武則天
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武則天 A.D.624〜A.D.705

武則天ぶそくてんは、武周初代女帝(在位690年10月16日 - 705年2月22日)。中国史上唯一の女帝。太宗(唐)後宮こうきゅう高宗(唐)の後宮をへて、高宗の皇后(則天武后そくてんぶこう)となり、高宗死後は実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗(唐)も退位させて自ら武周朝を建て聖神皇帝せいしんこうていと称した。姓・諱:武照(武曌)。

武則天

稀代の女傑で中国市場唯一の女帝

幼いうちから美貌の誉れ高く、14歳にして太宗(唐)の後宮に入るが、太宗の看病をするうちに皇太子の李知りちと親しい関係になる。太宗(唐)の死後、寺に入れられるが、数年後、高宗(唐)の後宮にお腹の大きい状態で迎えられた。自分の産んだ娘を自ら殺めるなどの策略をろうして、王皇后と蕭淑妃しょうしゅくひを失脚させ皇后の座を手に入れる。やがて病弱で気弱な高宗(唐)にかわって万機を決済するようになり、高宗(唐)が没すると、実の子の中宗(唐)、ついで弟の睿宗(唐)を即位させるものの、実権は握り続けた。さまざまな下準備をしたあげく、690年には自ら帝位に就き、国号を周と改めた(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう武周とよぶ)。

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反対者を殺し中国史上唯一の女帝に

武人の娘に生まれた武照ぶしょうは、8歳で父を失い、異母兄弟に虐げられて育った。しかし成長した姿はまさに傾城けいせいの美女。14歳で太宗(唐)の後宮こうきゅうに入った。
太宗の死後、武照は一時道教の寺へ入ったが、3代の高宗(唐)が即位するとその後宮に入った。武照はここから皇后へ登りつめる。
まず、自分と高宗との子を扼殺やくさつし、その濡れ衣を皇后に着せて追放。前皇后も策を講じて惨殺した。
31歳で皇后「則天武后」となった武照は、密告を奨励し、反対や不服を口にした数百人の皇族・貴族を殺した。
高宗が病むと政権を掌握。高宗死後は子の中宗(唐)・睿宗(唐)の後ろ盾となり、権力をほしいままにした。
専横に対する反乱が起こると弾圧し、自らが聖神皇帝せいしんこうていとして即位。国号を周として中国史上唯一の女帝に就いた。
晩年病に伏せると、側近から引退を求められた。武后は中宗ちゅうそうを即位させ、唐は復活した。
残忍ではあるが頭脳明晰な女帝で、仏教を保護し、文化の発展には力を入れた。多数の書籍の編纂を進め、自らも執筆した。暦法を改め、則天文字といわれる新字10余文字を作成した。

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東アジア世界の形成と発展

東アジア文化圏の形成

唐の混乱

7世紀末になると、唐は内部から動揺しはじめた。則天武后そくてんぶこう(位690〜705)は、太宗(唐)の後宮から高宗(唐)の皇后となり、高宗の晩年にはかわって政務を執り行うようになった。武后は、高宗(唐)が没すると、すでに即位していた実子の中宗(唐)を廃し、かわった睿宗えいそう(唐)をも退位させてみずから帝位につき、国号も唐にかえてと称した(武周革命ぶしゅうかくめい)。
こうして中国史上唯一の女帝となった武后について、古来中国では、儒教的な女性観も手伝って、悪逆非道の君主のようにいわれてきた。たしかに武后は、酷吏こくりと呼ばれる秘密警察官僚を駆使し、陰惨な恐怖政治をしいて反対勢力を弾圧したが、これによって勢力ある功臣や有力な貴族官僚(とくに関隴かんろう系門閥)が除去され、一方で科挙を重視して才能ある者を積極的に登用したので、中央集権が推進され、むしろ皇帝権力の基盤が強化されたという一面がある。
また仏教を統治に利用し、州ごとに大雲寺だいうんじを設置したが、これは日本の国分寺制度の範となった。

則天武后の死後、唐は再興され、中宗(唐)が復位したが、中宗の皇后である韋后いこうは、則天武后をまねて政治の実権を握ろうとし、中宗を毒殺してその子を擁立しようとした。しかし睿宗(唐)の皇子李隆基りりゅうき(のちの玄宗)がクーデターによって韋后を倒し、ようやく政治混乱に終止符を打った。
この則天武后から韋后にかけての政治混乱の時代を「武韋の禍ぶいのか」とも呼ぶ。

生涯

出生

武則天
武則天 早稲田大学図書館蔵 Source: Waseda University Library

利州都督武士彠と楊夫人の間に次女として生まれ、諱を照、幼名を媚娘と名付けられた。生家の武氏は唐初時代の政治を担った関隴貴族集団の中では傍流に列する家系であったが代々財産家であったため、幼い頃の媚娘は父から高度な教育を与えられて育った。しかし、12歳のときに父が死去すると、媚娘は異母兄弟に虐げられる生活を送ることとなった。

14歳で太宗の後宮に入り才人(妃の地位。正五品)となった。当初は太宗の寵愛を受けていた。しかし、ほどなく宮廷に「唐三代にして、女王昌」「李に代わり武が栄える」との流言が蔓延るようになると、これを「武照の聡明さが唐朝に災禍をもたらす」との意ではないかと疑い恐れた太宗は、次第に武照を疎遠にしていった。途中、李君羨という武将が「武が栄える」の「武」ではないかと疑惑を持たれ処刑された事件があったが、太宗は李君羨の処刑後もなお武照と距離を置き続けた。こうした状況下で太宗の子である李治(後の高宗)が武照を見出すこととなった。太宗に殺害されることを恐れた武照は李治を籠絡し、李治は妄信的に武照を寵愛するようになる。

太宗の崩御にともない出家することとなったが、額に焼印を付け仏尼になることを避け、女性の道士(坤道)となり道教寺院(道観)で修行することとなった。

その頃の宮中では、太宗の後継者である高宗の皇后だった王皇后(唐高宗)と、高宗が寵愛していた蕭淑妃が対立し、皇后は高宗の寵愛を蕭淑妃から逸らす為、高宗に武照の入宮を推薦した。武照が昭儀(後宮における上から5番目の地位)として後宮に入宮すると、高宗の寵愛は王皇后の狙い通り蕭淑妃から逸れたが、王皇后自身も高宗と疎遠になった。

立后

永徽6年(655年)6月、それまで昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を新たに設けた宸妃しんひ(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相・韓瑗と来済の反対で実現はしなかった。同年、中書舍人・李義府りぎふなどの側近が皇后廃立と武照擁立の意図を揣摩し、許敬宗きょけいそう崔義玄さいぎげん、袁公瑜等の大臣が結託し高宗に武照立后の上奏文を送った。高宗は王皇后を廃して武照を皇后に立てる事の是非を重臣に下問した。

この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である長孫無忌ちょうそんむき、太宗に信任されて常に直言をしていた褚遂良ちょすいりょう、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧うしねい、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣りせきの四人である。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣のみが皇后の廃立を消極的に容認した。

10月13日(11月16日)、高宗は詔書を以て、「陰謀下毒」の罪[5]により王皇后と蕭淑妃の二名を庶民に落として罪人として投獄したことおよび、同二名の親族は官位剥奪の上嶺南への流罪に付すことを宣告した。その7日後、高宗は再び詔書を発布して武照を立后すると共に、諫言した褚遂良を潭州都督へ左遷した。

11月初旬、皇后になった武照は監禁されていた王氏(前皇后)と蕭氏(前淑妃)を棍杖で百叩きに処した上、処刑した。

垂簾政治

武皇后は高宗に代わり垂簾政治を行った。武皇后は自身に対する有力貴族の積極的支持が無いと自覚していたため、自身の権力を支える人材を非貴族層から積極的に登用した。この時期に登用された人材としては狄仁傑てきじんけつ姚崇ようすう宋璟そうえいなどがいる。これらは低い身分の出身であり、貴族制下では宮廷内での出世が見込めない人物だった。武皇后は人材の採用に当たっては、身分のみならず才能と武皇后への忠誠心を重視した。姚崇と宋璟は後に玄宗(唐)の下で朝政を行い、開元の治を導いた。

顕慶5年(660年)に新羅の請願を容れ百済討伐の軍を起こし、百済を滅ぼした。倭国(日本)・旧百済連合軍と唐軍(白村江の戦い)にも勝利し、その5年後には孤立化した高句麗を滅ぼし(唐(王朝)高句麗出兵)たが、武皇后の暴政と営州都督・趙文翽の横暴により契丹きったんが大規模な反乱を起こして河北へ侵攻するなど、遼東遼西の情勢は却って悪化した。

出自を問わない才能を発掘する一方で、武皇后は娘の太平公主たいへいこうしゅ薛懐義せつかいぎ・張易之・昌宗兄弟といった自身の寵臣、武三思ぶさんし・武承嗣ら親族の武氏一族を重用し、専横を招いた。また佞臣の許敬宗きょけいそうなどを任用し、密告政治により反対者を排除、来俊臣・索元礼・周興ら「酷吏」が反対派を監視する恐怖政治を行った。この状況に高宗は武皇后の廃后を計画するが、武皇后は計画を事前に察知し皇帝の権力奪還を許さなかった。

道元年(683年)、高宗が崩御すると子の李顕(中宗(唐))が即位するが、中宗の皇后韋氏(韋皇后(唐中宗))が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位しその弟の李旦(睿宗(唐))を新皇帝に擁立した。睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじる事を余儀なくされた。

武則天の専横に対して皇族が次々と挙兵したが、いずれも打ち破られた。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こる程の情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王らくしんおうが書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話がある。

登位

宗族の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った。

天授元年(690年)、武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)。

即位後

帝室を老子の末裔と称し「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた。

武則天の治世において最も重要な役割を果たしたのが、高宗(唐)の時代から彼女が実力を見い出し重用していた稀代の名臣、狄仁傑てきじんけつである。武則天は狄仁傑を宰相として用い、その的確な諫言を聞き入れ、国内外において発生する難題の処理に当たり、成功を収めた。
また、治世後半期には姚崇ようすう宋璟そうえいなどの実力を見抜いてこれを要職に抜擢した。後にこの二名は玄宗(唐)の時代の開元の治を支える名臣と称される人物である。武則天の治世の後半は狄仁傑らの推挙により数多の有能な官吏を登用したこともあり、宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった。

晩年

晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた。子とは即ち高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。
当時武則天の寵愛をうけ横暴を極めた張易之・昌宗兄弟を除くために、神龍元年1月24日(705年2月22日)、宰相・張柬之ちょうかんしは中宗(唐)を東宮(皇太子)に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。
これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることとなった。しかし武氏の眷属は李氏を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思ぶさんしなどには及ばず命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し、706年(神龍2年)5月、乾陵に高宗と合葬された。

謚号

遺詔には「帝号を取り去り則天大聖皇后と称すべし」とあったと謂われる。唐王朝での謚号はその後も変遷を経る。

  1. 唐隆元年(710年)、中宗(唐)、天后と改める
  2. 景雲元年(710年)、睿宗(唐)、大聖天后と改める
  3. 延和元年(712年)、睿宗(唐)、天后聖帝と改める
  4. 開元4年(716年)、玄宗(唐)、則天皇后と改める
  5. 天宝8年(749年)、玄宗(唐)、則天順聖皇后の謚を追加する

Wikipediaより

武則天が登場する作品

武則天-The Empress

武則天
武則天「武則天-The Empress」(C) 2014 ZheJiang Talent Television & Film Co., Ltd. All Rights Reserved.

王への純愛が育んだ勇気と才気。過酷な運命をも見方につけた強運の女帝。則天武后は太宗の後宮から高宗の皇后となり高宗が没すると実子の中宗・睿宗を廃し、自ら「中国史上唯一の女帝」となり国号を周とした。武后の死後復位した中宗の皇后韋后も中宗を毒殺して子を擁立しようとしたが倒された。この政治混乱の時代を「武韋の禍」と呼ぶ。

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同時代の人物

持統天皇(645〜703)

第41代天皇。父は第38代天智天皇、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘の蘇我遠智娘。第40代天武天皇皇后。天武天皇崩御後即位し、天武天皇の政策を継承し、皇親政治を推し進めた。

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