アラブ人の征服活動 正統カリフ ヤルムークの戦い イスラーム世界の拡大地図 ニハーヴァンドの戦い
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正統カリフ (7世紀)
アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意。
イスラーム・イスラム帝国の初期の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語。正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。

正統カリフ

イスラム王朝 17.イスラーム世界の発展 イスラーム世界の形成と発展
イスラーム世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

イスラーム世界の形成と発展

イスラーム帝国の成立

アラブ人の征服活動

632年にムハンマド・イブン=アブドゥッラーフが没すると、クライシュ族の長老アブー・バクルがその後継者(カリフ)に選ばれた。
カリフは、ムハンマドが保持していた宗教的権限と政治的権限のうち、政治的権限だけを継承する共同体の指導者であった。しかし、アブー・バクルが即位すると、盟約を結んでいたアラブ部族は次々と共同体から離反し始めた。彼らはアラブの伝統に従って、盟約はムハンマド個人との間に結ばれたものとみなしたのである。アブー・バルクは、これらの離反を討伐するとともに、アラブ・イスラーム教徒のエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード=聖戦)にふりむけた。

イスラーム世界の拡大地図
イスラーム世界の拡大地図 ©世界の歴史まっぷ

第2代カリフ ウマル・イブン・ハッターブの時代、イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)で東ローマ帝国ヘラクレイオス朝)軍に破滅的な打撃を与えた。
642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。
ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。

アブー・バクルからアリー・イブン・アビー・ターリブ(656〜661)にいたるまでの4人のカリフは「正統カリフ」と呼ばれる。しかし、征服活動の進展によってカリフ権が強大になると、その継承権を巡って共同体の内部には深刻な分裂が発生した。第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーン(644〜656)は不満分子によって殺され、第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブも過激派の手で暗殺された。シリア総督であったウマイヤ家のムアーウィヤ(661〜680)は、シリアのダマスクスウマイヤ朝(661〜750)を開くことによって、この政治的混乱をようやく収拾することができた。

シーア派とスンナ派

ウマイヤ朝の成立後、アリー(正統カリフ)とその子孫に共同体を指導する権利があると主張する人々は、シーア派(分派)を結成した。これに対して預言者の言行(スンナ)に従って生活することを重視する多数派のイスラーム教徒は、スンナ派と呼ばれる。スンナ派の4法学派とシーア派はそれぞれ独自の法体系をもち、イスラーム教徒はみずからの属する法学派の法によって裁判をうけることができた。

クライシュ族の系図 クライシュ族
クライシュ族の系図 ©世界の歴史まっぷ
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初代 アブー・バクル

(在位632年 – 634年)
アブー・バクルは、カリフとなったアブー・バクルは、「ムハンマドは死に、蘇ることはない」「ムハンマドは、神ではなく人間の息子であり、崇拝の対象ではない」と強調した。
盟約をむすんでいたアラブ部族は、アラブの伝統に従って、盟約はムハンマド個人との間に結ばれたものとみなし次々と共同体から離反し始めた。アブー・バクルは、これらの離反者を討伐するとともに、イスラームのエネルギーをイラクやシリアなど「肥沃な三日月地帯」の征服活動(ジハード(聖戦))にふりむけムスリム共同体の結束を強めるも在位2年で病のため亡くなる。

第2代 ウマル・イブン・ハッターブ

(在位634年 – 644年)
イスラームによって統制されたアラブ軍は、カーディシーヤの戦い(636)、ニハーヴァンドの戦い(642)でササン朝の軍隊を破り、シリア方面でもヤルムークの戦い(636)、で東ローマ帝国軍に破滅的な打撃を与えた。
642年までには、シリアに続いてエジプトの征服も完了した。
ササン朝の滅亡とエジプト、シリアからの東ローマ帝国軍の撤退により、古代オリエント世界は崩壊し、かわって新しい理念によって統合されたイスラーム世界が誕生したのである。
644年11月、ウマル・イブン・ハッターブはマディーナのモスクで礼拝をしている最中に、個人的な恨みをもったユダヤ人ないしペルシア人の奴隷によって刺殺された。

第3代 ウスマーン・イブン・アッファーン

(在位644年 – 656年)
645年頃、ウマルの死が伝わるとイスラーム勢力への反撃が各地で始まり、アゼルバイジャンとアルメニアでは部族勢力の反乱が起こり、エジプト・シリアの沿岸部は東ローマ帝国の攻撃を受ける。
ウスマーン(正統カリフ)はそれらの土地の騒乱を鎮圧し、中断されていたペルシア遠征を再開した。ニハーヴァンドの戦いの後に進軍を中止していた征服軍も進軍を再開した。650年にジーロフトに到達した征服軍は、三手にわかれてマクラーン、スィースターン(シジスターン)、ホラーサーンを征服し、ペルシアの征服を完了する。
翌651年にメルヴに逃亡したヤズデギルド3世(ペルシアの王)は現地の総督に殺害され、ササン朝は滅亡した。
シリアからはメソポタミア北部への遠征軍が出発し、646年にアルメニア、650年にアゼルバイジャンを征服する。
こうして、ムハンマドの時代から始まったアラブ人の征服活動は、650年に終息する。
ウスマーンはカリフとして初めて中国に使者を派遣した人物と考えられており、651年に唐(王朝)首都である長安にイスラーム国家からの使者が訪れた。
治世の後半、ウスマーンが実施した自己の家系であるウマイヤ家出身者の登用政策は一門による権力の独占として受け取られ、イスラム教徒の上層部と下級の兵士の両方に不満を与えた。数百万の反乱軍が邸宅に押し入り暗殺したが、ウスマーン(正統カリフ)は最後まで反撃せずクルアーンを読誦していた。

第4代 アリー・イブン・アビー・ターリブ

(在位656年 – 661年)同教シーア派の初代イマーム。
ムハンマドの従弟にして娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ家のムアーウィヤが争った。曲折を経て、アリーが第4代のカリフに就任した。

アリーがカリフに就任するが、ムアーウィヤや、ムハンマドの晩年の妻で初代正統カリフのアブー・バクルの娘アーイシャはこれに反発した。
656年、アリーはまずアーイシャの一派をラクダの戦いで退けた。
ムアーウィヤは、ウスマーンを暗殺したのはアリーの一派であるとして、血の報復を叫んでアリーと戦闘に至った。ムアーウィヤは、657年のスィッフィーンの戦いでアリーと激突した。戦闘ではアリーが優位に立ち、武勇に優れたアリーを武力で倒すことは難しいと考えたムアーウィヤは、策略をめぐらせてアリーと和議を結んだ。この結果、ムアーウィヤは敗北を免れたことでウンマの一方の雄としての地位を確保し、アリーは兵を引いたことで支持の一部を失うことになった。

アリーがムアーウィヤと和議を結んだことに反発したアリー支持者の一部は、ムアーウィヤへの徹底抗戦を唱えてアリーと決別し、イスラーム史上初の分派と言われるハワーリジュ派(ハワーリジュとは「退去した者」の意)を形成した。

ムアーウィヤは、660年に自らカリフを称した。ハワーリジュ派は、アリー、ムアーウィヤとその副将アムル・イブン・アル=アースに刺客を送った。
アリーとその支持者は、勢力を拡大し続けるムアーウィヤとの戦いに加えて、身内から出たハワーリジュ派にも対処しなければならなくなり、疲弊を余儀なくされた。
アリー自身はムハンマド存命中のウンマ防衛や異教徒侵略のための戦いで活躍したが、それは多くが数百の手勢を率い、自身も先頭に立って戦う野戦指揮官としてであり、個人的な武勇や戦術を超えた、数万の軍隊を指揮する戦略や有力な軍司令官や総督を引き込む政略では、ムアーウィアにはるかに及ばなかった。

ムアーウィヤは刺客の手から逃れたが、一方アリーは661年にクーファの大モスクで祈祷中にアブド=アルラフマーン・イブン・ムルジャムにより毒を塗った刃で襲われ、2日後に息を引き取った。
正統カリフ4代のうち実に3代までが暗殺されたことになる。アリーの暗殺により、ムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになる。
これに反発したアリーの支持者は、アリーとムハンマドの娘ファーティマとの子ハサンとフサインおよびその子孫のみが指導者たりうると考え、彼らを無謬のイマームと仰いでシーア派を形成していく。これに対して、ウマイヤ朝の権威を認めた多数派は、後世スンナ派(スンニ派)と呼ばれるようになる。

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