空海
絹本著色弘法大師画像(愛媛県指定有形文化財)金峯山 長谷寺より

空海


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空海くうかい (宝亀5(774)〜承和2(835))
平安時代初期の僧。真言宗の開祖。諡号:弘法大師こうぼうだいし
804年入唐。長安で恵果けいかから密教を学び、806年帰国。真言宗を開く。嵯峨天皇の保護のもと、819年高野山に金剛峰寺こんごうぶじを建立。823年に京都教王護国寺東寺とうじ)を賜る。

空海

律令国家の形成

平安朝廷の形成

唐風文化と平安仏教

平安京に遷都してから9世紀末ころまでの文化を、嵯峨天皇・清和天皇の時代の元号をとって弘仁・貞観文化こうにん・じょうがんぶんかと呼んでいる。
この時代は、政治的には新しい都で律令制を改革して文章経国もんじょうけいこくがはかられ、文人貴族が登用されることもあった。貴族たちは平安京において都市貴族化する一方、文化的には唐文化を摂取して自らのものに消化した段階を迎え、宮廷で漢文学が発展した。また仏教では、新たに最澄や空海らによって伝えられた天台宗・真言宗が広まり、密教が盛んになったという特色をもつ。

平安新仏教

奈良時代の後半には仏教が政治に深く介入して、過度な仏教中心政策がとられる弊害もあったことから、桓武天皇は、遷都に伴って南部の大寺院を長岡京・平安京に移転することを認めず、最澄空海らによってもたらされた、従来の国家仏教とは異なる新しい仏教を志向する仏教界の動きを支持した。

讃岐に生まれた空海は、はじめ大学に入ったが、儒教・仏教・道教の3者における仏教の優位を論じた『三教指帰さんごうしいき』を著して仏教に身を投じた。のち、最澄と同時の804(延暦23)年の遣唐使に従って入唐、長安で密教の奥義を極めて2年後に帰国し、紀伊(和歌山県)の高野山こうやさん金剛峰寺こんごうぶじを建てて、真言宗を開いた。真言は大日如来の真実の言葉の意で、その秘奥ひおうなことを指して密教と呼ばれ、釈迦の教えを経典から学び修行して悟りを開こうとする顕教けんぎょうに対して、秘密の呪法の伝授・習得により悟りを開こうとするものである。空海は『十住心論じゅうじゅうしんろん』でこの密教の立場を明らかにしている。密教の根本道場としては、金剛峰寺のほか、空海が嵯峨天皇から賜った平安京の教王護国寺きょうおうごこくじ東寺とうじ)がある。
東寺などを中心とした真言宗の密教を東密とうみつと呼ぶ。

書道

書道では、唐風文化の隆盛に応じて唐風の書(唐様からよう)が広まり、嵯峨天皇・空海・橘逸勢たちばなのはやなりらが能書家として知られ、のち三筆さんぴつと称せられた。空海が最澄に送った書状の『風信帖ふうしんじょう』は、闊達かったつな唐様の名筆として名高い。

弘仁・貞観文化
風信帖

漢文学の隆盛

嵯峨天皇は、法典を編纂するとともに、中国風の文化を重んじ、日本在来の風習に多くの唐風の儀礼を取り入れてさまざまな宮廷の儀式を整え、確立した。嵯峨天皇の時に『内裏式』が撰され、のちの儀式署に続いていく。儀式の整備は、法典や歴史書の編纂とならんで、文化と結びついた国家経営の一環として重視されたものである。
また、平安宮内の殿舎に唐風の名称をつけたほか、文章経国もんじょうけいこくの思想に基づいて政界に文人・学者を登用するとともに、宮廷で漢詩文を詠む宴をしばしば催した。

もともと古代貴族の教養として漢詩文をつくることは重視されており、奈良時代にも漢詩集として『懐風藻』が編まれたが、9世紀前半の嵯峨天皇・淳和天皇のころには、814(弘仁5)年に小野岑守おののみねもりら撰の『凌雲集りょううんしゅう』、818(弘仁9)年に藤原冬嗣・仲雄王なかおのおおきみら撰の『文華秀麗集ぶんかしゅうれいしゅう』、827(天長4)年に良岑安世よしみねのやすよ滋野貞主しげののさだぬしら撰の『経国集』といった3つの勅撰漢詩文集が相次いで編まれ、漢文学が盛んになった。漢詩文を自らのものとし習熟した表現を持つ作品が作られるようになり、嵯峨天皇や空海・小野篁おののたかむら都良香みやこのよしか、そしてやや遅れて菅原道真すがわらのみちざねらが優れた作者として知られている。この時代が、文学史における「国風暗黒時代」と称されるほどである。

空海は、漢詩文作成についての評論ともいえる『文鏡秘府論ぶんきょうひふろん』を著し、また空海の詩文を集めた『性霊集しょうりょうしゅう』(『遍照発揮性霊集へんじょうほっきしょうりょうしゅう』)が編まれるなど、入唐の経験を受けて優れた文才を示した。

文章経国もんじょうけいこくの思想に応じて、大学での学問も盛んとなり、儒教を学ぶ明経道みょうぎょうどうのほか、中国の歴史・文学を学ぶ紀伝(文章もんじょう)道が重んじられた。有力な氏族は一族子弟の教育のために、大学別曹だいがくべっそうを設けた。これは大学に付属する寄宿施設的なもので、学生がくしょうたちは学費の支給を受けて、書籍を利用しながら大学で学んだ。和気氏の弘文院こうぶんいん、藤原氏の勧学院かんがくいん、橘氏の学館院がくかんいん、在原氏の奨学院しょうがくいんなどが知られる。大学は儒教的教養を身につけた官僚を養成する目的をもっていたが、空海が創設した綜芸種智院しゃげいしゅちいんは、庶民に教育の門戸を開いたことで名高い。

貴族政治と国風文化

国風文化

仮名の音節

『万葉集』の仮名には静音と濁音の別があり、また、エキケコソトノヒヘミメヨロの13音が2種にわかれ、合計87の音節があった。この区別は奈良時代から乱れ始め、9世紀初めの延暦年間に習字の手本として用いられた「あめつちの詞」では、
「あめ(天)つち(地)ほし(星)そら(空)やま(山)かは(川)みね(峰)たに(谷)くも(雲)きり(霧)むろ(室)こけ(苔)ひと(人)いぬ(犬)うへ(上)すゑ(末)ゆわ(硫黄)さる(猿)おふせよ(育せよ)えのえを(榎の枝を)なれゐて(馴れ居て)」
という48文字となった。なお「いろは歌」はこれから「江」を除いた47字からなっており、平安初期に存在していたと考えられるア行の「エ」とヤ行の「エ」の区別がされていない。
「いろは歌」は、空海の作ともいわれるが、おそらく平安時代の中期以後のものであろう。
また「五十音図」は、インドの梵字ぼんじの知識をもとに日本語の音節組織を図式化したものである。吉備真備の作ともいわれるが、これには真言宗の僧侶が関係したと考えられる。

平安仏教

  天台宗 真言宗
開祖 最澄(伝教大師)(767〜822))
最澄
最澄像 一乗寺蔵(国宝) ©Public Domain
空海(弘法大師)(774〜835)
空海
絹本著色弘法大師画像(愛媛県指定有形文化財)金峯山 長谷寺より
開宗 785年比叡山に草堂を造営(のちの延暦寺)。
804年入唐。805年帰国し翌年天台宗を開く。
『山家学生式』を定め大乗戒壇だいじょうかいだん設立を上奏、没後7日目に勅許(822)。
804年入唐。長安で恵果から密教を学び、806年帰国
嵯峨天皇の保護のもと、819年高野山に金剛峰寺こんごうぶじを建立。
823年京都教王護国寺(東寺)を賜る。
教義 法華経ほけきょうを中心経典とし、人間の仏性の平等(仏の前における絶対平等)を説いた。 大日経だいにちきょう金剛頂経こんごうちょうきょうが中心経典。加持祈祷で現世利益が得られ、秘密の呪法(真言)で悟りを開けると説いた。
著作 顕戒論けんかいろん』(820)
大乗戒壇設立の正当性を主張
三教指帰さんごうしいき
儒教・仏教・道教の優劣を説く
十住心論じゅうじゅうしんろん
悟りに至る過程を説く
密教 最澄の弟子円仁えんにん円珍えんちんは天台宗の密教化をすすめた。台密 本来密教であって、加持祈祷が仏事の中心。東密
発展 円仁・円珍によって天台教団の基礎が大成。993年円珍派が園城寺(三井寺)に移り、寺門派(園城寺)と山門派(延暦寺)とに分裂・対立。 真言密教の加持祈祷や、即身成仏の教えにみる現世利益的傾向が、皇族・貴族の指示を受けて発展。密教流行をもたらす。
影響 法華経の絶対平等の思想が鎌倉新仏教を生む。 天台密教とともに祈祷儀式に影響
性格 山岳仏教の性格
②鎮護国家や現世利益げんぜりやくを求める仏教
③南部六宗の学問研究中心である顕教に対し、密教を取り入れ、加持祈祷(手で印を結び、陀羅尼を唱えて仏の加護を祈る呪術)が中心
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空海が登場する作品

空海

弘法大師空海入定1150年を記念して製作された1984年の映画。空海を北大路欣也、最澄を加藤剛、桓武天皇を丹波哲郎、嵯峨天皇を西郷輝彦が演じています。
空海(映画)登場人物とあらすじ – 世界の歴史まっぷ

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東映ビデオ
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外部リンク

高野山真言宗 総本山金剛峯寺

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