源頼家 (
A.D.1182〜A.D.1204)
鎌倉幕府二代将軍。源頼朝と北条政子の子。頼朝の死後家督を継ぎ、1202(建仁2)年征夷大将軍になったが、実権は北条氏が掌握。病を理由に関東 28ヵ国の地頭職および総守護職を子一幡に、西国38ヵ国の地頭職を弟千幡(のちの源実朝)に譲らされた。頼家は舅の比企能員と結び北条氏を除こうとはかったが失敗。比企能員と一幡は北条時政に殺され、頼家は伊豆修禅寺に幽閉され、のち時政に殺された。
源頼家
側近を重用し自滅した二代将軍
源頼家は源頼朝の長男であり、頼朝にとっては36歳で初めて得た男子である。頼朝は大いに喜び、頼家は弓馬に優れる武人として育っていく。頼朝没後は、ごく自然に頼家が源氏の家督を継いだ。
だが、すぐに頼家は自分の思い通りの政治を望むようになり、自分の意に従う側近を重用。将軍権力の強化を図るようになる。こうした頼家の行動は、御家人たちの反発を招き、外戚である比企一族ともども政治の舞台から退けられた。
頼朝が坂東武士をまとめることができたのは、苦労人ゆえに備わった、人間の機微に通じるバランス感覚があったためであり、頼家の物覚えがついた頃には頼朝はすでに坂束の長者となったあとである。生まれながらの御曹司にとって、覇業途上の頼朝の死はあまりにも早すぎるものであった。
ビジュアル版 日本史1000人 上巻 -古代国家の誕生から秀吉の天下統一まで
中世社会の成立
武士の社会
北条氏の台頭
源頼朝のあとを受け継いだのは、嫡子源頼家であった。けれども御家人たちは、18歳の新しい鎌倉殿が、頼朝と同様に強大な権力をもつことを歓迎しなかった。頼朝の死からわずか3ヶ月ののち、北条時政・大江広元・三善泰信ら幕府の宿老たちは、頼家から訴訟(裁判)の裁決権を取りあげた。頼家の活動を制限し、その上で御家人の代表である宿老13人の話し合いによる政治運営を開始した。13人の合議制と呼ばれるものがこれである。
13人の合議制
若年の新将軍頼家の専制をおさえるための制度。構成は、文官として大江広元・三好泰信・中原親能(広元の兄)・二階堂行政の4人。頼朝以来の武将として北条時政・北条義時・三浦義澄・八田知家・和田義盛・比企能員・安達盛長・足立遠元・梶原景時の9人である。当時の幕府の有力者を知ることができる。また制度としては、のちの評定衆や引付衆に連なっていく。
合議の中心に位置したのは、頼家の母北条政子の実家北条氏であった。これ以後、北条氏の台頭は急速に顕著になっていく。
1199(正治元)年の末、源頼家の「第一の郎等」といわれた梶原景時が鎌倉を追放された。文武に優れた彼は源頼朝と頼家から厚い信任を受け、和田義盛にかわり侍所別当にも任じられたが、他の有力御家人から激しい非難をあびて失脚した。翌1200(正治2)年正月、梶原景時の一族は駿河国で襲撃を受け、合戦ののちに滅び去った。同国の守護は北条時政であり、彼の指令が駿河の御家人たちに届いていたものと思われる。
1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、北条時政は政子とはかり、頼家の子一幡と弟千幡を後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員は反発し、時政を討とうと計画したが、逆に比企能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族は一幡もろとも滅ぼされた。
頼家は伊豆修善寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝を名乗った。北条時政は大江広元と並んで政所別当になり、将軍の補佐を名目として政治の実権を握った。この時政の地位は執権と呼ばれ、以後代々北条氏に伝えられていく。
1204(元久元)年、時政は幽閉中の源頼家を殺害し、翌年にはひそかに実朝を退けて娘婿の平賀朝雅を将軍職につけようとした。朝雅は信濃源氏の名門の出身で、当時京都守護として活躍していた。陰謀の一環として、幕府の重臣畠山重忠の一族が滅ぼされた。しかし、この企ては北条政子らの反対にあい、朝雅は京都で殺され、北条時政は引退を余儀なくされた。時政のあとは、その子の北条義時が受け継いだ。