西ローマ帝国( A.D.395〜A.D.476)
395年テオドシウス1世の死後東西に2分されたローマ帝国のうち、ホノリウスが受継いだ帝国の西半分をよぶ。皇帝権が弱体化していき、ゲルマン人傭兵出身の将軍が実権を握ってゲルマン人との侵入と戦うという事態となり、大土地所有者は帝国の支配権を脱して田園で独立していく傾向を強め、都市の衰亡もはなはだしかった。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位されて、西ローマは滅亡した。
西ローマ帝国
首都:メディオラーヌム(現ミラノ、286年-402年)、ラウェンナ(現ラベンナ、402年-476年)
オリエントと地中海世界
ローマ世界
専制ローマ帝国
4世紀後半、帝国はササン朝の侵入をうけ、フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス帝は東方遠征中に戦死し、また北方と西方には民族大移動(ゲルマン人の大移動)が生じ、ゴート族などの新興ゲルマン人の侵入がさかんで、378年のハドリアノポリスの戦いではウァレンス帝が戦死した。ガリア・スペインにはバガウダエと呼ぶ貧農の反乱が、北アフリカにはキリスト教の異端キルクムケリオーネスの騒乱がおこるなど、帝国の内憂外患は深刻化していった。
コンスタンティノポリスへの遷都は、帝国の中心が東方ギリシア世界に移ったことを意味しており、帝国の東西への分離傾向は強まって行ったが、テオドシウス帝がその死に対してアルカディウスとホノリウスの2子に分割して与えて以後、東西の帝国は2度と統一されなかった。西ローマでは皇帝権が弱体化していき、ゲルマン人傭兵出身の将軍が実権を握ってゲルマン人との侵入と戦うという事態となり、大土地所有者は帝国の支配権を脱して田園で独立していく傾向を強め、都市の衰亡もはなはだしかった。そして476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって皇帝が廃位されて、西ローマは滅亡した。
一方、東ローマ帝国はゲルマン人の侵入を受けることが比較的少なく、アンティオキア、アレクサンドリアなどのギリシア都市がコンスタンティノポリスとともに繁栄を続け、自由農民も存続して専制国家体制がなお1000年余り続いた。
- 専制ローマ帝国 – 世界の歴史まっぷ
皇帝一覧
テトラルキア時代
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ディオクレティアヌス 東ローマ | 244年12月22日サロナ(属州ダルマティア) | 284年11月20日 – 305年5月1日 | 属州民出身の軍人皇帝。内乱に決着を付けて専制君主制を確立させた。また共同皇帝による東西分割を導入、自らは東方正帝を務めた。 | 311年12月3日自然死 |
マクシミアヌス 西ローマ | 250年頃シルミウム(属州パンノニア) | 286年4月1日 – 311年5月1日 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの側近として共同皇帝(西方正帝)に任命される。ディオクレティアヌスの引退に合わせて自らも退位する。 | 310年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
ガレリウス 東ローマ | 260年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 311年5月頃 | 属州民出身の将軍。ディオクレティアヌスの後を継いで皇帝となり、共同皇帝コンスタンティウスと共に東西分立制を維持する。 | 311年自然死 |
コンスタンティウス・クロルス 西ローマ | 250年3月31日ダルダニ(属州モエシア) | 305年5月1日 – 306年7月25日 | クラウディウス2世とクィンティッルスの末裔(正確にはクラウディウス2世とクィンテッルスの姪クラウディアの末裔)を自称。ガレリウスの共同皇帝(西方正帝)となった。 | 306年7月25日自然死 |
フラウィウス・ウァレリウス・セウェルス 西ローマ | 不明 | 306年夏 – 307年前半 | 属州民出身の将軍。ガレリウスの寵愛を受けてコンスタンティウス死後の共同皇帝(西方正帝)となるが、その息子コンスタンティヌス1世とマクシミアヌスの息子マクセンティウスに反乱を起され敗北する。 | 307年9月16日マクセンティウスにより処刑される |
マクセンティウス 西ローマ | 278年頃 | 306年10月28日 – 312年10月28日 | マクシミアヌスの息子。父の援助を得て反乱を起こし、西方帝位を簒奪する。同じく西方正帝経験者の子息であるコンスタンティヌスを副帝にするも、後に反旗を翻されて帝位を追われる。 | 312年10月28日コンスタンティヌス1世の軍勢に敗死 |
リキニウスとマルティアヌス、バレリウス・バレンス 東ローマ | 250年頃フェリクス・ロムリアナ(属州モエシア) | 308年11月11日 – 324年9月18日 | ガレリウスの側近。先帝の甥であるマクシミヌスを破って東方正帝となり、コンスタンティウスと手を結んでマクセンティウスを失脚させた。更にマルティアヌス、バレリウス・バレンスら傀儡の共同皇帝を立ててコンスタンティウスとも争うが、逆に敗れて帝位を失う。 | 325年頃コンスタンティヌス1世により処刑される |
マクシミヌス・ダイア 東ローマ | 270年11月20日 | 311年5月1日 – 313年後半 | ガレリウスの甥。叔父の死後にリキニウスと帝位を争うも、敗れて戦死した。 | 313年後半リキニウスの軍勢に敗死 |
コンスタンティヌス1世 西ローマ | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日 – 337年5月22日 | コンスタンティウス・クロルスの息子。マクセンティウスと協力してまずウァレリウスを幽閉し、その副帝として台頭する。その後の反乱で西方帝位を獲得、更にリキニウス軍を破り、東西分立の一時廃止と自らの王朝成立を推進した。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
コンスタンティヌス1世 | 272年2月27日ナイッスス(属州モエシア) | 306年7月25日–337年5月22日 | コンスタンティヌス朝の創始者で「大帝」と尊称される。キリスト教を公認したことから聖人として列福されている。自身の死後は息子三人と甥二人による五人の分治を画策する。 | 337年5月22日自然死 |
コンスタンティヌス2世 | 316年 | 337年5月22日–340年 | コンスタンティヌス1世の長男。父の死後、次男コンスタンティウス2世と三男コンスタンス1世と共に皇帝となる。兄弟間の内戦に敗れ、弟コンスタンス1世に処刑された。 | 340年コンスタンス1世により処刑される |
コンスタンティウス2世 | 317年8月7日シルミウム(属州パンノニア) | 337年5月22日–361年11月3日 | コンスタンティヌス1世の次男。即位に際して父の遺言により共治するはずだった従兄弟の二人を殺害しその後、兄弟間の内乱を終結させて、唯一の後継者となる。更に共同皇帝に据えていたヴェトラニオを退位させ、父と同じ単独皇帝としての地位を手に入れる。しかし共同帝の必要を感じ、始めは従兄弟のガルスを、後にその弟のユリアヌスを副帝に任じる。 | 361年11月3日自然死 |
コンスタンス1世 | 320年 | 337年5月22日–350年 | コンスタンティヌス1世の三男。長男コンスタンティヌス2世との内乱を制するも、将軍マグネンティウスの裏切りにより落命する。 | 350年マグネンティウスにより暗殺される |
ウェトラニオ | 不明 | 不明–350年12月25日 | コンスタンティヌス1世の側近。大帝の遺児による内戦の最中に反乱を起こすが、コンスタンティウス2世により共同皇帝として懐柔される。その後、マグネンティウスを討伐したコンスタンティウス2世に圧力を受け、共同皇帝から退位して将軍に復帰する。 | 356年自然死 |
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス | 332年(331年)コンスタンティノープル(属州トラキア) | 360年初頭–363年6月26日 | コンスタンティヌス1世の甥。従兄弟であるコンスタンティウス2世により後継者に指名される。叔父によるキリスト教の庇護を廃止したことから「背教者」と蔑称された。 | 363年6月26日遠征中に戦傷死 |
ヨウィアヌス | 331年シグドゥヌム(属州モエシア) | 363年6月26日–364年2月17日 | ユリアヌスの側近。ユリアヌスが遠征先で後継者を指名せず、跡継ぎも残さずに急死したことから、遠征軍の支持を得て皇帝となる。遠征からの帰還途中に火鉢によるガス中毒で事故死した。 | 364年2月17日事故死 |
ウァレンティニアヌス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ウァレンティニアヌス1世 西ローマ | 321年キバラエ(属州パンノニア) | 364年2月26日 – 375年11月17日 | ユリアヌスの側近。ヨウィアヌスの病死に伴い、遠征軍から支持されて皇帝即位を宣言する。帰国後は弟ウァレンスを東方担当の共同皇帝とし、蛮族侵入が本格化する中で優れた軍功を上げた。 | 375年11月17日自然死 |
ウァレンス 東ローマ | 328年キバラエ(属州パンノニア) | 364年3月28日 – 378年8月9日 | ウァレンティニアヌス1世の弟。兄の共同皇帝となり、その死後は兄の息子達の後見人を務める。ハドリアノポリスの戦いでゴート軍に敗れて戦死する。 | 378年8月9日ゴート軍との戦いで敗死 |
グラティアヌス 西ローマ | 359年 シルミウム (属州パンノニア) | 367年8月4日 – 383年8月25日 | ウァレンティニアヌス1世の長男。父の死後に西方担当の皇帝位を継承する。叔父ウァレンスの死後は新しい東方担当の皇帝にテオドシウスを抜擢した。アグヌス・マキシムスによる反乱で戦死。 | 383年8月25日アグヌス・マキシムスにより暗殺される |
ウァレンティニアヌス2世 西ローマ | 371年ミラノ (イタリア本土) | 375年11月17日 – 392年5月15日 | ウァレンティニアヌス1世の次男。アグヌス・マキシムスの反乱で兄が死亡するとテオドシウスの元へ逃亡、その庇護で兄の帝位を継承した。 | 392年5月15日暗殺 |
テオドシウス朝
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
テオドシウス1世 東ローマ | 347年1月11日カウカ(属州ヒスパニア) | 379年1月1日 – 395年1月17日 | ローマ軍の将軍であった大テオドシウスの息子として生まれ、ウァレンティニアヌス朝で自らも栄達する。 グラティアヌスによって共同皇帝とされた後、その異母弟ウァレンティニアヌス2世の死によって単独皇帝となった。 | 395年1月17日自然死 |
アルカディウス 東ローマ | 377年 | 383年1月 – 408年5月1日 | テオドシウス1世の長男。東方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(東ローマ帝国)。 | 408年5月1日自然死 |
ホノリウス 西ローマ | 384年9月9日 | 393年1月23日 – 423年8月15日 | テオドシウス1世の次男。西方担当の皇帝となるが、この時代から東西分割の深化が進んでいく(西ローマ帝国)。 | 423年8月15日自然死 |
コンスタンティウス3世 西ローマ | 生年不明ナイッスス(属州モエシア) | 421年2月8日 – 421年9月2日 | テオドシウス1世の娘婿で、アルカディウスとホノリウスの義弟。ホノリウスの共同皇帝を務める。 | 421年9月2日自然死 |
テオドシウス2世 東ローマ | 401年4月10日コンスタンティノープル(属州トラキア) | 408年5月1日 – 450年7月28日 | アルカディウスの息子。テオドシウスの大城壁など、帝国東方の防衛強化を進める。跡継ぎを持たないまま病没したため、姉の夫マルキアヌスを後継者に指名する。 | 450年7月28日自然死 |
ヨハンネス 西ローマ | 不明 | 423年8月27日 – 425年5月 | ホノリウス死後、テオドシウス朝を疎んだ元老院から推挙される。しかしテオドシウスの孫であるウァレンティニアヌス3世に敗れて退位させられた。 | 425年5月ウァレンティニアヌス3世により処刑される |
ウァレンティニアヌス3世 西ローマ | 419年7月2日ラヴェンナ(イタリア本土) | 424年10月23日 – 455年3月16日 | コンスタンティウス3世の息子で、テオドシウス1世の孫。ヴァンダル族やフン族の侵略により西方領土の弱体化が進む。跡継ぎを持たないままに暗殺される。 | 455年3月16日ペトロニウス・マキシマスにより暗殺される |
マルキアヌス 東ローマ | 396年 | 450年夏 – 457年1月 | テオドシウス2世の義兄(姉の夫)。義弟同様に跡継ぎに恵まれず、彼とその妻の死によってテオドシウス家は断絶した。 | 457年1月自然死 |
西方帝位
名称 | 生年と誕生地 | 在位期間 | 即位背景 | 没年と死因 |
---|---|---|---|---|
ペトロニウス・マクシムス | 396年 | 455年3月17日–455年5月31日 | 元老院議員。ウァレンティニアヌス3世の暗殺によって西方におけるテオドシウス朝断絶を画策した。元老院の支持によって帝位を得たが、ヴァンダル族の前に首都を捨てて逃亡、激怒した民衆に投石されて死亡した。 | 455年5月31日民衆による投石で死亡 |
アウィトゥス | 385年 | 455年7月9日–456年10月17日 | フン族を破った将軍アエティウスの側近。西ゴートとの交渉中にペトロニウスの失脚を知り、ゴート軍の助力を得てローマを占領する。西ゴート撤退後、蛮族出身の軍務長官リキメルに謀殺される。 | 456年10月17日リキメルにより暗殺される |
マヨリアヌス | 420年11月 | 457年4月–461年8月2日 | アウィトゥスの同僚。リキメルによって傀儡として擁立されるも、影響下を脱して独自に統治を行う。優れた手腕で西方領土の再建を進めるが、志半ばでリキメルに暗殺される。 | 461年8月2日リキメルにより暗殺される |
リウィウス・セウェルス | 生年不明ルカーニア(イタリア本土) | 461年11月–465年8月 | 元老院議員。リキメルの傀儡としてマヨリアヌス暗殺後に皇帝となる。リキメルに従順に従うも、不要と判断されて4年後に毒殺される。 | 465年リキメルにより暗殺される |
アンテミウス | 420年 | 467年4月12日–472年7月11日 | 東方正帝マルキアヌスの娘婿。リキメルの傀儡として皇帝となるも、東ローマの後ろ盾で独立を図る。 | 472年7月11日リキメルにより暗殺される |
オリュブリウス | 420年 | 472年7月11日–472年11月2日 | ウァレンティニアヌス3世の娘婿。リキメル病没後、ヴァンダル軍の協力を得て帝位を奪うが、自らも流行病に倒れる。 | 472年11月2日自然死 |
グリュケリウス | ? | 473年3月–474年6月 | アニシウス氏族出身。ブルグント族のグンドバルト王の協力で帝位を奪い取るが、東方正帝レオ1世の支持を得たユリウス・ネポスに追放される。 | 480年以降サロナにて病没 |
ユリウス・ネポス | 430年 | 474年6月–475年8月28日(イタリア)–480年春(ダルマティア) | ダルマティア海軍の提督マルケリヌスの甥で、東方正帝レオ1世の娘婿。東方領土の強い支持でグリュケリウスを追放して皇帝となる。蛮族の軍師オレステスの裏切りで追放され、ダルマティアへ亡命する。新たな東方正帝ゼノンからは正式な「西方の共同皇帝」と見なされ、ロムルス・アウグストゥルスとオレステスを追放したオドアケルからも承認されていた。しかしその存在を危険視したオドアケルの翻意で刺客を送られ、暗殺される。 | 480年オドアケルにより暗殺される |
ロムルス・アウグストゥルス | 460年 | 475年10月31日–476年9月4日 | 蛮族の軍師オレステスの息子。母親はローマ人だったが、半蛮族の皇帝もローマでは認められてはいなかった。オドアケルに敗れた父オレステスの失脚により、帝位を返上して追放される。以降、法律的には東方正帝が西方正帝を兼ねることとなるが、政治的には西方領土という概念自体が消失した。 | 不明 |