聖武天皇
聖武天皇像(作者不明/鎌倉時代)©Public Domain

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聖武天皇しょうむてんのう A.D.701〜A.D.756
第45代天皇(在位724年3月3日 - 749年8月19日)。大宝元(701)年生まれ。文武天皇の皇子。母は藤原不比等の娘宮子。元正天皇の譲位をうけ即位。蝦夷の反乱、長屋王の変、天然痘の大流行、藤原広嗣の乱など、政情・世情が安定せず、たびたび都をうつした。仏教に帰依して諸国に国分寺、国分尼寺をたて、東大寺の大仏造立をすすめた。別名は首皇子おびとのみこ

聖武天皇

律令国家の形成

藤原氏の進出と政界の動揺

皇位継承をめぐって、藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人に入れて生まれた皇子(聖武天皇)の即位をはかり、娘の光明子こうみょうしをも聖武天皇の夫人として、天皇家と藤原氏との密接な結びつきを築いた。不比等の子の武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい麻呂まろの4兄弟も、次第に政界に重きを占めるようになって行った。この4兄弟は、それぞれのちの藤原氏の南家・北家・式家・京家の家計の祖となった。
720(養老4)年に不比等が死ぬと、壬申の乱で活躍した高市皇子たけちのみこ天武天皇の皇子)の子の長屋王が政界の首班となったが、聖武天皇の次の皇位継承に不安を感じた藤原4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣の長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てて天皇との結びつきを強めることに成功した。

その後、皇族出身の橘諸兄たちばなのもろえが政権を握り、新しい知識を身につけて唐から帰国した玄昉げんぼう吉備真備きびまきびが、聖武天皇の信任を得て政治に活躍した。
一方で天平の時代には各地で飢饉や疫病が続き、社会の動揺も広まっていった。740(天平12)年には、後退した藤原氏の中から式家宇合うまかいの長子で大宰府に赴任した藤原広嗣ふじわらのひろつぐが、玄昉・吉備真備らの排除を求めて九州で兵を動員し、乱をおこした(藤原広嗣の乱)。乱は中央から派遣された大軍との激戦ののち鎮圧されるが、政府の動揺はおさまらず、それから数年の間、聖武天皇は恭仁京くにきょう(京都府木津川市)・難波京なにわきょう(大阪市)・紫香楽宮しがらききゅう(滋賀県甲賀市)などに都を転々と移すことになった。

こうした政治情勢と社会的不安のもと、仏教を厚く信仰していた聖武天皇は、仏教のもつ鎮護国家ちんごこっかの思想によって国家の平和と安定をはかろうとした。
741(天平13)年には国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺をもうけさせることにした。七重塔を建て、丈六じょうろくの釈迦像を安置し、金剛妙最勝王経など護国の経典を備えさせ、国分寺には僧20人、国分尼寺には尼10人ずつおくことにした。国分寺・国分尼寺の伽藍造営は全国的な大事業であり、すぐには完成せず、こののち諸国では郡司など地方豪族の助けを得て国分寺・国分尼寺の造営事業が続いた。

ついで743(天平15)年には紫香楽宮で大仏造立の詔が出された。仏教による天下の安定を願う中で、聖武天皇は「天下の富を有つ者は朕なり、天下の勢を有つ者も朕なり。この富勢を以て、この尊像を造る」といいつつ、一枝の草、一把の土をもって造像に参加することを人々に呼びかけている。
745(天平17)年に再び平城京にもどると、造仏事業は奈良に移され、大仏造立には結局10年の歳月を要した。聖武天皇が娘の孝謙天皇こうけんてんのうに譲位して太上天皇だいじょうてんのうとなった時代の752(天平勝宝4)年に、高さ5丈3尺5寸(約16.1m)の東大寺大仏がようやく完成し、盛大な開眼供養の儀式が行われた。この儀式は、聖武太上天皇・光明皇太后・孝謙天皇が臨み、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ僧1万人が参列する盛儀であった。

参考

聖武天皇と藤原氏の関係図

聖武天皇
聖武天皇と藤原氏の関係図 ©世界の歴史まっぷ

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