楠木正成 (
A.D.1294〜A.D.1336)
鎌倉時代末期から南北朝にかけての武将。後醍醐天皇の挙兵を聞き河内で挙兵。幕府軍に奮戦、倒幕の機運をつくる。倒幕後は建武政権に参加。尊氏の謀反後は和睦を訴えたが容れられず、湊川で敗れて弟の正季と刺し違えて果てた。
楠木正成
南朝きっての名称光芒をはなって散る
奇形をもって幕府を翻弄 倒幕を演出した軍事的才能
楠木正成は後醍醐天皇の抜擢によって、朝臣という陽光の差す場所へと導かれることになった。「この君に命をかけて尽くそう」と正成は心に誓った。
正成が倒幕の兵を挙げたのは
1331年(元弘1)9月。総勢数万に及ぶ幕府軍は後醍醐天皇の籠もる笠置山を攻略、返す刀で正成の守る下赤坂の砦に攻めかかる。対する正成方はわずか数百人。城内から大木や巨石、熱湯や糞尿を浴びせ、城の外では野山に潜伏した兵が幕府軍を襲撃した。
赤坂城は翌10月末落城した。しかし、少数ながらももちこたえた正成の奮闘に触発されて、倒幕の機運は広まった。落ち延びた護良親王が挙兵を呼びかけながら転戦すると、足利尊氏などの鎌倉御家人が変心。もはや幕府にもちこたえるだけの余力はなかった。
建武政権下で天皇の絶大な信任を受けた正成であったが壮烈な最期を迎える。
1335年(建武2)、建武政権を離脱していた足利尊氏が鎌倉で挙兵。楠木正成は「この際、新田殿(新田義貞)を追放して、尊氏と和睦すべし」と後醍醐天皇に訴えた。正成は、世の混乱の原因が後醍醐天皇の政治にあることを知っていた。混乱を鎮めるためには武家による政治が必要であり、その中心となるのは尊氏でしかないことも見抜いていた。「義貞追放」は、尊氏挙兵の大義名分が「奸臣・義貞の追討」であったためだ。尊氏の戦う名目を失わせ、後醍醐天皇の政治の柱石として尊氏を取り込む妙策である。だが、この献策は勝利におごる朝廷には受け入れられなかった。
翌年、摂津に進出した正成は、足利直義の大軍と湊川で激突。正成たちの奮戦はすさまじかった。しかし衆寡敵せず。正成は弟・正季と互いに刺し違えて果てた。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
武家社会の成長
室町幕府の成立
鎌倉幕府の滅亡
天皇が近臣日野資朝(1290〜1332)。日野俊基(?~1332)らと協議した討幕計画は、畿内の武士・僧兵を味方につけて六波羅探題を襲おうとするものだった。ところが1324(正中元)年、この計画は明るみに出て、日野資朝・日野俊基は幕府に逮捕された。幕府はこのときは寛容で、資朝こそ佐渡に流したが、俊基を許し、天皇も間責しなかった。これを正中の変という。
いったんは挫折したものの、天皇の討幕の意志は固かった。天皇は護良(1308~35)・宗良(1311~85)両親王を延暦寺の座主に任じ、僧兵の力をひき寄せようとした。
俊基は山伏の姿になって、畿内の武士を説いてまわったという。けれどもこの企ても1331(元弘元)年、武力での討幕に反対する近臣吉田定房(1274~1338)の密告によって露顕した。幕府は六波羅探題に天皇の捕縛を命じた。天皇は近臣たちと京都を脱出して山城の笠置山に潜行し、畿内の武士たちをつのった。河内の悪党と考えられる楠木正成(1294〜1336)が赤坂城に挙兵したのはこのときである。しかし、そのほかに天皇の呼びかけに応じようとした者はなく、頼みの僧兵も動かなかった。天皇は捕らえられ、赤坂城は落城して正成は姿をくらました。幕府は天皇を隠岐島に流し、数名の近臣も流罪に処した。日野俊基と配流中の日野資朝は首をはねられた。これが元弘の変で、幕府は持明院統の光厳天皇(在位1331~33)を立てた。
建武の新政
1336(建武3)年、尊氏は奥州から上京してきた北畠顕家らに敗れ、いったん九州に落ち延びた。九州は足利氏とは縁のない土地であったが、武士たちはつぎつぎに尊氏のもとにはせ参じた。勢いを盛り返した尊氏は、大軍を率いて東上し、摂津の湊川で楠木正成を戦死させ、京都を制圧した。