犬養毅
犬養毅(近代日本人の肖像 出典:近世名士写真 其1)©Public Domain

犬養毅


若槻禮次郎

(高橋是清)

斎藤実

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犬養毅 いぬかいつよし( A.D.1855〜A.D.1932)

1882年の立憲改進党結成に参加。1910年、立憲国民党を創立。1922年には改新倶楽部を組織し、護憲運動の中心的政党政治家として活躍。1929年、立憲政友会総裁に就任。1931年に立憲政友会内閣を組織したが、翌32年、五・一五事件で暗殺された。

犬養毅

1882年の立憲改進党結成に参加。1910年、立憲国民党を創立。1922年には改新倶楽部を組織し、護憲運動の中心的政党政治家として活躍。1929年、立憲政友会総裁に就任。1931年に立憲政友会内閣を組織したが、翌32年、五・一五事件で暗殺された。

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軍部の凶弾に倒れた憲政の神様

政党政治家としての歩み 護憲運動のリーダーに

福澤諭吉の慶應義塾に学んだ犬養毅は、ジャーナリストを経て、福沢と大隈重信のつながりから官吏となったが、1881(明治14)年の政変で大隈が下野すると、同志の尾崎行雄らと辞職、大隈を党首に立憲改進党を結成し、政党政治家の道を歩み始めた。

大隈の参謀として党の要職をこなし大同団結運動などで活躍。1890年に第1回衆議院選挙に出馬し以後第18回まで連続当選する。初の政党内閣の第一次大隈内閣では初入閣を果たした。

1913(大正2)年の第一次護憲運動による大正政変で、藩閥政治弾劾の先頭に立ち、第三次桂太郎内閣を打倒し尾崎と並び「憲政の神様」として国民的人気を得た。翌年、長州閥後援の第二次大隈内閣で入閣要請を拒否、21カ条要求などの対中国政策を批判した。

1918年に原敬による本格的政党内閣が成立。原暗殺後には政友会の高橋是清が政権を継ぐが、その後は軍閥の首相が続き、貴族院を基礎にした清浦奎吾ない各区の発足に反発した国民は政党内閣の復古と普通選挙を望み、第二次護憲運動が起こる。革新倶楽部を率いた犬養は、政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明と提携し、護憲三派を結成、政党内閣を復活させ、普通選挙法を実現した。

政界引退から首相へ 五・一五事件と後遺症

五・一五事件ー東京日日新聞
五・一五事件ー東京日日新聞 ©世界の歴史まっぷ

その後、犬養は一度政界を引退。ところが地元人気は衰えず、犬養引退の補欠選挙で、本人の知らぬまま犬養自身が当選してしまう。また、政友会総裁

の田中義一が急死すると党内の後継争いが激化し、融和派の懇請により政界に復帰、犬養は政友会総裁に就任する。

犬養復帰後、民政党の浜口雄幸首相が右翼テロに倒れ、後継同党の第二次若槻礼次郎内閣は満州事変勃発による内閣不一致で総辞職。「憲政の常道」の慣習により政友会総裁の犬養に、ついに組閣の大命が降下した。

犬養内閣は、高橋是清を大蔵大臣に据えて公債発行による積極財政を展開。満州事変に対しては外交交渉による解決を目指すが軍部の暴走は止まず、上海事変や満州国建国などが起こった。

1932(昭和7)年5月15日、犬養首相官邸を過激派の海軍青年将校らが襲撃し、犬養は狙撃され落命した。「話せばわかる」「問答無用」のやりとりはその後の伝説ともされるが、犬養が武装将校の乱入にも気圧されず、政党政治家らしく毅然とした態度で説得を試みたことは確かだったという。

犬養の死後、政党政治は揺らぎ、政治家たちはテロを恐れて軍部に批判的な言動を控えるようになる。挙国一致の名のもとに軍人の首相が頻出し、日本は軍国主義の時代を迎えていく。

高節の人:犬養は当時藩閥の頂点として隠然たる権力を持っていた山県有朋にまったく擦り寄ることがなかった。ただ、その高節や生来の毒舌が災いすることも多く、常に少数政党で苦労を強いられた。

参考 ビジュアル版 日本史1000人 下巻

近代国家の成立

立憲国家の成立と日清戦争

政党の成立

政党の結成

政党代表者主要人物主張内容支持層機関紙
自由党
1881〜84
板垣退助
(総理=党首)
星亨
中島信行
後藤象二郎
フランス流の急進的自由主義、一院制、主権在民、普通選挙士族・豪農・自作農自由新聞
立憲改進党
1882〜96
大隈重信
(総理=党首)
犬養毅
尾崎行雄
矢野龍渓
イギリス流の漸進的立憲主義、二院制、君臣同治、制限選挙知識層・実業家郵便報知新聞
立憲帝政党
1882〜83
福地源一郎丸山作楽国粋主義の欽定憲法論、二院制、主権在君、制限選挙官吏・神官・僧侶東京日日新聞
参考:山川 詳説日本史図録 第7版: 日B309準拠

立憲改進党は「王室ノ尊栄ヲ保チ、人民ノ幸福ヲ全フスル事」「内治ノ改良ヲ主トシ、国権ノ拡張二及ボス事」などを綱領とし、イギリス流の立憲主義の立場に立って、行動も比較的穏健な漸進主義で、知的・合理的なインテリ臭が強かった。自由党と同じく豪農・地主・商工業者ら地方有力者層が地盤であったが、党の指導者には都市の知識層が大きな比重を占め(いわゆる都市民権派)、とくに大隈とともに下野した旧官吏や慶應義塾出身者が多く加わっていた。幹部には大隈以下、河野敏鎌(1844〜95)·矢野文雄(1850〜1931)·沼間守一(1843〜90)・小野梓(1852〜86)·島田三郎(1852〜1923)·犬養毅(1855〜1932)·尾崎行雄(1858〜1954)らがいた。

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同時代の人物

孫文 (1866〜1925)

中国革命の指導者。三民主義を主張。1905年、東京で中国同盟会を組織。辛亥革命後の1912年南京の中華民国臨時政府の臨時大総統となるが、まもなく袁世凱に譲位。のち袁と対立、日本に亡命。五・四運動後は連ソ容共政策を掲げ、時局収拾中に北京で死去。犬養毅は1911(明治44)年に孫文の辛亥革命援助のため中国にわたる。また日本亡命中の孫文を自らの生家にかくまった。

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