法隆寺百済観音
法隆寺百済観音(画像出典:ニッポンの国宝100)

法隆寺百済観音

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法隆寺百済観音 木造観音菩薩立像(百済観音) (7世紀中頃)

法隆寺の百済観音像は、飛鳥時代の仏像彫刻(飛鳥仏)のうち、中国の南朝の様式を受け継いだもの(南梁様式)の代表作といえる。痩身の流麗な像容や、左手で水瓶の首を軽くつまむ姿が、独特な優しさを醸し出している。現在は「百済観音」の名で親しまれているが、江戸時代までは「虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ」、明治期の法隆寺の目録では「朝鮮風観音像」と記載されるなど、多くの謎を秘めている。国宝。

法隆寺百済観音

国宝プロフィール

7世紀中頃 木造 彩色
像高209.4㎝ 法隆寺 奈良
痩身の流麗な像容や、左手で水瓶の首を軽くつまむ姿が、独特な優しさを醸し出している。現在は「百済観音」の名で親しまれているが、江戸時代までは「虚空蔵菩薩こくうぞうぼさつ」、明治期の法隆寺の目録では「朝鮮風観音像」と記載されるなど、多くの謎を秘めた像である。

百済観音とは

2メートルを超えるスラリとした長身の体躯に面長の小さな尊顔をいただき、ミステリアスな微笑みを浮かべる「百済観音」。エキゾチックな雰囲気をまとい、八頭身はあろうかというスリムなその肢体は、今まさに天界から地上に舞い降りてきたかのように軽やかです。

1951(昭和26)年、文化財保護法の改正により、国宝の見直しが図られました。その際、「百済観音」は飛鳥時代を代表する仏像として、広隆寺の「弥勒菩薩半跏像」などとともに、初の「新国宝」に指定。名実ともに国宝中の国宝といえる仏像です。

現在は1998年に完成した法隆寺の大宝蔵院に安置されている百済観音ですが、いつから法隆寺にあったのか、またなぜ法隆寺に伝わるのか、その来歴は謎に包まれています。

法隆寺関連の記録にはじめて登場するのは、元禄11(1698)年のこと。記録には、4〜7世紀に朝鮮半島にあった国、百済から伝来した無量の功徳と知恵を蔵する虚空蔵菩薩とあります。しかし明治時代後半、法隆寺の土蔵から観音であることを意味する化仏(化身)が刻まれた宝冠が発見され、観音であることが確定しました。

また、現在では百済からの渡来仏という伝来も疑問視されています。百済観音は、頭部から足の下の台までクスノキの一材で製作されています。ところが、当時の朝鮮半島で製作されていた仏像にはクスノキ材の現存例がありません。いっぽう、そのころ日本では同材が造仏に用いられていたため、本像は日本製であると考えられるようになりました。しかし、天衣の表現をはじめ、横から観られることを意識して造られた百済観音は、同じ法隆寺に安置されている正面から観られることに重点がおかれている「救世観音」とは大きくその様式を異にします。そのため、「救世観音」をはじめ飛鳥仏の代表的な造り手である止利仏師とは異なる仏師集団が製作したのではないかといわれています。

衆生を救うため、この世に降り立ったかのような百済観音。神秘的な微笑みをたたえた本像は、約1400年もの間、静かに人々を見守っています。

律令国家の形成

飛鳥の朝廷

飛鳥文化
仏像

仏教が人々の心に深い印象を残したのは、その世界宗教としての教理よりも、壮大な寺院建築や、厳かに輝く仏像によるところが大きい。当時の仏像彫刻(飛鳥仏)は、中国の北朝の様式を受け継いだもの(北魏様式)と、南朝の様式を受け継いだもの(南梁様式)とに分類できる。それぞれ、高句麗・百済を経て倭国に伝わったものであろう。

北魏様式は、鞍作鳥くらつくりのとり止利仏師とりぶっし)とその系統の手になるもので、整った厳しい表情のなかに、古式微笑をたたえ、超現実的・象徴的な印象を与える。最古の仏像とされる飛鳥寺飛鳥大仏(金銅像であるが後世の補修が多い)(重要文化財指定名称:銅造釈迦如来坐像)をはじめ、法隆寺金堂釈迦三尊像(金銅像)(国宝名:銅造釈迦如来及両脇侍像〈止利作/(金堂安置)〉)、法隆寺夢殿ゆめどの救世観音像ぐぜかんのんぞう(木像)などが、その代表的な例である。

南陵様式は、温かみがあって崇高な感じを受ける。法隆寺の百済観音像くだらかんのんぞう(木造)が、その代表作である。
これに写実的な味わいをつけたのが、中宮寺の木造菩薩半跏像もくぞうぼさつはんかぞう(木像)や広隆寺の木造弥勒菩薩半跏像もくぞうみろくぼさつはんかぞう(木像)である。いずれも慈愛に満ちた美しさをもっている。

参考 詳説世界史研究

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