柳沢吉保
柳沢吉保像(狩野常信画/一蓮寺蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

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柳沢吉保 やなぎさわよしやす( A.D.1658〜A.D.1714)

5代将軍綱吉の寵臣。老中。甲府藩主。綱吉が館林藩主の頃に小姓組に入り、1680年綱吉が将軍に就任すると小納戸役となり、側用人、年老中格、老中上座と出世した。。学問を好み禅にも明るく、世にいわれるような野心家ではなく、謹直誠実な性格であったらしい。荻生徂徠を迎え儒者を好遇。1704年甲府に移封し15万石を領したが、綱吉の死後は江戸駒込の六義園に隠棲した。

柳沢吉保

江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣。老中。甲府藩主。刑部おさかべ左衛門安忠の5男。初め房安、のち保明、吉保と改名。通称は主税、弥太郎。父が当時上野国、館林藩主であった綱吉に仕え勘定頭をつとめていたので、吉保も年少から小姓組に入った。延宝8(1680)年綱吉が将軍として江戸城西の丸に入ると供奉して小納戸役となり、元禄1(88)年には側用人として万石の列に入った。綱吉の意をよく解し側近としての能力もあったので、威権は老中をしのぐほどであった。同7年老中格、同11年老中上座を与えられた。学問を好み、禅にも明るく、世にいわれるような陰謀家、野心家ではなく、謹直誠実な性格であったらしい。幕閣においては政治上の卓越した経綸や施策を残してはいないが、荻生徂徠を500石で召しかかえるなど儒者を好遇した。側室の霊樹院染子、正親町町子はともに才媛で、町子の『松陰日記』は名作として知られている。宝永1(1704)年甲府に移封し15万石を領したが、綱吉の死後は致仕して安泰をはかり、江戸駒込の六義園りくぎえんに隠棲した。子の吉里はのちに大和郡山15万1千石を領した。

参考 ブリタニカ国際大百科事典

綱吉の文治政治を支えた側用人

柳沢吉保は、5代将軍徳川綱吉が館林藩主の頃からの家臣である。綱吉の将軍就任とともに530石の小納戸役に抜擢され、8年後には1万2000石の側用人そばようにんに出世。最終的には甲府15万石の大名に成り上がった。江戸時代を通じても、これだけの累進を果たしたのは、ほかに田沼意次ぐらいであろう。側用人とは、幕府重臣と将軍との連絡係であり、ときに側用人の意見が将軍の意思となるほどの役職である。吉保の権勢は高まり、その屋敷には一日中、陳情者がつめかけたという。しかし、吉保が幕政を牛耳り、政治を欲しいままにしたということはなかつた。荻生徂徠おぎゅうそらいなどの儒学者を登用。側近として、基本的には合議制を重視して政務をとり行った。綱吉が死ぬと、ただちに吉保は家督を息子に譲り隠居した。

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幕藩体制の展開

幕政の安定

元禄時代

勘定吟味役かんじょうぎんみやく(のちに勘定奉行)荻原重秀おぎわらしげひで(1658〜1713)は、財政収入増の方策として、貨幣改鋳を上申し、側用人柳沢吉保(1658〜1714)を経て、これを綱吉は聞き入れた。そして、従来の慶長小判に含まれていた金の比率(84%)を減らして、57%の金含有率の元禄小判を鋳造し、発行したのである。小判の増量で、幕府は500万両の増収をあげたが、貨幣価値の下落と物価の騰貴を引きおこし、人々の生活は圧迫された。

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