薪水給与令 (1806, 1842)
幕府による異国船取扱い令。異国船の穏便な帰帆、漂流船への薪水(燃料と水)・食料支給を命じた。1806年の文化の薪水給与令(文化の撫恤令)は25年の異国船打払令で廃止。アヘン戦争の結果、1842年の天保の薪水給与令により、幕府は25年の異国打払令を緩和する命令を再度発令。
薪水給与令
幕府による異国船取扱い令。異国船の穏便な帰帆、漂流船への薪水(燃料と水)・食料支給を命じた。1806年の文化の薪水給与令(文化の撫恤令)は25年の異国船打払令で廃止。アヘン戦争の結果、1842年の天保の薪水給与令により、幕府は25年の異国打払令を緩和する命令を再度発令。
幕藩体制の動揺
幕府の衰退
列強の接近
列強の接近と幕府の対応
徳川 | 列強の接近 | 元号 | 幕府の対応 | |||
---|---|---|---|---|---|---|
家治 | 1778〜79 | 露 | ナタリア号が、蝦夷地に来航 (通商を求めたが松前藩は拒否) | 天明 | 1783 | 工藤平助の『赤蝦夷風説考』の意見採用 |
1784 | 田沼意次による蝦夷地開拓を計画 | |||||
1786 | 最上徳内を蝦夷地へ派遣 | |||||
家斉 | 1792 | 使節ラクスマン根室に来航。漂流民(大黒屋光太夫ら)を伴い、エカチェリーナ2世の命で通商を要求 (幕府は通商を拒絶。長崎入港を許可する証明書〈信牌〉を渡し、帰国させる) | 寛政 | 1792 | 林子平が『三国通覧図説』『海国兵談』で海防を説いたことを幕府批判として処罰 | |
1798 | 近藤重蔵・最上徳内ら、択捉島を探査(「大日本恵土呂府」の標柱をたてる) | |||||
1799 | 東蝦夷地を直轄地とする | |||||
1800 | 伊能忠敬、蝦夷地を測量 | |||||
1804 | 使節レザノフ、長崎に来航 (通商を要求するが、幕府は拒絶) | 文化 ・ 文政 | 1806 | 文化の撫恤令(親水給与令) | ||
1807 | 松前藩と蝦夷地をすべて直轄(松前奉公の支配下のもとにおき、東北諸藩を警護にあたらせる)。近藤重蔵、西蝦夷地を探査 | |||||
1808 | 英 | フェートン号事件 (英軍艦フェートン号、長崎に侵入) | 1808 | 間宮林蔵、樺太とその対岸を探査(間宮海峡の発見) | ||
1810 | 白河・会津両藩が江戸湾防備を命じられる | |||||
1811 | 露 | ゴローウニン事件 (露軍艦長ゴローウニン、国後島に上陸して捕らえられ、函館・松前に監禁) | 1813 | 高田屋嘉兵衛の送還でゴローウニンを釈放 | ||
1821 | 蝦夷地を松前藩に還付 | |||||
1824 | 英 | 英船員、大津浜に上陸(常陸) 英船員、宝島に上陸(薩摩) | 1825 | 異国船打払令(無二念打払令) | ||
1828 | シーボルト事件 | |||||
家慶 | 1837 | 米 | モリソン号事件 (米船モリソン号、浦賀と山川で砲撃される) | 天保 | 1839 | 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英らを処罰) |
1842〜42 | 英 | アヘン戦争 (清が英に敗れ、南京条約を締結) | 1842 | 天保の薪水給与令(異国船打払令を緩和) | ||
1846 | 米 | 米東インド艦隊司令長官ビッドル、浦賀に来航 | 弘化 ・ 嘉永 | 1844 | オランダ国王開国勧告(幕府は拒絶) | |
家定 | 1853 | 米東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。 | 1846 | ビッドルの通商要求拒絶 | ||
1853 | 露 | 使節プチャーチン、長崎に来航 | 1853 | 大船建造の禁を解く | ||
1854 | 日米和親条約・日露和親条約・日英和親条約締結 | |||||
1855 | 日蘭和親条約締結 |
- 幕藩体制の動揺
近代国家の成立
開国と幕府の動乱
開国
東アジア世界の激動を告げるアヘン戦争(1840〜42)についての情報は、オランダ船・中国船によりいち早く日本に伝えられ、幕府に強い衝撃を与えた。1842(天保13)年にオランダ船が、アヘン戦争終結後にイギリスが通商要求のため軍艦を派遣する計画があるという情報をもたらすと、幕府は異国船打払令を緩和して薪水給与令を出し、漂着した外国船には薪水·食糧を与えることにした。これは、打払令により外国と戦争になる危険を避けるためであった。そして、江戸湾防備のため川越藩と忍藩に警備を命じ、江戸・大坂周辺の支配を強化するため上知令を出し、さらに外国船が上方や東北地方から江戸湾に入る廻船を妨害して江戸に物資が入らなくなる危険ヘの対策として、印旛沼の掘割工事を行うなどの対応策をとろうとした。
おすすめ! たてやまフィールドミュージアム 幕末の東京湾警備