聖徳太子等身大の像として伝えられてきたことがわかります。「救世観音」の「救世」とは、「衆生を苦しみの世から救う」ということを意味します。その名は仏教の経典には登場しませんが、聖徳太子が最初に講じた『法華経』にちなんだ尊名とも考えられています。

6世紀半ばに朝鮮半島から公式に伝来した仏教は、崇仏派と廃仏派との抗争を経ながら、しだいに日本に定着していきました。その振興に尽力したのが、用明天皇の皇子・聖徳太子でした。推古天皇元年(593)、推古天皇の即位とともに、その摂政となった聖徳太子は、仏教を中心に据えた国づくりに取り組みます。そして推古天皇9年頃、当時の都の飛鳥京から北西に20㎞離れた斑鳩の地に移り住み、自邸斑鳩宮の西方に斑鳩寺(のちの法隆寺)を造営したのです。

救世観音の明確な造像年代はわかっていません。近年の研究で、当時、等身の像を造るのは、その人物が亡くなったときであることが明らかになり、もしも本像が当初から太子等身像として造られたのであれば「救世観音」は、推古天皇30年(622)の太子の死に際して造立されたことになります。

奈良時代に斑鳩宮跡地に夢殿が建立されると、「救世観音」はその本尊とされました。しかし、平安時代末期の13世紀以降は秘仏とされ、法隆寺の僧侶ですら夢殿の逗子の扉を開けることは、禁じられました。

その扉が開いたのは、明治時代に日本美術を高く評価し、文化財の保護にも携わったアーネスト・フェノロサと岡倉天心でした。二人は、明治17(1884)年、政府の許可を得て法隆寺の宝物調査に訪れ、禁忌をおかすことを恐れる僧侶たちを説得して、逗子の扉を開いたといいます。

それから約130年、「救世観音」は現在も夢殿の奥にあって、毎年2回の開扉期間のみ、その神秘的な微笑みで人々を迎えています。

律令国家の形成

飛鳥文化

推古朝を中心とする時代の文化を、当時の宮の所在地を冠して飛鳥文化と呼んでいる。
飛鳥文化の特色は、当初は渡来人や蘇我氏など限られた人々によって信仰されていた仏教が、国家の保護を受けるようになって広く浸透し、最初の仏教文化と称すべき状況にいたった点に求められよう。
594(推古天皇2)年には仏教興隆の詔が出され、仏教が政治の基本に捉えられた。

仏教の普及に大きく寄与したのは、蘇我氏と厩戸王(聖徳太子)とであった。厩戸王は、自ら「三経の義疏さんぎょうのぎしょ」という、法華ほけ経・維摩ゆいま経・勝鬘しょうまん経の三つの経典の注釈書を著したと伝えられるなど、仏教に対して深い理解をもっていたとされる。

大王家や諸豪族は、古墳に変わってその権威を示し、氏の政治的結集の場とするために、きそって氏寺うじでらを建立した。
蘇我馬子が発願し、朝廷の保護を受け、588年に建立が始まった飛鳥の飛鳥寺(法興寺)、厩戸王の発願によると伝えられ、593年に建立された難波の四天王寺や、607年に建立された斑鳩いかるが斑鳩寺(法隆寺)秦河勝はたのかわかつの発願により603年に建立された山背やましろ広隆寺などがその代表的な例である。
その他、飛鳥をはじめとする全国各地に、礎石の上に丹塗にぬりの巨大な柱をおき、屋根を瓦で葺いた、これまでの倭国の建築様式とはかけ離れた規模と様式をもつ寺院が、続々と建立された。
そして639(舒明天皇11)年には、百済大寺くだらおおでらの造営が始まった。これは大王が造営した初めての寺院として、大きな意義を持つ。

奈良県桜井市の吉備池廃寺きびいけはいじは、『日本書紀』にみえる百済大寺の遺構と推定されている。一辺32cmの基壇の上に建っていた塔は、高さ80m弱の九重塔と復元され、飛鳥寺や山田寺、法隆寺西院伽藍がらんと比べて、格段の規模を持っている。
蘇我氏の本拠地である飛鳥に建てられた飛鳥寺に対して、舒明天皇は巨大な王権の寺院をつくろうとしたとみられる。

法隆寺再建論争

『日本書紀』は、法隆寺が天智天皇9(670)年に罹災りさいし、一屋も残さず焼亡したという記事を載せている。
この記事と現存する法隆寺西院の建築物との関係をめぐっては、明治以降、論争が続いた。
しかし1939(昭和14)年、現在の中門の南東から四天王寺式の伽藍がらん跡が発掘されたことから(若草伽藍跡)、これが厩戸王によって建立された最初の斑鳩寺であり、現在の法隆寺西院の建築物は、白鳳期に再建されたものであるとの説が有力になった。

しかし、当時の支配者層のすべてが、仏教の深遠しんえんにして複雑な教理をよく理解していたとはとてもいえない。
厩戸王や一部の渡来人を除けば、一般には、仏教は祖先の冥福を祈ったり、病気の回復を願うための、呪術の一種として認識されていたようである。

仏教が人々の心に深い印象を残したのは、その世界宗教としての教理よりも、壮大な寺院建築や、厳かに輝く仏像によるところが大きい。当時の仏像彫刻(飛鳥仏)は、中国の北朝の様式を受け継いだもの(北魏様式)と、南朝の様式を受け継いだもの(南陵様式)とに分類できる。それぞれ、高句麗・百済を経て倭国に伝わったものであろう。

北魏様式は、鞍作鳥くらつくりのとり止利仏師とりぶっし)とその系統の手になるもので、整った厳しい表情のなかに、古式微笑をたたえ、超現実的・象徴的な印象を与える。最古の仏像とされる飛鳥寺の飛鳥大仏(金銅像であるが後世の補修が多い)(重要文化財指定名称:銅造釈迦如来坐像)をはじめ、法隆寺金堂釈迦三尊像(金銅像)(国宝名:銅造釈迦如来及両脇侍像〈止利作/(金堂安置)〉)、法隆寺夢殿ゆめどの救世観音像ぐぜかんのんぞう(木像)などが、その代表的な例である。

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